くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

古代オリンピックに始った「多神教VS一神教戦争」から学ぶこと

東京オリンピックが延期されるという残念な決断を見て、本来の意味を確かめる機会を筆者は得たが、オリンピックが紀元前8Cから4年毎に継続された期間は最大で1200年近く続いたのはなぜかと言うハナシから始めたい。

切っ掛けは戦争が続くギリシャ都市国家間の争いを、神の啓示による人の死なない競技の勝ち負けに転換できたことから始まったのだそうだ。

 

多神教であった古代ギリシャでは、戦争さえも合意によって平和な祭典へと昇華できた背景があったものの、その後一神教古代ローマ帝国の浸食によってその精神はいったん途絶えてしまう、これが民主主義の崩壊の兆しとなった。

歴史を学ぶ上で、この大きな転換点を重く扱う教科書を筆者は見たことが無いが、人が人たり得るために不可欠な、この重要なイベント転換を思い返さずして、今後迎えるITやAI主体の未来社会を迎えることはできない。

 

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オリンピックの原点がここに!古代ギリシャのびっくり常識とオリンピア遺跡 | tabiyori どんな時も旅日和に

 

その後オリンピックは、スポーツ競技の祭典として世界で普及するが、その精神は形骸化され、そもそも神事であったものが催事・ショーでしかなくなったのは、神の分断が招いた人類の悲劇でしかない。

確認されているだけでも2000年以上の長きに天皇制が継続できた日本は、毎年秋などにお祭りがあちこちで行われ、天皇の国を占う催事も脈々と続いている。

 

海外で始まった神事が形骸化した背景は、多神教という共感性の高い意識が、一神教と言う独善を是とする意識によって淘汰された悲劇と言い換えられる。

これは、事実であっても日本から見れば遠く離れた、今欧州と言われる地域で起きた昔話で終わっているのかもしれないが、果たしてそんな遠い昔の他人事で終わらされる話なのだろうか。

 

片や東洋では、日本の天皇制が世界に類を見ない程永続されてきたのは、日本神道が根付いている八百万の神を認めている日本人の共感性や許容の高さにあるが、同じ精神を持っていた古代ギリシャが淘汰された理由は、その共感性ゆえに多くを不用意に受け入れてしまう、民主制や受容気質のウイークポイントでもある。

古代ギリシャと違って、これまでなんとか継続してきた日本式達神教の精神は、この後も独善的な精神によって淘汰される危険性をはらんでいるが、れきしが始まった地域からようやくその果てにあった日本が救われたのは、決して偶然ではないだろう。

 

人間の進化にとって最も重要だった、様々な人種(遺伝子)の混合と、習慣文化の合体は、一神教社会からの脅威から最も遠い地域において結実し、八百万の神となって自然豊かな奇跡の環境と併せて人間へ恩恵を与えられた。

ただそこで正常進化できた日本人が、一部が言うように本当に優秀で神から選ばれた民なのかどうか、筆者は証明する立場ではないが、この奇跡の積み重ねの結果日本ができ、日本人が他国に比べ精神性豊かな暮らしが出来ているのは確かな事で、ありがたいと思っている。

 

多くの神のご加護によって生かされている日本人が優秀で恵まれているのなら、それを行動で示して見せなければ、神の加護に報いることにならないだろう。

ヒトに進化できた生物の頂点に立ったと言われる人間なる霊長類が、ふんぞり返るのか感謝に報いるのか、その選択は進化の過程で与えられる、ある意味試練なのかもしれないと、自責の念に駆られるのだ。

 

多神教を広めるか一神教を擁護するかのたとえは、人が人たりえ、まともであるための比喩であって、多神教的な神は人の業をたしなめ、客観性や広い視野を維持する指針にならないだろうか。

一神教やましてや無神教の国家社会が、人間社会に及ぼした悪影響の数々は、人の進化を停滞させ、搾取さえもはばからなかったし、これらかも多神教に例えられる共感共栄の意識は必然であり、人間である続けるための必要条件であることは、こうした歴史が証明しているとしか筆者は思えない。

 

宗教は、知的生物として存続するのに、人がいまだ不完全な以上必要なのはしかたがないことだが、一方で原則無神教の日本人は2000年以上のあいだ、狭い国土で共存できたことを考えれば、少なくとも生存のために争う理由にはならないはずだ。

誤解してほしくないのは、宗教の必然性云々や宗教の優位性や、あるべき姿を強調するのではなく、例えば資本自由主義への偏りや、ましてや共産(唯物)独裁思想などの、同等の人を貶めたり物の様に扱うような、人を完全否定するような言動を人間同士で繰り返す歴史を、変える方がどれほど人間にとって実のあることは計り知れない。

 

今回の主張は、人間にとってあまりに遠大な課題ではあるものの、これからの未来に生きる人間にとって、より合理性が求められる進化の過程で、きっちりケジメをつけなければならない過去に対する宿題なのだ。

その宿題を終わらせられないまま未来を築こうとしても、遅かれ早かれ大きな壁に阻まれることになるだろうし、それが今から見えている以上は、正面突破する強い意志を持たない以上、人間は人間として命を長らえることはできないだろう。