くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

相手が変わらなければ、自分が変わるしかない現実を受け入れられますか?

日本国内メディアで放送しているニュースが、どこも同じ内容であったり他人事であったりの繰り返しになることに、うんざりしている人やTVを見なくなっている人、ネットで繰り返して前進の無い論議以前の論争についつい目が行ってしまい、結局無駄な時間を費やしたなと自己嫌悪に陥っている人がは、何故そう思うのか振り返ったことはありますか。

筆者が思うに、最近の変化があまりに速すぎて追いつけなくなっている、情報収集だけで膨大な時間を費やすゆとりが無いなど、そもそも独自に収集するよりまとめサイトで結果だけ見て判断する余裕しか無くなっているとしたら、増々その負のループにハマっていく前兆ではないかと思うのです。

 

どういうことかというと、インプットと言われるものの中身には、単に知識など情報を居れるだけの意味ではなく、感覚的に受け入れたり感じたり、時には不要なものを省いたりする作業も含まれていて、それらをバランスよくインプットしていかないと、おざなりのアウトプットしか出来なくなる恐さがあるということです。

単に情報だけをインプットすれば、それで情報収集は完璧だと誤解していると、上の様な雑多で無駄な情報だけで判断せざるを得なくなる、その結果自分の判断がズレてきて「なんか違うぞ?」と気付いた時点では、本来居れるべき情報が溜まり過ぎて、追いつけなくなってしまい、負のループにハマり増々インプットが雑になる。

 

所詮知識的なデータやノウハウを、人が憶えられる量は限られていますから、むしろ最低限仕入れたデータを世間の空気を五感で感じた判断力で自分なりに消化した方が、後々役立つことが多いというのが筆者の実感です。

所詮情報化社会といわれながらも、氾濫する情報を丸々鵜呑みにしたり、それに従わなければならないというルールは存在しないにも関わらず、多くの日本人は皆がそうしているからというだけで、無条件で無駄なルーティーンで貴重な時間を潰してしまっていないか?ということです。

 

この課題は、面に見えにくいためにアウトプット、つまり行動が同じであってもその間に考えている事までも、必ずしも同じでなくても構わないということですが、往々にして行動を同じくしたら考え方も同じでなければいけないという誤解をしてしまいがちですが、送させてしまう空気には要注意です。

日本国内は海外のそれに比べ、治安も良く命に関わる犯罪も争いごとも少ない環境で、それが普通だと疑わずに生きてこられた私たちは、過度に疑うことを知らずに性善説をよしとした判断や行動をすべきだと考えてしまいます。

 

ところが、海外でそんな悠長な言動をすれば死に直結するのは珍しくないですし、むしろそっちの方が正常な認識でなければならない筈が、私たちは海外旅行をした時以外はその危機意識は放棄して居られた、これこそ集団心理のダークサイドにハマっている例でしょう。

話を戻しますが、インプットとは「情報収集」「リスク・危機判断」「他者比較」を同時に受け入れることを指していますので、そのどれもが偏るとインプットそのものの信頼度や価値が下がって、最悪時間のムダになるし、客観的なアウトプットにも大きな影響を与えてしまうので、ただ単に言われるままに受けるのではなく、フィルターに通して判断して最低限の情報だけを入れないと、とてもまともに生活すら出来なくなります。

 

ここで注意したいのは、フィルターはその人の人生そのものであり、一長一短で出来るものではないし、あくまで自己責任での客観性と主観性のバランスの賜物ですから、他人のフィルターに依存したり、フィルターがけをそのものを放棄すれば、全く意味が無いということです。

以前から筆者が記事中で、リスクをとって行動すべきと言っているのは、このフィルターが自分オリジナルである前提の話ですし、ここの自覚が無いと簡単に他人の言動に左右されやすくなってしまいます。日本人は平和な社会で生活できていることで、この意識が鈍感になっているという現実をまず受け入れた上で、客観性を高める必要があります。

 

さて、それでは世間の情報発信で、もっとも客観性・公的で無ければならないはずの情報メディア企業のアウトプットが、ここまで批判にさらされている現状で、私たちはどのようなインプットをすれば幸せになるか、それを考えてみてください。

対人関係の基本ですが、相手が変わらないのであれば自分が変わっていくしかない、のではないでしょうか?もちろん変わるとは”譲歩”や”妥協”を意味しません、当然ですがむしろ露骨なまでに批判すべきですが、それと同時にどう相手に分かり易く批判すべきか、を変えていく意味は大きいでしょう。

 

相手が、自分に分かり易く話しかけてくれないと判った以上、自分は何とか少しでも正確な話を聞き取らなければなりませんので、その工夫をする意味で自分を変えていかなければ、ゴールに辿り着けませんよね。

SNSなどで多くの人が、直球勝負の論議を止めないシーンを見かけますが、相手が自分に言いたいことが伝わっていないことに自覚が無い状態で、相手に正しい反応を見せるのは至難の業というか、ぶっちゃけ無理ですね。

 

なんとか相手が自覚してくれれば話は有意義に進みますが、それが無い場合は同意したらいいかと言えば、相手以外から判断材料を仕入れてそれを基に近似値の答えを判断するしか無いわけで、その間も相手には会話している態度は示していかないと行けない訳で、どのルートであっても知りたいことを得られれば此方は有意義な時間を費やせた事になります。

その分時間を浪費を省けますし、相手の何が問題だったかも見えて一挙両得ですから、極力論議には参加するようにしても、相手と同じ土俵で無駄な時間を費やすのは避けたほうが賢明でしょう。

 

その努力をするかしないか、出来るか出来ないかで、これからの情報氾濫の時代を生き抜けるかどうかが決まってきますから、まずインプットを単なる知識集めだと思い込まずに、五感をフルに使って収集・分析・判断を効率良く出来るように自分の生活習慣を、少しでも改善するのは、とても有意義なことですね。

この改善に終わりはありませんが、おそらくAI化時代にこの生活スキルがもっとも人間らしい知恵であると、筆者は思っていますし常に変化を畏れない粘り強さも、人間にしかできない優れた能力だと考えていますが、AIは単に膨大なインプットデータを超短期で判別し合理的な解を出すしか能が無いですが、逆にこれらを怠ればアッと言う間に私たちはAIに主導権を握られかねないと、肝に銘じておきたいと思っています。