くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

俯瞰的な視野を持ち続けることとその責任の大切さ

 菅政権は、米大統領選の決着を先取りして、9日祝辞をアメリカに送ると同時に早くも3次補正予算を組む体制を発表しましたが、混乱や目まぐるしい時勢の変化に、即時体制修正を始める姿勢は、評価できますね。

前回書いた俯瞰の目を持つことは、こうした変化を正確に理解してできるだけ早期に行動修正するのに不可欠なスキルですが、これが求められてもそう易々とできるものでもなく、ある程度訓練と習慣化あってのものです。

 

俯瞰の目で現象を見渡すときは、ある事実が起きると同時にその事実を強調させたり、逆に目立たせ無くしたり情報量のコントロールを、メディアは操作が可能な分それを差し引いて事実を見渡す情報収集力も大事ですが、それよりも大事な事があります。

情報収集力だけでも、とても難易度が高そうに見えますが、その判断に最も重要なことは判断基準をブラさないことで、意外に多くの人が判断材料を仕入れる際に、メディア側の誤解を招きやすい言い回しやビジュアルも無意識に仕入れているようです。

 

まずはそのクセをどれだけ自分が持っているかを、ある程度自覚することから始めると思いますが、とにかく新しい物好きの人や賭け事や占いなどが好きな人など、不確かでしかない事実を衝動的に解消したいと思ってしまう人が多いようです。

そのすぐに飛びつきたくなる衝動をまずは抑えなければなりませんが、その感情になりやすいのは、自身の判断を自分でしている自覚が、実は外部の決定に依存していることに意外に気づいていないからでしょう。

 

自分の判断基準にブレが生じやすい人は、そうした環境では安定した判断や推測は意味を成さず、むしろ余計に混乱してメディアの意図に乗っかりやすくなる、この悪循環を繰り返すうちに、常習化してしまった最悪のケースでしょう。

その自覚を持って冷静になってブレない判断基準を持つのが大事なのですが、一定の歯止めが利いたり早期に誤りに気づける早道をまず見出すのが重要で、全体主義傾向がある日本人は不得意と言われるスキルです。

日本の社会習慣上では、そのスキルは人によって判断基準が一様でないと指摘されがちですが、事実が目まぐるしく変わる時代には冷静な個人判断が重要であって、個人差は大きな問題ではなく、冷静でさえあれば個人の判断は結構正確です。

 

今目の前で起きている事実が、なぜ特定の人たちに優位に働くことがあり得るのかは、誰からも証明されていません、しかし証拠は示せなくとも明らかにその事実も存在している世の中で、真っ当に生きなければならないわけです。

そのための鍵は、意外にみんなが共通の意見を持つのに労力を使うよりも、各個人の安定した判断基準を物差しにして事実を振り分け、その後で意見を擦り合わせた方が建設的な結論が出しやすいと考えます。

 

実際この正常なプロセスが、事あるごとに起きている混乱という事実に過剰に反応しすぎており、もし不本意にも自己判断の誤りをしてしまう人は、まずは何らかの集中できる訓練をしたほうが良さそうです。

情報が氾濫しすぎる時代、今まで通りだけでは意識は散漫になりがちで、各個人が自身の生活の中に、集中したりリラックスできる間を取る工夫は不可欠だとは、何となくは自覚されているはずで、これからのDX至上の時代を生きる人には何より不可欠です。  

 

その環境を作るのには様々な方法があるでしょうが、例えば睡眠時間前後の最も気持ちが安定する時間が考えられます、筆者も寝る前に思いつきがしやすかったり、スッキリ目覚めた直後は色々な気づきが起きる事が多いです。

重複しますが、日本は全体主義的なプロセスで物事を決定・判断・行動することに拘り過ぎている傾向が強い国ですが、個人主義の優位性がここ中共の一貫した政策体制が好調なことからも、手法としての個人の強烈な判断力が注目されていることは注目すべきでしょう。

 

まだ不慣れな私たちにとっては、受け入れがたい事実であっても、それを一旦飲み込んで理想に近づけるためには、個人レベルの大局から見て問題解決する習慣を、持たないまま局所的状況に流されれば、物事は永久に好転することはないと知れました。

その気付きを肯定するかあくまで前例主義を貫くかは、それぞれの範疇での自己責任ですが、結果が悪かった時のツケを全体責任で追うのもどうかと思いますし、少なくともその付けはせめて他人転嫁しない大人で在りたいと思います。