くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

ウクライナに続き、日本は台湾を救え。WHO復帰支援法成立

台湾の世界保健機関(WHO)総会へのオブザーバー参加復帰を後押しする法案に、バイデン米大統領が5月13日署名し同法が成立、米国務省に復帰に向けた具体的な戦略策定を指示する内容でした、台湾のオブザーバー参加は蔡英文政権発足以来、中国共産党の反発により2017年以降実現していませんでしたが、アメリカの同法は「台湾の国際的な取り組みに対する中国の抵抗が増大している」と批判、新型コロナウイルス対策を含めて、台湾は世界の公衆衛生に貢献しており、国際的な協力から排除すべきではないと指摘しているものです。

毎年1回5月に開かれるWHO総会に、台湾は今年もオブザーバー参加できない見通しでしたが、先のアメリカ政府法案の可決で、今年から参加できそうな見込みができてきました、そもそも「台湾」が、創設立役者だったにもかかわらず、WHO会議に参加できなくなった事情、総会オブザーバー参加でさえ認められない状況ができてしまった経緯は、本土であるとする中国共産党のもの言いからですが、第二次世界大戦終戦後の創設当時そのWHOの基本体形を提案したのは、台湾(当時の中華民国)とブラジルだったそうです。

 

その戦後間もない頃、敗戦国だった日本がWHOに加盟できた経緯は、戦後国際社会の一員として復帰すべく、サンフランシスコ平和条約署名(1951年9月)と国連加盟申請(1952年6月)の前に、WHO加盟も目指していました、WHOは国際社会へのゲートウェイであり、台湾や日本にとっても象徴的な意味があるWHOに加盟しています(1951年5月)WHO総会は、年に1度毎年5月に開催され世界中の加盟国194カ国の代表団が集い、感染症危機管理を初めとする世界の保健課題について活発に議論する場です。

それに先立ち、1951年1月GHQは日本政府のWHO加盟申請を許可、日本政府がWHO加盟申請すると「日本の加盟申請は議題にのせることにした。それで今度の総会で可決になった場合には、日本政府の憲章の正式受諾書を国連事務総長に寄託して欲しい。そのあとで日本から出ているオブザーバーは正式の代表となるであろう」とWHO事務局長から打診があったそうです。

 

日本政府は、早速国会にWHO憲章受諾の承認を求め同年3月で可決、日本国はWHO憲章を受諾、その2カ月後に開催されたWHO総会では、日本のWHO加盟について、賛成54票・反対0票・棄権6票で無事に承認され、その場でオブザーバーという地位から正式な加盟国となった日本を代表して、当時の黒川厚生大臣が初の日本代表を務めました。

日本は、WHOへの加盟を通じ、国際社会の一員へと復帰する道を一歩進めたのですが、一方でWHO創設の立役者だった台湾(中華民国)は、そもそもWHO創設時からのメンバーであり、台湾がWHOを創設したとも言えるのは、1945年4月-6月開催のサンフランシスコ会議は、前年に米英ソ中の4カ国が開催したダンバートンオークス会議で作成された素案を基に、戦後の国際機構に関する議論・国連憲章を採択して、国連の設立を決定した会議です。

同会議では、もともと議題にはなかった保健問題を、中華民国(現台湾)とブラジルが共同提案し、保健の新たな国際機関を設立すべきと説いた結果、国連憲章が掲げる経済・社会的国際協力の目的の1つとして「保健」が明記され、国連の専門機関の1つとして「保健」が明記され、1948年のWHO創設につながったそうです。

 

しかしその後1972年WHO加盟国は「中華人民共和国政府の代表をWHOにおける唯一の正当な中国の代表として認め、WHOにおける地位を不法に占拠している蒋介石の代表を直ちに追放する」とWHO総会で決議し、台湾はその地位を追われました、しかし日本は「地理的空白を生じさせるべきではない」とし、感染症危機管理に関する日本政府の一貫した立場で、新型コロナ危機に揺れる本年5月のWHO総会に際しても、加藤官房長官は「地理的空白を生じさせるべきではない」として、台湾のWHO総会へのオブザーバー参加に支持を表明しています。

1997年以降、台湾はWHOのオブザーバーとなるべく活動してきたが、WHO総会の正式議題に加えることすら政治的に叶わない状況が続き、2007年にはオブザーバーではなく、加盟「国」となるべくWHOに申請したが、それもWHO総会で加盟国に拒否されました、しかし2009年に事態は一変、台湾はWHO総会のオブザーバー資格を得てWHO総会に参加、1971年の国連総会決議で国連を追われてから初めて国連機関への扉が開かれたのですが、その背景には台湾国内での民進党から国民党への政権交代があったからと言われます。

 

当時の事情を抜粋すると、

台湾独立を推進する立場にある民進党陳水扁政権(2000〜2008年)では、台中関係は良好ではなかった。その間、国民党主席の連戦は、2005年に中国の胡錦濤国家主席と会談を行い、関係強化を行なっていた。両者が発表した共同声明の中には、「WHOの活動への参加といった優先的な課題を含め、台湾民衆が関心を持つ国際的活動への参加を巡る協議を促進する。双方は、最終的解決を図ることのできる状況を作り上げるために協力する」という内容も含まれていた。

また、2008年には、中国の胡錦濤政権は、台湾政策の指針として6項目を発表し、その中で「『2つの中国』や『1つの中国と1つの台湾』といった状況を作り出さない限りにおいては、中国は台湾の国際機関参加について、適切かつ妥当な方法を議論する用意がある」と述べるなど、「1つの中国」という中国の掲げる原則を犯さない限りにおいて、台湾のWHO総会への参加について柔軟な姿勢を示した。

そのような政治状況下、2008年に台湾総統選挙で国民党が勝利し、馬英九政権が誕生。国民党の政権復帰によって、台中緊張関係が緩和に向かった。そして、数カ月の交渉の末、当時のWHO 事務局長マーガレット・チャン(香港人)が台湾保健省に招待状を送付し、台湾のWHO総会へのオブザーバー参加が実現した。

と言うことのようです。

 

WHO総会で日本政府代表団は「日本は、インフルエンザなどの保健問題に対する公衆衛生的対応において、地理的空白をなくすことの重要性を幾度も強調してきた」台湾のオブザーバー参加を歓迎しますが、2016年の台湾総統選挙で蔡英文率いる民進党が勝利、再び政権が交代するとその翌年の2017年から台湾は、WHO総会のオブザーバー資格を剥奪され、現在まで至っているということです。

これまで日本は、「保健」という分野を通じて、国際社会とのつながりを維持しようと努め、戦後の日本では国際社会に一早く復帰するためにWHOという場を活用したし、戦前の日本でも国際協調派は、近衛内閣が1938年に国際連盟の全技術的委員会との関係を断つまで、戦前に存在した保健分野の国際機関である国際連盟保健機関(LNHO)の議席を通じて国際社会とのつながりの維持に努めてきたように、日本も台湾も国際的な保健の繋がりを重要視してきました。

 

日本ができることは何かといえば、日本にとっての国際社会へのゲートウェイを築き上げた、立役者である台湾がその立場を追われたことは、国際政治の現実としても日本は、WHO総会へのオブザーバー参加を含む、WHOのさまざまな活動に対する台湾の意義ある参加を引き続き訴え、感染症危機管理の地理的空白をなくしていく活動が求めらます。

地理的空白を無くすための活動は、WHO総会へのオブザーバー参加だけに止まらず、21年6月に日本政府が台湾にコロナワクチンを送って支援したことも、日本にとっての友人台湾が、アメリカの法案によって再びWHOの扉をくぐる日が見えてきました、台湾は世界でも稀有なコロナ対策に成功した国であり、その努力と知恵は多くのアジアの知恵として、隣人同士感染症危機に対し、安全な地域を共に作り上げてほしいです。