くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

行政へ国民が主導権を握る行動は、今から

日本の思想や表現の自由への保証が、先の愛知・広島トリエンナーレの一件で明らかにされたように、その自由を私たち国民がもっと自由に行使すべきではないかと、反面教師で筆者は学習しました。

世界で見ても類稀なその自由表現環境は、今まで控えめにしか使われて来なかったと言い換えれるでしょうし、日本の奥ゆかしさが悪い方向に出ている一例として、行動を改善するきっかけにしたい思いです。

 

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なぜ私たちは「公務員が多すぎる」と感じるのか 柳井発言の真意を受け止めるべきだ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

ユニクロの柳井会長の意見は、おそらく多くの人の意見と同じであると考えられますが、記事にもあるように、公務員の実際数や比率で言えば圧倒的に少ないのが事実と、統計では証明されています。

にもかかわらず、私たちが多いとか減らすべきと感じてしまうのは、詳しくは上記事に書いてありますが、質の課題をクリアできていないからでしょうか。

 

 また、同様の誤解に天下りが同様にありますが、本来の天下りの目的は国民の不利益な経済活動や、国益に反する開発や買収からの保護監視だったはずですが、私益目的に走る習慣や、報酬制度が国民のそれと乖離しすぎたことで、そこばかりが指摘されるためでしょう。

その指摘はすべきですが、近来はその本来の機能が思うようにしなくなってきた事が、最も危険視すべきことだと、再認識しなくてはなりません。

 

日本で「水戸黄門」がロングヒットしたのは、国民自らが自己卑下し無意識に地位の差を認めているようなもので、自分たちは批判する側であれば満足する庶民思考を作りあげている一例だと言えるでしょう。

人権や自主性を得るには、義務と主張リスクを追うということですが、私たちは前者ばかりを真面目に実行しても、後者をリスク全般を避けたいがために、自由のためのリスクも一緒に避ける癖ができているようです。

 

権利の施行は行動するリスクと同義ですから、打たれるのが嫌で出ない釘と同じになっていては、口だけで権利や自由を言っても、何ら影響力を示せないことを暗黙に認めてしまっているところが多いのではないでしょうか。

海外からの圧力は、そうした行動リスクを熟知しており、その弱みにつけ込んできますので、今香港で起きているように行動で示すことを恐れない習慣を、日本人はもっと学ばなければならないのです。

 

残念ながら、このノウハウは学校では教えてくれませんし、今の文科省方針では期待さえできませんし、むしろ自力で学び行動するしかないスキルなだけに、自分を信じて行動した結果から、学習していくべきです。

この行動力を身につけるには、自分自身の規範を持ってそれに忠実に沿った行動を心がけるのが基本で、それをできない間は余計なリスクに晒されていくかもしれませんが、その心の支えに家族がいれば幸いですし、居なくとも支えを見つけて、行動を止めないようにしたいものですが、その対価として行動による権利の主張を勝ち取れると思えば、少し未来が明るくなるでしょうね。