くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

物理娯楽から精神娯楽に変えていく、新しい時代へ

新年明けましておめでとうございます。

昨年末の記事で、日本人しての誇りを確かめた上で新年を迎えるメッセージで、新年の初日の出が輝かしい未来への象徴とならんことを願っています。

 

さて、昨年もそれを打ち砕くようなとんでもない事件が起きていました、ハロウィンに混じって無差別殺傷事件、小田急線の事件をまねたといっている模倣事件で多くの犠牲者も出ました、児童の列に車がツッコむ事故が多発、何よりも新たなウイルス情報拡散で、地獄が始まったかのような印象操作もここ例年のように常態化しています。

コロナウイルス拡散は、第3次世界大戦と言われるように、新たな戦争の形を見せつけました、これまでの戦争層のように外的被害を目的とせず、内側で二次被害惨事被害がうまれてしまう、表面化しにくい被害が特徴です。

このわかりにくさで自分たちが切羽詰まって追い込んで、有り余ったと言われるお金の使い方が分からない、心のゆとりを持てなくなって命を絶つ方向に歩んでしまう、20代30代の若い世代で増えている自殺で亡くなる人が急増するにの対し、段階世代を含む高齢者が人口の頂点をすめす今、相対的に両親をなくした60代も多いが、若年層ほど自殺する人は少ないというアンバランスはなぜ起きているんでしょうか。

 

最大の原因は、教育的問題。

 

筆者を含めて、戦後生まれの多くの日本人は極めて偏った一種の教育を、無抵抗に受けさせられてきたことで、日本人として忘れてはならない大切なことを、徐々に忘れ去ろうとしているのではないか?この方法は誰が考えたのかを1年を掛けて考えてきました、そしてまだまだ少ないとは言えその間に、確実にその答えを見出した人たちが増えてきた、それが令和3年だったような気がします。

その一方で2年間にわたり、もしかしたら本年も引き続き出口が見えない、病的な戦争状態は続いていくかもしれませんし、その病的な戦争状態とは巷を騒がしている感染の事だけとは限らないのです、今生き残っている日本人の多くが日本人の強さを、放棄する教育を無条件に受けたことよって、決して少なくない才能と人材が自ら命を絶って行った。

 

その事実は、日本人の問題だけで済まされなくなっているし、既に責任追及さえも困難にされてしまっています、かつて日本人が当たり前に持っていた、よくもわるくも隣人に関心をもつ習癖、それを無関心に変えられてしまったことで、自分の身は自分で守る、人の不幸には関わるな、その当たり前が人を追い込む結果は、私たちをさらに無関心にさせていく。

コロナは怖い、これからも同じようなことは際限なく繰り返される、それを誰もが頭の隅で何となく感づいています、でもその感情は自分を護るためにますます人を追い込み、コロナに影響されている周りの大人たちに、耐えきれず疎外感にさいなまれて、自滅を選ばざるを得ない人が出てくるのは、仕事仲間や家族意外のコミュニケーション不足が拡大したことで、コロナへの認識は千差万別で、メディアや政府の言動で見切り発車してしまいました。

 

本来の世界を知っている人が居なくなった状態で、これが正しいんだと勝手に進んでしまう社会、これに慣れてしまえばその人たちは、一体何を頼りに行動しているんでしょうか、世界は無いのに在るかのような錯覚を常識化させてしまう。

抜け道が無いと思い込むと、人は自分で自分を追い込んでいく、意外と抜け道はあるものなのに、それを自ら放棄ししまうのは、教えてくれる人が身の回りから居なくなったからでしょうか、じつはそれさえも自分で見つけ出す力を、忘れてしまった人が増えているからかもしれませんね。

 

アイデンティティは、人に認められてこそ存在の意味がある。

それが正しいと、多くの人が信じて疑わない限り、自分を自分で殺す人は無くならない。

 

今年からは、そういう人が独りでも減ることを、願ってやみません。