くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

「神様は私たちを見ている」日本人の八百万の神への大きな誤解

前回の統制・監視社会化がなぜ日本で浸透していったのかについてですが、日本にとって大きかったのは、戦前までの天皇制・神道崇拝の社会だった時代→戦後は個人主義リベラリズム台頭→グローバリズムへと思想転換する流れに、敗戦国としての劣等感をりようされ、体制側の要求を鵜呑みし過ぎたことではないでしょうか。

戦後日本は、高度成長期を経て世界の工場と化し、その代償に穀物や野菜など天然食材の輸入で自給率が世界でも最下位に落ち、それでも輸入・輸出の成長から世界市場への依存が急拡大、国内は3次産業がもてはやされ、都市機能を中心に世界依存が不可避に、グローバルシステムの歯車の一つとして取り込まれ行きました歴史が語っています。

 

その後も、米中の世界システムの覇権争いの中で、EUの環境市場拡大と併せて日本の産業は、脱炭素・DX至上主義に偏る一方で、世界市場へマネーをダダ漏らしして行く構造に完全に組み込まれてしまいました。

ここまでくると、もうかつての日本らしさを象徴する天皇制や神道の価値観は、無意味なものにさせられながら、女性天皇擁立や神社仏閣の信仰心の希釈化が起きても、新しい世代なればなるほど薄れていく、そして単なる世界歯車の一つとして機能すれば、日本は十分だと言わんばかりの状況に、自らを追い込んできました。

 

そして、何と言っても大きかったのは、元々日本古来からあった島国特有の生活環境を、巧みに利用されてしまったことでしょう、国土が狭いためにかつての日本人は、ただでさえ狭い平野部を有効に効率良く生かすために、そこに住まう人達にお互いの規律や決まりを見張り合うようになりました、狭いがゆえにちょっとしたエゴが、多くの人に悪影響を及ぼしかねない環境に対し、先人は智慧を絞った結果です。

第二次世界大戦後に敗戦した日本人は、GHQによってそれまで日本人の智慧の規律を焚書や教育改造で消し去り、これから来るグローバリズム社会に相応しい、新たな規律と考え方を徹底して戦後生き残ったものの、精神的余裕の無かった日本人の心の隙をつき、本来の日本人気質である実直さや素直さを巧妙に利用して、短時間で普遍的な流れを作り上げたのです。

 

これでお分かりの通り、実直にルールを護ってきたことで、日本を世界で比べても長期に平和や民主的な環境を維持してきたのにもかかわらず、守るべきルールを巧みなすり替えに、貧困だった日本人は気付く余裕もなく、実直に”グローバル仕様のルール”に疑問も持たず従い、守ることだけを奨励されて生きてきたのです。

その影響力は、ほぼ戦争経験の無い世代になった今でも、年齢層の高い世代を頂点に40代世代辺りまで引き継がれていますが、これは日本の義務教育で刷り込まれた、GHQが置き土産に残した、WGIPウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの効力が、未だに進化した上で効果を出しているためです。



この”すり替えの仕組み”は、日本と闘って辛酸を舐めた”彼ら”が、日本精神の強さのヒミツを何とか探ろうと、ペーパークリップ作戦や捕虜で集めた日本人や書物から研究し、苦肉の策で作り上げた究極の”国家潰し”の完全版です、それを日本人は応用されながら、世界の国による思想・宗教・文化そして国として、誇るべき実績や歴史までも仕掛人の先鋒として、主体や国体の無価値化を助長さえさせられたのです。

その結果現代のグローバリズムを前進させる、原動力になっているという皮肉な結果が起きているのですが、大東亜経済圏構想として日本の在るべき姿が、アジアを中心に途上国を植民地からの独立・自立と、平等な民主国に育て示せるはずだったのが、世界からの影響力を削がれ”忘れ去られようとする国家”にすり替えられていた事実を知らないまま、原爆投下を正当化させられた挙句に、生きる人々には反論させずに後悔と反省を求めさせられた、被害者とは別の顔を演じてもいたわけです。

 

この現実を、70年以上もの長き間ずーっと当然かのように、守り従わされてきた事すら気付かずに一生を終えていくのが、日本人の運命なのでしょうか?そのリーダーシップを採るべき使命を、この国はどこかに置き忘れてきたかの様です、それはグローバリズムなる自称勝ち組達の、巨大な渦へ巻き込まれる事への危機感が、あまりに薄かったためと一旦は認めるべきかもしれません。

日本人は、同時に平和という概念のすり替えに、気付くことなく悲劇の主役を演じさせられてきました、こんな言い方をすれば批判されてしまいそうですが、それでも敢えて自責の念を自分に課す意味で、いい加減日本人は目を覚まして、自分たちこそ自立できていない事を省みて、”勝ち組”が復活を恐れた"本来の日本人”精神を、直ぐにでも呼び覚まさなければならないのではないでしょうか。

 

前に、香港が自由市場や思想統制によって中国に取り込まれていくことに、危機意識への高揚を取り上げましたが、こうした小規模なコミュニティから、しれっと規模を拡大して専制的な社会に飲み込まれていく現実は、グローバリストによって周到にしたたかに進んでいているのは事実です、もう見て見ぬふりはできない所まで来ています。

それを真摯に受け止め、単なる流行や一過性の変化とは全く別物だと再認識できるか、人口分布で見ればグローバル社会以前を知る世代が、知らない世代へ何を伝え諭していけるか、日本人の真面目気質さゆえにどう行動するかは、「天の神様が見守っている」という自重意識を、どこまで自己管理できるか、自分に問うてみるのも日本らしさの行動なのでしょう。

 

最後に、敢えて西洋の危機意識の在り方から学んでみましょう、かつて無声映画で一世を風靡した、社会風刺映画作家・名優のチャールズチャップリンが、自作の映画で示したように、またApple社創業者スティーブジョブスがCMにも起用した、ジョージ・オーウェルディストピアSF小説・映画「1984年」の社会風景は、風刺でもフィクションでもない未来像が教えてくれています。

日本にも、危機意識については多くの伝承や言い伝えがあり、中には日本独自の言葉で暗号化された様な、歌やことわざ等が沢山あったのです、その究極は皇室伝承で守られてきた智慧と精神なのですが、そのほとんどは危険思想として、前述の通りGHQなどグローバリストの盲者たちによって消し去られましたが、さて…

 

負の未来は完成されてしまうのでしょうか、それとも失敗に終わらせることができるのでしょうか、日本の役割はこれからでも遅くないと、筆者は例え最悪が訪れる最後まであきらめたくはありません、何か方法は有るはずですから。

決して主役を張ろうとするのではありません、むしろ裏方に回るのが日本の美意識でもありますから、その自負だけをもって「武士は喰わねど高楊枝」「大和撫子なに言わんや」ですね。

 

日本の義務教育の目的は、知識の習得ではなく、集団生活を学ぶこと、工場での流れ作業員養成教育だったというのが、私たちの受けた現実の教育の裏カリキュラムだった。わたしたちはこれを過去のものにできるでしょうか、それとも子々孫々へひきついてしまうのでしょうか。

日本の未来は、底なし沼にこのまま足を漬けたままで、沈んでしまう…そんな未来を皆さんは決して望まない、だとしたら画一化した考えや誘導に、安易に馴染まず鵜吞みにせず、自分の意志で考えそれを行動に生かす、加えてその行動を安易に批判や妨害はしない、日本の八百万の神様はどこでもいつでも私たちを見守ってはいますが、昔からその自由で平等な言動ができる世を、平等に無条件で与えてくださっていた筈ですから。