くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

新年に向けて考えよう、グローバリズムとナショナリズムの狭間で生きること

経済学で言うグローバリズムとは少し異なる意味で、自由市場を地球規模で展開しようとするグローバリズムという見方をした場合、そのプラットフォームの最先端を、残念ながら中国が先行している現実に対し、EUも多国家集合体としては、同じ方向を進もうとしてると言えます、それに対しアメリカではバイデン大統領率いる民主党と、トランプ前大統領が掲げた共和党ナショナリズム政策と2分されていますが、日本ではどうでしょう。

グローバリズムに対しナショナリズムと聞くと、愛国主義とか日本語で直訳解釈されると、右翼の集団みたいな印象を受ける人が多いかもしれませんが、これは左翼主義傾向が強いグローバリズムを基準にメディアで語られるためでしょう。

 

普通に考えてみてください、自分が生まれ育った国にもっとも親近感や依存が増すのは、本来は至極普通のことのはずです、大げさにではなく当たり前に自分の国に好意をもつ、これが本来のナショナリズムの意味で、当たり前の愛国心を日本人が素直に持てなくなったのは、いつの間にか私たちの多くが、グローバリズムの影響を肯定しつつある兆候ではないでしょうか。

オールドメディアでもネットメディアでも、ナショナリズム愛国心など自分の居場所を基準に、足場を固めて自分基準で考える概念よりも、グローバリズム・拝他思考のような何かの強い力に、依存するのが当然かのような概念が、語られる記事が多いように伺えます。

 

裏に隠れた事実を、素人なりに探求しようとする考えは、出るはずもない証拠が示せないために、NYメディアから始まった陰謀論という一言で一蹴されます、最近では都市伝説など一部の噂から始まる、不思議話と一緒にされて語られるので、なおさら、いかがわしさやいい加減さが際立ってしまっています。

しかし、グローバリズムの世界的な侵攻は、そのような世迷いごととは違う厳然たる事実で、世界規模で同時に起きているために、それ自体がデファクトスタンダードとして扱われてしまうため、その流れを隠れ蓑にして、本来あってはならない現実が、しれっと実行されたとしても、たまたまとか偶然としか意識されないようになったのでしょう。

 

その最たるは、数々起きる戦争や紛争・自然現象から要人有名人の突然死まで、多岐に渡ると言っても、誰にも証明できない以上は、問答無用で偶発的で自然な幻想としか認めなくなっています、それに意義を申し立てれば、変人・常識のない人として片つけられて終いです。

厄介なのは、こうした考察の縛りを国や警察機関がしているのではなく、当たり前にように私たち市民同士で、当然のようにし合っていることで、これは共産主義社会では当たり前の、相互監視社会が自由社会主義にも導入されている事例で、その延長線上にAIでの監視システムや世界の個人情報管理や、言動情報の分析による個人評価・ランク付につながってきています。

 

あえて言う陰謀論者たちは、これらの考察によってSNSなどでの言論や意見、そして自宅内外での言動で、“余計なこと“は言わない・しないようにと、警告し始めています、グローバリズムを主導する企業は、主にITやDX関連には莫大な投資をしていますから、その見返りを網の目のように張り巡らせた、自慢の監視システムで人々の言動を記録し、統計分析して商品顧客データとして利用するだけでなく、嗜好の傾向や影響力の度合いを解析して、言動をコントロールする材料に使ってるはずなのです。

近年では、その完成度が高まったせいか、流行への誘導やいわゆるバズる現象が、極めて偏向的になりつつあるのを感じないでしょうか、これらは決して思い過ごしや偶然ではなくなりつつある時代に入っている、結構正確な感覚なのです、それらの偏った誘導はAIによって傾向分析され、ボットや人間のインフルエンサーによって、然るべきタイミングで拡散されるわけです。

 

筆者がここ最近、現実から仮想現実に入ったと書いているのは、これまででは実現不可能だった、これらの作為的な物事の流れを、至極自然に実行できるようになった時代に、突入したことを比喩して言っているわけです、仮想現実とはVR機器で覗く非現実なビジョンのことではなく、今私たちが生きている現実社会で起きている、諸現象自体がこれまであり得なかった“作為的”事実にすり替わっている事実、これを仮想現実と表現しています。

この“作為的な現実“の根っこには、かつてナショナリズムと言われた、人として当たり前だった自分の五感を頼りに、人道的に判断できていた社会観を破壊し、依存性の強い全体主義や、非人道的で虚無な意識を受け入れる社会観を、いつの間にか受け入れるように、入念に配慮された作為や動機が存在しています。

 

特に日本人に差し迫っている危機とは、“事なかれ主義”や“出る杭は打たれる“ことへの逃避癖が、他国の人に比べて極めて強いがために、他人に判断を安易に依存したり、言動的な攻撃に対して極めて受動的に受け答えしたり、内部に抑圧しすぎる傾向がとても強いことで、これは生物的には極めて生存能力が低いと考えられ、淘汰の最右翼となりかねません。

決して周りとうまく付き合うために、謙譲的になることは悪いことではありませんし、むしろ日本人の美徳であるのは間違いはありません、しかしそれは日本的道徳美学が、周知された社会範疇でしか理解されにくい常識であり、海外の多くの人々にとっては、今のところ必ずしも正義というより違和感と取られる概念です。

 

それを実践することは、日本人として高尚な行為であっても、その前にそれらを受け容れ理解してもらえる下地づくりが、不足している環境では残念ながら消極性で片付けられてしまいます、グローバリズム社会の中で日本人がすべきは、まずは彼らの常識で判断されやすい対応をした上で、理解を得られた上で広めることです。

この点で不器用なところが、日本人の外交下手と言われる所以になっているのは、とても残念ですし、これは自分自信を愛する気持ちを忘れ、盲目的に他人に施す行為だけをしてしまうアンバランさが原因です、まず自愛を持って自分作りをした上で、他人に施さなければその真意は伝わらないと筆者は考えます。

 

グローバリズムナショナリズムとは相反するものではなく、相互的なつながりが根っこにあることを理解した上で、愛国心や自己愛を自分の中で豊かにすることが、結果的に全体主義や排他的な社会を改善する原動力になる、それをくれぐれも忘れないでください、筆者はかつての自分が励まされたように、同じ日本の人々に自信を持って欲しいのです、事実日本の正しい歴史を省りみればわかる通り、世界に比較しても優秀なのですから。

この自負・自愛を基礎にしたモチベーションがなくては、他勢となるグローバリストに、日本人の美徳や民主的な思いを理解してもらったり、影響力を与える前に力尽きて、私たちも彼らの奴隷に成り下がる思惑に、まんまとハマってしまうでしょうから、私たちのご先祖たちは優秀でした、その証拠をグローバリストたちは、江戸末期以降ことごとく消し去ってきたのです、武士道精神・大和撫子最高じゃないですか、誇りを持って令和4年を迎えようではないですか。