くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

五感を豊かにして楽しめる人々が、繊細故の悲劇を克服するには

今年に入ってコロナ感染期間は日本は3年超えてしまいました、年初からコロナウイルスの大騒ぎで、おそらくこの後も自分の命を守るのに始終して、終わってしまう人が多いのかもしれませんが、みなさんその中でも日本の四季や行事を楽しめていますでしょうか?1月の正月に始まり成人式・梅の花・春の桜や、卒業式・入学式、初夏の山々の若い緑や、爽やかな海の色、災難でも夕立や台風・猛暑など、良くも悪くも日本の風物詩を可能な限り楽しみたいものです。

仕方ないと言えば仕方ない、それでも梅や桜は咲くし、梅雨にはアジサイも綺麗です、夏は暑くても、風にざわざわ靡く豊かな緑など、暑さを楽しむことで癒された人はいらっしゃったのっではないでしょか?私たちは来る災難を避けることはできませんが、苦い記憶と共に不思議とあの年は暑かったな、桜が綺麗だったと…五感に残る良い思い出も一緒に残したいですね。

 

筆者は、昔ほど自然に関心を示さなくなってきたり、普段あまり花や自然をめでるようなタイプではないのですが、世の中が厳しくなって来ると、今まで当たり前で見過ごしていた事、例えば空がやたら青く見えた事、雪が冷たくて手先や耳がかじかむけど、その実感が四季や風景・その時の香りや音に生きている実感をとても感じる瞬間がありました。

なぜでしょうかね、それどころではない筈なのに、足をとめて四季を感じたり、風邪の匂いや木の感触にちょっとした癒しを感じる、ほんの些細なことですが大事なんだな、と思う機会が増えているように思います。

 

周りの人々をみても、相変らずスマホに集中しながら歩く人がいるかと思えば、毎朝神社の前でお辞儀する人、犬の散歩を欠かさず楽しむ人…それらの人をみるとゆとりがある人ない人、自分が見えている人そうで無さそうな人、3年も規制や制限が続くとさすがに、その人の心構えやゆとりがはっきり別れてきているように見えます。

街を歩けば、高齢者は感染リスクが高いために、より警戒しながら慎重に動いている方や、可能な限り積極的に働いたり話したりする方も居る、若い人たちは一杯動き回りたいだろうに、制限されながらもけなげにルールを守ってる、ニュースで見る海外の人達と比べて、日本人は辛抱強いんだなと感心します。

 

幸いなことに日本では、”強制”や”証明”などの個人の自由を奪う命令は、ほぼ出ておらず楽しんだり、癒したり出来るところはまだ沢山あありますが、世界的な流れは今後少なくとも国外間の行動の自由は、制限される仕組みが適用され、それが当たり前にされていくでしょうから、今の段階で自分で自分を拘束するような習慣を、決めてしまわない方が良いのかもしれません。

日本人は、世界に類を見ない恵まれた四季の有る国に生まれ育ったことで、自然の変化が楽しみやすい自然環境によって、五感が豊かに育ち繊細な感情表現を持てるまでになりました、その国で生まれ育った私たちは、その四季の変化に感化され感性豊かな文化を築いてきたし、それを忘れてしまっては日本人らしさを放棄するようなものです。

 

今続いている災難は、日本人の特権である感受性を奪おうとしているかのようですが、今の現状だけでなくこれまでも、地震や台風津波や飢饉を乗り越えてきた、流行り病でも過去に多くの人が無くなっています。

 亡くなった方には申し訳ない気持ちにもなるし、自分だけ生き残ってもいいのかと責める人も居るかもしれないですが、生きている限り私たちは四季に育てられた豊かな五感を思い存分楽しめるし、、人のために使うことができます。

 

国や自治体が国民の側に立った施策を十分にできているか、そろそろ疑問に思う人も出てきたようですが、彼らを間接的にでさえ選んだのは、他でもない国民の私たちであり、その悔過は責任でもあります、そのまま信じるのか、正すべきは正すのか、それも国民の責任であり義務であり、彼らが辞任するまで見守らなければなりません。

自分ではどうにもできない事は、叫ぼうが泣こうが、誰かを誹謗中傷しようと、何も好転することはありませんが、自分で何かしようとすることは、自分自身が生きている限り、何時でもどこでも好転させることは出来るわけです。

この状態が終るのか終らないのか、いずれにせよ一生忘れられない歴史になるでしょうが、それは思うように生活が好転しないという、負の記憶である一方限られた中でどう生きたかを、正の記憶として沢山残せるはずですから、その匙加減はその人その人それぞれかもしれませんが、長く前向きに生きられる考え方や、モノの味方を探していきましょう。

 

単にポジティブに生きようとしても、気持ちに押しつぶされて、気ばかり焦ってうまくいかない人は多いと思います、もし息抜きの仕方さえ忘れる程自分を追い詰めているのなら、ちょっと五感を意識してみてください、人の五感とは不思議なもので、感じたものに素直に従うと、スーッと何かが抜け落ちるようなことがあって、自分で意識して五感で見聞きするのでなく、五感で受けいれるようにすると、結構素直な自分に安心したりするものです。

 

受け入れる五感の使い方や感性は、強制的な外部入力で散らされやすいもので、今年のコロナ騒動は、自治体やTVメディアの過剰な程徹底した繰り返し報道で、混乱したりその気にさせられてしまった人もいらっしゃるでしょう。

こうした災難が起きた時に、自分がどう動けばいいのかを考えて、人の話ばかりに頼らず自身の五感を研ぎ澄ませて考える、日々の生活が困窮する人は尚の事自分を必要以上に追い詰めないように、自分にとって身体はひとつで出来ることは限られます、最後の砦の自分を追い詰めないようご自愛ください。

 

コロナ感染で(他の原因で死亡し後付けでコロナ基因と判断された方含め)亡くなった人よりも、自殺で亡くなった方が多いのは日本くらいではないでしょうか、それだけ繊細な感情が今の戦時に耐えられない人が続出している証拠ですよね、開ける筈の未来が、社会貢献できる優れた資質が、”その圧力”のために消えていく無念は、生き続ける私たちがどこまで補えるのでしょうか。

思いを引き継ぐ、それも日本人のすばらしい感覚です、私たちは繊細で豊かで創造性のある五感を、この日本という環境ではぐくまれました、世界では自主規律が統制できない国が多く、強制的なルールや罰則をもって人から自由を奪いつつありますが、日本ではそうできないのは日本人一人ひとりに、本来から自粛する習慣があったからです。

 

日本では、海外の比べオミクロン株感染拡大の波は遅れて進行しているように見えます、しかし海外は海外であり、日本は日本でそのペースは異なるはずです、にもかかわらず報道される統計は世界の後追いを示しているかのようですが、それに疑問符を付け出すひとが増えているのも事実です。

台湾を見てください、国内で行っていることは日本がしている事と同じで、それを粛々と守っているだけで、感染者ゼロを達成していますね、日本と台湾の何が違うのでしょう人口差は倍あるものの、外国人受け容れルールが不透明な点は気になるところ、国産ワクチンの開発に国はなぜか消極的でもあります、比較できる国が近くに在る、それを真摯に学べばよいのではないでしょうか。