くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

マネー資本社会が日本社会に与えたもの、奪ったもの

五輪オリンピックは開催国らしく多くのメダルを獲得したことで、この多くの災難を乗り越えようとする今、私たちに多くの希望と勇気を与えられた気がします、この後のパラリンピックも無事成功させ、人の潜在的な力も大きなものだと、アピールしてほしいもです。

さて、その五輪で注目された数ある競技の一つ男子リレーがありますが、バトン渡しの精度に拘り過ぎて失敗しました、結果は残念ですが私たち日本人は、なぜかリレーに拘るところがあるようです、連携や繋がりが最高の結果を生む、この価値観を大切にする日本人でも、金が価値あるものだと刷り込まれ、本来の自由を見失いつつあります、金が無くとも社会は成り立つという選択肢は無いのでしょうか。



最近つとに世界規模で起き続けている、自身洪水干ばつなど自然災害や暴動混乱、ウイルスにかまけた経済混乱、そしてついに世界共通の目標とされたCO2削減などの環境問題、これらは真面目に分析すればひと昔前には、SFか異世界絵空事でしか見聞きできませんでしたが、ここにきて現実に起きている、この事実が人口気象兵器や人為的なものであるかどうか、それは対して重要ではありません。

これらの変化は長期的に見れば何れ起きうる現象や試練です、肝心なのはそれが起きた時に、私たちは逃げるのではなくどう行動し、環境に合わせた価値観を柔軟に変えていけるかどうか、基本的な生物が生き残るための適応力が、問われていると考えた方が現実的ではないでしょうか。

 

そして過去からその淘汰から生き残ったものが繁殖するという、地球規模でのサバイバルであり、その準備のために貯蓄をしなければ、と更に金を稼ぐことに躍起になりますが、これは日本人が真面目であり、政府に意見するとか抗議場合によってはデモや暴動を起こして、自己主張する海外の人々とは異色です。

実は世界では多くの人が、お金が流通すれば問題が全て解決することは無いと、気付き始めているのですが、日本人の多くはこうした自由で、柔軟な発想には至りにくい環境に住まわされているのかもしれません。

 

かつて、カトリック宗教全盛の時代に培われた価値観は、そのまま世界共通の常識にまで様変わりし、何時しかその実現を金が流通することで、価値観は値踏みされランク付けされるようになった経緯があります。

だからと言って、今後もそれを人が造ったまやかしの金で解決など出来ないと、多くの自称賢者は知るべきで、太古に神から授かった英知を自称神の伝道師達は、自らが神であるかのような振る舞いを現実に起こし、金を使って無知な人々をまやかしてきたわけです。

 

そのカトリック神教は価値観を疑われ、多くの革命者たちが新しい価値の想像を目指し、新大陸へ移っていきます、しかしその新世界でさえ、彼らの目標は達せられましたが、それはやはり金の魔力を高めるためにしかなりませんでした。

欧州では旧勢力が北米では新勢力が、時には結託し時には離反しながら、結局は金の勢力圏を広げる覇権争いに過ぎません、その証拠に今でもその覇権の中立国が世界を動かしていると言われているからです。

 

日本はその覇権争いには最も地政学的にも離れていたため、影響はここ100年程前からしかありませんでしたが、一番遅かった反動で、短期間で一気にマネー社会化は進み、今ではその渦中に翻弄される最も過酷な、マネー環境実証実験国となり下がりました。

日本でも確かに金はそれ以前からありましたが、金が全てではなくむしろ食に通じる米がそれ以上に価値を持っており、天候による不安定な米によって、適度な米価値のコントロールは意図的に出来ない仕組みでした。

 

そんなそもそもマネー資本世界とは縁もなく、価値観が金には無かった日本が、本格的にその牙城を崩されたのは、ご存知江戸時代末期からで、宣教活動に紛れて市場拡大を進めていた欧州勢と、その後には新世界の北米勢がほぼ同時期に、日本を金たらしの新市場に仕立て上げるために、影響力を高めていったのです。

その後どうなったのかは、基本的な経緯は皆さんも学校で教え込まれた通りで、ただこの教え込まれた一連の経緯は全て、侵入者側による仮想歴史でしかなかったことは、日本人の私たちにとって、根底的に価値観のすり替えをされたに他なりません。

 

その後の歴史はさらに悲惨で、日本人が日本オリジナルの歴史を自由に継承する権限を奪われ、マネー漬けにされ(中国(清)はアヘン漬け)一部の日本人有志を駒にして、他のアジア諸国が植民地化されつつも、日本だけが発展=カネ社会継承国に仕立て上げられた、その中で皆が良く知る有名人や、人気の高いあの人物も欧米の資本の駒として動いていた、と最近の研究では判明しているそうです。

明治維新で日本は日本でなくなった、欧米の傀儡国になり下がったと言われる所以は、都合のいい歴史だけを見ていては理解に苦しむでしょうが、例えば江戸時代末期に弱小化したとされる江戸幕府には海外よりも優秀な藩士は沢山居たし、明治維新などに変わらなくとも、十分に世相を維持できたはずなのです。

 

日本らしさを残せたはずなのに、そうならなかったのは欧米からの資本投入で、幕府・維新双方から内部分裂をしかけ、米の価値を貶め金の価値を高めた結果、多くの政治家がマネートラップの餌食になって、重い借金を背負わされたように刷り込んだのです。

この手順は、かつて南米や北米の種族インディアンが金漬けにして、詐欺的に搾取した手法と大して変わり有りません、時代が新しいだけ多少巧妙になっているだけで、国内の金銀を紙切れ同様のマネーと価値混同させ、不等な交換でごっそり本来価値のあるものを、猫削ぎ奪った点で、同一です。

 

日本で言われていた徳川埋蔵金や、その後第二次世界大戦のために溜められたM資金も、ほぼ同様の手法で、”合法的に”奪われたと筆者は見ていますが、そもそもマネーを資産と思い込まされている時点で、昔も今も日本人はめでたいと言えるのかもしれません、実はマネーは負債でしかなく、その借用書程度の価値しか無いい筈で、その紙切れを価値ある金銀と安易に好感してしまう時点で、如何に当時の政府は欧米に体よく丸めこまれ、金の価値を最大限に刷り込まれたか、良く解ります。

つまり、現代の私たちも金を資産と思わされ、その流通に加担しているに過ぎないことを、まず知らなければなりません、逆にその価値を十分承知した上で、その流通や金増やしに興じるのはありかもしれませんが、基軸通貨のドルを発酵するアメリカが、中共政府によってデジタル通貨に切り替わる近い未来に、基軸通貨覇権を奪い取ろうとするのは、そのためです。

 

これは、紙切れの利用価値を十分に理解した、マネー至上主義者ともいえる者たちが、その狭い視野で世界覇権を掴む道具に利用しようとしている分には、存在価値が示せますが、そもそも違う価値観を持っていた日本が、そのもめごとに加担するいわれはそもそもありませんから、今からでは困難が伴いますが、ベつの選択肢や自由があっても、なんらおかしくは無いのです。

日本は金などというのは補助でしか使わず、本来の需要の有る”モノ”にストレートに価値を置き、現在は金融市場で当たり前に使われる先物相場は、日本が米先物で初めて使っていたものであり、歴史的にも価値の創出には、世界より優れていたものです。

 

もっと以前には織田信長が始めたとされる楽市楽座は、公共マーケットの仕組みとしてはとても優れた仕組みであり、信長が暗殺されなければもっと進化発展したことでしょう、そうです私たち日本人の祖先は、世界に交わらない時代から既に世界の最先端を言っていた人達であり、その英知を私達子孫は継承される筈だったのです、後出しですが一つ考えて欲しいのは、本来日本人にとって当たり前に、その受け継ぐ伝統や歴史を改ざんしていったのはどこの誰なのか?今更責任追及も困難ですが、本来の日本の貴重な知的財産をこれ以上搾取されない事、その同じ轍を踏む愚行を終わりにし、真に温故知新を受け継ぐこと、これくらいは今からでも、私たちには出来るのではないでしょうか。

古いものが新しいものに変わる、この流れは避けられず、むしろ進化を畏れない姿勢は、大事ですが一方で、何でもかんでも欧米の言いなりに、彼らの価値観を押し付けられ、新しいモノと刷り込まれる謂れは、これ以上日本には必要ないでしょう、日本がこれからも日本らしくあるためには、全てを言われるままに受け入れるような、言いなりローカル思考を脱ぎ捨て、国際人として世界に信頼される日本、先人の智慧を掘り起こし、未来の担い手に正しく引き継げる日本、バトンリレーの様なものだと考えれば、オリンピック同様に国の特色をもっと面に出せるのではないか、オリンピック開催国の2度目の経験は、その切っ掛けにしようじゃないですか。