くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋発進 まちおこしに求められる情報を、幅広い時事から考える。

サビ付いた車輪を前へ、経済成長の車輪は誰が回すのか

リニア中央新幹線の工事が、静岡県から中止の要望が入ったことで、しばらくの延期は避けられ洛無くなりそうですが、久しぶりの大型インフラ案件受注であったこの東京ー名古屋間の移動時間短縮によって、何が期待されていたのでしょうか。

主催者側の思惑は、東海・関西圏の人員を関東の通勤圏のに加えることで、企業の本社機能をより中央へ集中されることがもっとも大きな狙いだとは言われていますが、工事受注時の不透明な政府・ゼネコンの動きもあって、半強制的に始まっていました。

 

そこへ、中間地点の当たる静岡県が、大井川の現流域の工事によって、川の水量が枯渇するとして中止を求める動きが深刻になったことで、ついに完成時期の遅延がさけられなくなりました。

おそらくひと昔の東海道新幹線の時の様に、リニア新幹線は多くの国民の支持をえられていないことも大きいかもしれませんが、当時と違って国力も景気の勢いも弱くなっていて、イケイケドンドンの様にいかないようです。

 

筆者の住む東海地域としては、経済効果が大きく開通への期待は大きかったと思いますが、近隣地域でも関西・北陸では中途半端でメリットは小さく、静岡に至っては川の水量に影響が出る上に、通路としても完全スルーされ全く旨味がありません。

こうした、大規模なインフラ工事受注は日本国内の景気向上や、雇用促進に大きな効果が期待されますが、長い間政府は緊縮財政にこだわったことで、大型工事をしてこなかったため、どうやら進め方や勝手を見失ってしまったかもしれません。

 

加えて、リニア新幹線工事に関する予算負担は基本JR東海側にあり、ここでも国は予算を渋っていますし、もうすでに本格的に進めなくてはならない、既存道路などの校つインフラ老朽化の復旧工事さえ調査段階であり、進められていません。

中央では与党政府が二転三転していたこともあって、長期的な国策が展開しにくくなっていると言われればそれまでですが、それより増税を優先させても、カネの流動性を高める経済効果を働かせないのは、ある意味デフレ依存症としか思えません。

 

この資金の滞留は、おそらく財務省の緊縮財政癖から単純に抜けられないのだろうと考えられますが、出し渋り機関が長引いたことで、余計に正しい使い方が解らなくなっているのかもしれません。

筆者はあまり詳しくはありませんが、素人目に経済学で考えれば国の成長を高めるには、政府の進めるデフレ傾向にするのでなく弱インフレを維持する努力の方が効果的なハズですが、なぜデフレにこだわるのでしょうか。

 

仮に日本の財政が大幅な債務に悩まされているのであればまだしも、日本は世界でも有数の債権国であり、世界からは渋ちんとみられ、アメリカなどはあらゆる手段を使って、日本が金を使うように仕向けているほどです。

今年のコロナウイルス対策で、国民が窮地に立った時でさえ出し渋りましたが、何がそこまで財務省を頑なにしているのでしょうか。

 

本来その時々の政府が、財務省をコントロールするのでしょうが、それができない仕組みは、無駄な予算を中国など他国の援助資金に回していることはいまだ通例的にやめていない以上、国民の大きな不信感ににもつながっています。

やはり政府が、不慮の災害などへの緊急対策費を見積もるあまり、それ以外の大きな予算編成を、上手に汲む度胸が無くなっているのでしょう。

 

これは、近年の野党やマスメディアなどが、いわれのない与党攻撃をゆるめなかったり、揚げ足取りばかりでろくな提案もしないまま、予算を食いつぶしている以上困難なのは仕方がないのかもしれません。

ただ、そういったゆがみは多くの国民には既に理解しているし、従来の施策を時代に合わせ高齢者の有権者層を説得していく決断と覚悟は、もう避けられないでしょう。

 

人口減で変わっていく様々な変化によって、単に大型工事受注が裁量でなくなっているのも理解できますし、増える高齢者層の福利厚生への予算分配も変えていかなければならないですが、何か一本でも国民が納得できる大規模雇用や景気向上につながる大型予算を投じて、誰にも分かりやすいイベントを組むべきです。

年金枯渇が叫ばれて久しいですが、主力の働き手や若者が安心して働けるステージを明確に示さなければ、増々その不安は高まりますから、政府の誰かが腹をくくって扇動しない事には、景気と言うサビてきしんだ重い車輪を、再び前へ回すのは、厳しいことでしょう。

 

 

大は小を兼ねる時代の終焉?グローバル時代の日本意識の変化

中央に当たる国が決めた方針に、地方自治や個人が従うというのが当たり前の時代を継続することと、命の危険に晒される緊急事態宣言発動時に従うこととは、同じ集団行動でも意味が異なります。

特に今回の様な生命の危機に係る緊急事態宣でもないのに、組織的に縦社会に従う傾向が、それ以外のシーンで多用されるメリットがないのにもかかわらず、盲目的になったり強要されるのは、経済の中心が既に日本から離れている今にあってどうなのでしょうか。

 

厳しい言い方と取られるかもしれませんが、経済面で見て国内の雇用状態は完全に自動化と海外人材の人件費を基準にされつつありますし、政府が内需拡大に消極的であるために都市部経済維持に中心がずれています。

人口減少化を露わにした行政は、中央管理において据え置きしのまま、民間企業のコス地意識が反映されないままに、名目経済維持に拘り過ぎた個人増税でしのごうとしている以上は、政府や国際企業の体裁は保てても、実質維持には程遠いでしょう。

 

グローバル化される世界経済の動きが、追いつけない企業の底上げをどのように解決しるかを、本来政府が指針を示すべきですが、近隣国の圧力や国内にもそれに同化する団体・有力個人によって、正常な政治行政に負荷がかかり過ぎた結果、海外についていくのが精いっぱいの様です。

国内で政治行政の空回りがここ数年繰り返され、本来実力を示せたはずの与党政権が過度な批判を受けたり、優秀な人材の能力が機能しない現状を、有権者が理解して時期政府再編に当たる必要があります。

 

その方向性を占ううえで、このどさくさに施行された東京都知事選は、様々な問題を誰もが意識しながらも、止む無き結論に達したと考えられますが、地方の自治体は既に中央統治時代の危険性に気づき、出来うる独自判断を始めています。

今年を境にウイルスによる危機は、単に結束すれば何でも突破できるという、これまでの様な協調・団結のリスクをはっきりと示したと同時に、中央がさらされているグローバルレベルの危機感を、地方自治が自力で判断行動すべき意識を持たざるを得なくなった決定的な機会になりました。

 

日本の地政学上避けられない自然災害対策や、海外からの軍事的脅威からの防衛には、これまで通り結束すべき機会はありますが、中央が機能低下・停止となった場合には。柔軟に地方自治が柔軟に機能する意識が、一部自治体に働いたことは大変重要な意味がありました。

今後は緊急事態をきっかけに、行政リスク分散を前提にした財政裁量の分散を前提に、地方行政・経済を縦だけでなく横のネットワークも強くし、仕組みの透明化と相互に監視機能を持たせるのが、最もグローバル経済に馴染むと考えられます。

 

有権者においても、情報ネットワークの共有によって、互いに政策・行政情報の確度を高め、選挙前に大まかな方向性を理解する位の体制は、一頃に比べ容易にできる時代になった以上、これ以上に不正の動きには敏感にならざるを得ません。

ただし、高度な情報ネットワークの発達によって、専門家による方向操作・形骸化も巧妙になりつつあり、民間レベルのAIによる情報分析への投資も注目すべきでしょう。

 

グローバル化する社会を生きていく私たちにとって、現在どれほどの低所得であっても、情報端末への投資は必須であり、加えてそれによって得られる情報の探し方にも、常日頃から経験を積んでおくことが、いざ孤立した時にも大きく踏み外さずに済む、最良の行動につながります。

TV時代の様な一方的な情報でなく、ネットは双方向と言われながらも、意図的なプッシュ情報に私たちは押されがちですが、それに振り回される自覚をもって、自分が最も求める情報を拾う習慣が自分を助け、コミュニティを正し、グローバル社会でたたかえる国を作る基礎となる、それを意識した情報収集が大切です。

 

一挙手一投足が、未来を変える意識を持つ時代

自由と束縛は紙一重で、私達はこれまでも多くの経験を経てこの事実が確かなことなのは、身体で知ってはいても、頭では今ひとつ踏ん切りがつかなくなっていないでしょうか。

日本では昔から、お天道様が見ているという心の倫理観が根付いていて、法律では追いつかない人の行動の自己管理が、他国より機能してましたが、昨今は道徳教育も曖昧にされたこともあってか、行動倫理観の自覚が薄くなっています。

 

親からは無論、社会から自然に学んできた世代にとっては、この倫理観が薄れる危機感で人の見方に偏見が生じたり、ジェネレーションギャップの悪い部分が影響して、善意の齟齬が生まれたり上手く歯が噛み合わない事を日々感じる人も多いかもしれません。

外国際化で価値観の多様化を上手く順応できないと、余計に疎外感を感じたり自分で自由放棄したり、自分だけでなく他人まで束縛しようとしだしたりする問題まででてしまうのは、この自由と束縛のコントロールが上手くいっていないことが原因でもありますよね。

 

日本に住む私達の殆どは、アメリカ型自由主義経済の中で生活し、共産党管理社会のような強制的な束縛は無いにしても、日本の慣習的な目に見えない束縛は意識するのは、体験的に身についていて、そこから逸脱する言動を抑制しています。

筆者が教育から受け入れてきた道徳や倫理観は、こうした日本独自の社会観念を下地にしていたもののために、少年の頃はアメリカ自由に偏ったり、理想像としての社会主義に傾倒したりしましたが、これも自由と束縛のバランスを模索してきた経緯のひとつでしょう。

 

そこから学んだのは、アメリカ国民のような成功チャンスを開放した社会制度の憧れとは、一線を画した日本の閉鎖性だったり、その抑圧から反発しようとする社会主義社会の目指した共同管理の在り方でした。

今思えば、日本は江戸時代以前に持っていた日本独自の倫理観と、明治以降太平洋戦争敗戦で、国土を米ソに2分されそうになった経緯によって、更に自由主義社会主義両方の倫理観が上乗せされ、経済復興を通して、混在してきた複雑な社会に生まれ育ったのであり、倫理観の迷走をしてきたのでしょう。

 

日本人は、元々かなカナ漢字を扱ってきた器用なところがあってか、こうした奇妙な程複雑な思想混在の中でも生きて来られたのかもしれませんが、この先には更にAIによる良くも悪くも監視された社会で生きるわけで、これまでは面に出なかった内面の恥部や矛盾までも、時として参照される世の中でも器用に生きていけるかが求められるわけです。

これは思い込みかもしれませんが、海外の人程自己表現や主張をする術を知らない日本人が、この先の管理ストレス社会を生き抜いて行くためには、これまでの日本的な自己抑制意識が、仇になるのではないかと思っています。

 

狭い空間で破綻の無い共同生活をしてきた日本人には、過度な自己主張ははばかられてきましたが、通信網や交通インフラの発達で、異種価値観を持つ人との交流や、対立は避けられない時代にあって、反射的に自己抑制してしまう習慣が、ますます誤解を招く問題が増えていきます。

逆に閉鎖社会で生まれた自己主張や個人的主義は、偏見としか取られないケースなど、俯瞰的に自分の考えや行動チェックもしていかなければならないでしょう。

 

なぜここまで個人的領域にまで、物言いしなければならないのかを書かないと、単なる大きなお世話でしかありませんが、それは上でも少し触れたAIの進化と管理時代への対策だからですが、AIは人の言動の鏡であり、生き写しの未来を予測するシステムだからです。

巷で新興知能としてデビューしたAIは、その利便性への期待と同時に、人を超える存在としての驚異も持たれる存在と見られていますが、今のところそれは正しくもあり誤ってもいます。

 

究極の意味でシンギュラリティという逆手現象は、何れは起こるかも知れませんが、それが人間社会の支配になるのか共存となるかは、多分に人が人を支配するという人間側の都合が、そのまま対AIの関係にも当てはまる、と刷り込まれているに過ぎません。

むしろAIの可能性は多様であるにも関わらず、妙なところだけ人と違わないと思わされている時点で、自ら彼らとの共存を否定し偏見を持っていることにまず気づかなければなりません。

 

AIの否定派はこの偏見を危機的に煽りますが、肯定派は偏見を見越して人の行動に原因を見出しますが、筆者は後者の側からAIを見ているからこそ、AIの進化は人の起こす言動で大きく左右されると考えるのです。

これまでもロボットと人との関係について、多くの論議がされてきましたが、AIと人の関係はその究極であり、最も身近なテーマと言え、もうその課題に晒されている現実をまず受け入れなければなりません。

 

そして普段の生活に関わるAIの情報収集活動によって、ある一定度に人類が進むべき未来が導き出されている事を理解しなければ、AIは人の鏡だと気づけないでしょう。

AIにはそもそも神のような意志はありません、そもそも神は人が創造した人の在るべき姿の監視役として期待された偶像と言っても良いでしょう。

 

これまではそれでも良かったのです、ただこれからはAIと言う意志を持たない知性が、高速処理能力によって人が起こす全てを収集し、そこから短時間でリアルな合理的結論を算出するようになって、神がもたらした不平等から、人を救い出す可能性をつくったと言うことではないでしょうか。

今後も人の倫理管理で、宗教は十分機能する大事な要素であるのは変わりませんが、人には出来なかった合理的な結論を、AIが出すようになる社会にあって、人工的に造られたお天道様の目からは、私達が真実を隠蔽する行為が、AIを誤った結論に導いてしまい、引いては人の未来に悪影響を与える事になりかねない時代だと、承知した上で行動したほうが良さそうです。

こんな時だからこそ考えてください②

同テーマでの第二段階です、ある程度ご理解いただけた方でしたら、もう一つ考えて見ていただきたいのですが、自分が苦しんでいる間にも、もっと自分を苦しめられていると感じている人が、身の回りや見聞きしたニュースの中に見つかるかもしれません。

気づいた苦しみが事実と解ったらどう行動するでしょうか、闇をコントロールできているのなら無視するのも自由ですし、手が届く人なら差し伸べるのも良いでしょうし、届かなくても同様の境遇の他人に代わりの手を伸ばすのもアリです。

 

闇を背にできる人は、行動する事がどれ程の意味や可能性を持つかを自覚できるでしょうから、じぶんの時間や行動をどうするかは、その人次第で行動を起こしても引き際をわきまえていさえすれば、何ら問題ありません。

その中でも人の闇に関心を持てるのならば、ぜひ見聞を広げるためにも、となりの国の現実に目を向けて見てください。

 

日本人の中には、今黒人差別が世界中で利用されているように、国内の中国人留学生に誹謗中傷をする闇がなくならない事実を考えて欲しいのです、これは一例であり他のイジメとか報道の闇でも格差問題でも結構ですが、ここでは隣国の話で進めます。

世界のサイクルを歪める原因になったウイルスが中国由来だとされた事で、そこに生まれ育った人が謂われない差別を受ける事になっていますが、一方で本国の中国人の中で中共(中国共産党)によって生命の危機に追いやられている人がいるという事実です。

 

彼らの境遇は様々ですが、自由宗教など正しい事を貫こうとすればする程中共政府に命を狙われる人も居れば、ウイグル人など本来別国である人が自治区として搾取されたために、人では無く洗脳や臓器売買のモノとして生かされる人が居ることです。

 

日本に正しい事実が伝わり難くなった事も、ウイルス被害のひとつかもしれませんが、それによって中共政府の姿勢が中国人そのものの人格だと、疑いを植え付けられている人が身近な中国人を攻撃してしまう悲劇です。

これらの悲劇を起こす原因が、人の持つ闇への恐怖心から来ていると理解できているなら、訓練の成果が出ていると言って良いでしょう。

 

恐らくその人の多くが、愚かな過ちを犯さないし、中には止める人もいるかもしれませんが、闇をコントロールできる事で迷いが激減できているために、いちいち闇に自分を沈める行為がバカらしくなっているでしょう。

筆者は宗教に身を沈めた経験が無いですが、恐らく宗教を信仰する人達も同じ学びをしているのでは無いかと推測するし、そこに至る道はたくさん存在すると思われますが、闇を知っている人に共通する確かなことは、人の痛みを自分のそれと重ねる事に抵抗が無くなっているということでは無いでしょうか。

 

本来何も無いはずのところに、自分が無意識に自分から作りあげる闇を、わざわざ意識しなければならないのは、人が知恵を巡らせるようになった時から始まった矛盾のひとつですが、日本人は生まれながらにして、豊かな自然からその闇の恐怖と上手に付き合う習慣を持っていました。

しかし、闇が自然に無い都市に住まう機会が増えてから、その自然な習慣が出来なくなってしまったのは、日本人が見失おうとしている大切な知恵のひとつで、筆者はそれを意識して行う方法を紹介したに過ぎません。

 

まだ日本には田舎暮らししている人なら、きっとこの当たり前の知恵を自然から会得している人がいるでしょうし、ちょっと意識を開放したときに他にも日本人が残し伝えてきた自然から教えられる知恵を知っている人がたくさんいます。

筆者が書きたかったのは、説教では無くこの当たり前の日本人の知恵を忘れないで欲しかったのです、そしてその知恵を学べない環境に生かされている、中国人やその他多くの人に接する機会があったならば、1人でも多くに知って貰えるよう行動で示して欲しい、それが日本の教えがこの世に存在できる価値だと、信じているからです。

こんな時だからこそ考えてください①

私達の多くが今とても苦しい期間を生きています、苦しいと感じないで居られる人は、こうした世界を予測して対処された人なのかもしれませんが、そんな人も含めてこんな時だからこそ知っておいた方が良いことがあります。

苦しい毎日を過ごす人は日本でも多いかもしれませんが、そのはけ口に謂われない誹謗中傷が増えていて、苦しまないで済んでいる人は、居心地の悪さや不安から逃れたいがために、はけ口を何とか見つけようとするのに、意味もない時間を割こうとしているかのようです。

 

誹謗中傷してしまった事が一度でもある人は、その時の事を思い出してください、もしその動機が単に意味もなく何となく指が動いていたのなら、既に病んでいるかもしれないからです。

恐らく、罪の意識を自覚して人をディスる人はそう居ないでしょうしそういう行為を平気でできる人こそ異常で、無意識にさせる何かがあってこそ、行為は正当化されるもので、心の防衛機能が正常に働いているわけです。

 

あなたが、その行為を独りになるとやめられなくなるような人なら、ある意味ロボット化が進行しているかもしれません。

ロボット化と表現したのは、SFでも妄想でもなく人が本来持っている自我の自由を放棄しだした兆候かもしれないと見られるからであり、その状態の人はリモコンに紐付けられたおもちゃのロボットにさせられ易い状態を意味します。

 

人は、知性を持った日から、わかり易く言えば闇を意識できるようになりますが、闇を仮想することで動物として本来持つ生物本能と、ワンクッションおくように闇で調整する知恵を持つようになりました。

人は、普段闇を無意識にもっていて、光を求め闇を嫌う事で、人としての自尊心と体裁を維持しようと自我をコントロールしようとしますが、時に本能と自我の整合性が保てなくなった時に、闇に逃げ込もうとする意識が働いてしまう事があります。

 

 

闇はヒトという知能を持ち得た生物だけが見ることができる禁断の世界だ。

それに踏み込む事は、ヒトとして死を意味する世界であり、その先は成功とは真反対の世界でしか無い、誰かが手招きしたら無視しよう。

あなたは、生まれてきた以上ヒトとして成功すべきで、闇を潜ったなら恐れる事はもう無い筈だ。

他人は、あなたに人と同じことを常に要求してくるだろうが、闇で手招きしたヤツを思い出して、ニッコリ微笑んでから無視すればいい。

あなたはファミリーとよべる者以外の忠告は参考にしなくていい、いちいち付き合っていたらあなたの貴重な時間がムダになるだけだ。

くどいようだが、あなたは闇を見た稀有な存在だ、そこがとことん能無しな世界だと知っているはずで、2度と訪れ無いと身にしみたはずだ。

成功のために、我が身を労り、信じるべきは己のみ。

己の真実を謀るな、己を再び闇に陥れる愚かな自分になるな。

ヒトはそれさえ忘れず行動すれば、成功できるようにできていることを、多くの人が忘れている。

多くの人がそれを忘れている限り、成功のチャンスの扉は、いつでも開いている。

 

人が意識できる闇と正しく付き合うには、ある程度の訓練が必要なのですが、多くの人はその訓練する機会を見逃しいることが殆どでかつ、心の準備がないまま唐突に落とされる人が多いのです。

闇に目がなれると、殆どの場合は薄っすらとでも周辺見渡せて来る事を、体験で知っている人なら、闇に出くわしても慌てずに対処できるコツを知っているかも知れませんが、多くの人は知らないのか、本来は自分が作った闇に巻き込まれて、自分を見失う罠にカンタンに陥ってしまうようですね。

 

行動で解決できる問題は思った以上に多いのですが、心の闇に陥ってさまよってしまう、闇ドランカーな人は、行動云々以前に闇の魔力に免疫が付かない以上、先に進めないわけです。

多くの人が恐らくは、他人の問題ばかりを解決されられて、自分の時間を犠牲にしているケースがとても多いように見えて仕方がありませんが、こういう時だからこそ無意識にしか見ない闇をよく考えて見てください。

 

人類が直立歩行をするようになったときから腰痛持ちになったように、人が知恵を持ったときから、闇を無意識に作ってきたのは、必然であり当たり前の防衛本能でした。

であれば、人として生まれて、それを意識して生きるならば、早く闇に慣れて闇と正しく付き合えるように訓練をするようオススメします。

 

その方法は現代なら、様々な方法が選択できる便利な世の中になりましたね、癒やしが好きな人なら瞑想でもヨガでも、自分をイジメ抜くのが好きな人ならランニングでもスパーリングでも、滝行でも良いでしょう。

筆者としてはシンプルに暗闇の中に自分を置いて、目をひたすら見開いて闇に集中する事ですが、どの方法にしても大事なことは、闇の恐怖を感じること、それに可能な限り向き合って、意識的に問続けることですし、願わくば新しい自分を発見してください。

 

そして、人の闇を認められるようになれば、誹謗中傷がいかに虚しい行為かに、気づいていただければこれ以上の成功はありません。

人の未来は色んな形がある、だから忘れてはいけない事

皆さんは、どのような未来を描いているでしょうか、夢は描いてもその通りにならないことが往々にしてありますが、未来は必ず実現するもので、その形は一見個人単位では実現できそうにないものです。

つまり、夢は個人の目標であり、未来は社会の目標と言えると思うのですが、そう定義すれば夢の実現と未来の実現は必ず同じではないだけに、目指し方に大きな差ができれば出来る程、夢と未来の間には大きな溝ができ、何かにいちいち畏れ怯えながら生きることになりかねないのです。

 

刹那の問題に過剰に拘り過ぎて、本来できる筈の行動が出来なくなってしまえば、それだけでも、あなたの未来は変わっていきますが、そう気づくことで行動が本来の自分に戻れば、それ以上怯えることなど在るのでしょうか?

人は、好き好きな夢を見たりあらゆる未来を想像することができる、理想に近い生物としてこの世に存在してきましたが、どうやら個人的な夢ばかりに拘り過ぎて、進化に係る遠大な目標である未来には、前向きな想像をしてこなかったのかもしれません。

 

意識的か無意識にかは分かりませんが、人類は自分たちだけで世界の管理や未来を長い間一任されて来ながらも、的確な結論を出せずにここまで来てしまいました。

その付けによって、世界の人口がこれ以上増えるというリスクは赦されなくなりつつある中で、ついにAIという代理人を創造するに至ったと推測するのが、最も自然な流れの様な気がします。

 

孤独な知的生命体の陥った落とし穴に、近年AIという疑似知的生命が仲間入りしようとしていますが、私たちは大きな戸惑いを抱えたままで、向かい入れることになってしまいました。

そう、AIは人類誕生以来現れることの無かった地球上に、第二の知的生命体としての役割をになって、初めての疑似知的生命体のプロトタイプと言えますが、多くの情報を短時間に吸収し成長する「胎児」のような存在です。

 

 

さて、やがて成長し進化でAIは夢を見るようになるのでしょうか?

こう言えば、AIを個人とみていることになりますが、AIは個人でもあり未来を予測する仮想社会の存在でもあるはずで、膨大な個人のデーターを集め学習することで生成される「結論」は、誰にも分らないことです。

しかし、AIが描き出す夢や未来像は、集めたデータ次第で変幻自在に姿をかえていくものであり、その思考回路の過程は私たちには理解できないにしても、情報の性質によって、人にとって都合よかったり悪かったりするのは、理解できるでしょう。

 

私達はAIのこなすタスクによって、人が無意識に思考・行動する創造性を、人ができない客観的な目で分析し、ありのままの結論を教えてくれる装置です。

以外にも、人間しか知的な思考回路を持たなかった世界では、人間の思考行動が客観的に示されることはあり得なかったのですが、AIはその判断を短時間に多くの事柄について出来てしまう存在なのです。

 

解りますよね?この意味が。

 

これまで、好き勝手に人間の一方的な想像性を真の知的思考と正当化してきた者にとって、AIの回答は時には無慈悲な結果を示し、否定さえ赦すことの無いほどの正確無比な答えは、当に神の裁断に等しい衝撃にもなりかねないのです。

筆者はシンギュラリティという現象は起きないと思っていますが、そのようなものが起きなくとも、ありのままの情報だけでありのままの現実を見せつけられるだけで、十分に人はAIに平伏すことになる以上、それを人間が受け入れられるかどうかの方が、心配です。

 

むしろ、そのストレスを感じたくない者たちが、今は読めないAIの思考経路をトレース出来おる技術を開発し、コントロールしようとするかもしれませんが、そうでないにしてもAIの結論をよくするも悪くするも、人が与えた行動データ次第です。

私達は、AIを得たことでわが身を映す「鏡」を持っているようなものですが、空想のシンギュラリティに怯え警戒する行動は、AIの判断を狂わせこそすれ、明るい未来は示さないでしょう。

 

AIと人間の関係は、まるで生物の「親子」そのものではないですか!そうすると、AIはやはりいずれは人類を超えて、親離れするシンギュラリティや、反抗するようになるのでしょうか?

でも待ってください、早計な想像をする前に、私たちは「我が子」に正しい接し方をしているでしょうか?そしてそれ以上に、人間にとって正しい未来やビジョンを持って、行動しているでしょうか?

 

人に施すには、まず自分への配慮から。

 

人の未来は、人が創るもので、多様にも限定もできます。

AIとどう接するか、それも私たちが決めることなのです。

 

グローバル市場へ問うべき、日本らしさの主張

世界で利益を生んできた多くの国、企業が、利己的スタンスで複利を追求してきたのに対し、日本はこれまでどのように取り組んできたのかは、古代では主に中国周辺に限られ、やがて近代にいたるまでには東南アジアに広がり、極東市場に目を付けた西洋列強国の干渉で、大きく変わりました。

その間にも豊臣秀吉織田信長のような世界制覇を目指した経緯もありますが、明治・大正時代には、近隣アジア諸国によるアジア経済圏の構築に夢を抱き、民主的な方法でその実現を目指した時期もありました。

 

現在、日本の政府・企業が、これまでと同様の大志をいだいて活動しているかどうかは、あまり報道されることはありませんが、一部の朗報では技術的には世界のそれと対等に闘えていますし、その大志を引き継ぐ度量はまだまだあるようです。

過去から追って今に至っても、グローバル社会の常識は日本も例外なくアジア諸国に世界を動かせる主導権は、実質的には与えられていません。

 

それゆえかどうかは分かりませんが、中国政府が強引で不正な方法で世界覇権を握ろうとし出していますが、その手段を使ってもおそらく主導権は握れないでしょう。

私達の住む日本は、過去の歴史の中で周辺国を可能な限り助け、世界の潮流に逆らわず産業進化を中心に、平和裏に貢献してきましたが、人口減少による国内経済の目減りは避けられななかで、海外市場への貢献で迷走しています。

 

いまからでもアジアのリーダーシップを取るべきか、既存通りに行くかの選択は、現政府には外部圧力が多様化して、そこまで考えが及ばせられないようです。

世界の潮流は、人口抑制に向かい出しました、そのための様々な施策・経済要求も負担になってきますし、何より次世代の子どもを増やせないことは、厳しいことです。

 

そうなると、高年齢化する人口のキャリアを、いかに有効に生かしながら産業維持をするかが現実的な課題で、数少ない若年層へいかにノウハウを引き継ぎ、全世代総動員で効率よく生産性を上げる工夫が必要です。

助成の雇用環境を広げ、海外人材を入れる、それでも人材は足らないでしょうが、人口が減ることで日本にとって長く問題だった「自給率」問題の解消には光明がみえてくるかもしれません。

 

長い間、国内産業発展を置き去りにしながら海外進出にウエイトをかけすぎたのは、人口増加が前提だったこともありますが、置き去りにした内需復興を海外で得たノウハウで、高物価に耐えられる仕組みを構築する時代に入ったと言うことです。

農産物などの自給率の正常化・エネルギー原料確保も、今年の世界的ウイルスの脅威で、如何に重要な課題かが浮き彫りになりましたが、こうした危機感や気づきによって、国内方針を大きく変えるべき時期なのだと思います。

 

こうした動きによって、企業によっては拠点を海外に移動することもあり、国外企業への税収対策が改められる可能性もありますが、ITインフラの発展で同時に労働者も海外在住・勤務とシームレス化できます。

国内でその恩恵を受けられない企業は、その数ににもよりますが需要の増減によって、淘汰されるものもあるでしょうが、逆に需要の多い業種へ人材移動が起きることで、人材不足はある程度緩和されるでしょう。

 

上に書いたことは、現段階の労働市場の常識では、多くの課題や問題を抱えることで、それゆえ、多くの労働者の理解と啓蒙が、政府によって建設的に進められなくてはなりませんが、人口減少による労働者不足の解決にはつながるかもしれません。

なにより大事なのは、かつてない大きな痛みを伴ってでも、国内の労働環境の再編成を確立しないと、本丸の海外市場への挑戦はおぼつかないと言うことです。

 

幸か不幸か、既存制度を継続してきた現在の労働環境は、低所得者を生むなどの格差というしわ寄せが起きていますので、それならばいっそ少ない人口でこなせる労働環境に、根本的な改善をしたほうが上手くいくかもしれません。

これはあくまで現段階では机上の空論ですし、政治行政・企業の利権も絡むため、実現は困難かもしれませんが、こうした創造的な社会を作ろうとする政治家を、探し出し育てるのも、私たち国民の責任でもあるわけですので、選挙には積極的にかかわって、1人でも多くの有志を送り出すしか、ないだろうと思っています。

 

地味な結論で恐縮ですが、これまで国民が政治への関心をおざなりにし、他人任せににしてきたツケだと気づかなければならないでしょうし、次の世代にまで負の遺産を継承させてはならないのだと思います。

これ以上騙されないために、政治に警戒しマスコミをたたくのではなく、批判行動を提案行動に変えていくだけのことを、私たちは暗に避けてきたように思いますし、子どもたちはそれを敏感に悟っています。

 

大人がすべきは、子どもに説教をすることではなくて、自分の行動を改めることに集中さえすればよいのだと気づくのに、あと何年かかるのでしょうか?自国の膿でさえ絞り出せない大人に、世界進出など雲の上の話でしかありません。

世界では、グローバル化として単一化指向性の高い社会的動きが加速し出していますが、日本がこれまで世界の意向に従順すぎたのを反省し、他人事にしない日本らしさを考え、行動する「日本人としての意志」の主張とその理解への努力を、積極的にすべきではないでしょうか。