くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

日本での自由民主社会は成功しているのでしょうか

日本語で構成されたディベート番組でしたら、当然日本人の論壇がメインになって論議・評論するのは、至極当然といえばそうなのですが、或るネット番組で日本在住外国人だけの論壇で昨今の日本国内外問題を論議するのを、たまたま拝見して感じたのは、日本人が解釈している自由と民主は、外国人の解釈するそれとやはり違うのだなぁということでした。

国際問題に詳しい日本人なら当然理解した上で話すことも、そうでない日本人、それが例え経済専門家・社会学者・政治家であっても、相当な領域で日本独自の?もしかして酷い場合独善的な解釈で、自由や民主について語るのが平気な場合が、往々にしてあるこには以前から違和感があったので、私たちは自身の解釈が独善的になっていないか、十分注意したうえで意見しなければならないと感じました。

 

自由とは、自分が何でも自由な言動が法律などで保証されているということでなく、他者の自由を全力で守りながら自分の自由を主張する、そのリスクを負うものでなければなりませんし、民主については、自由より尚の事客観性と相手の意見が重要視されなければならないのですが、最近の日本人論壇の一部には、中国政府の様な自分がまず在りきで、そのためには独善的解釈を広めても良いと言わんばかりの、詭弁者が多勢で論議の主導権を取ろうとするケースが目立っているため、外国人からは日本人が世間知らずの無知だと、ため息をつかれているという事実を、恥ずかしいと思わなくなったのは、嘆かわしいことでしょう。

海外でも人気のサムライスピリットが、一見海外の人には束縛的で頑固な印象が有ったとしても、筋が通っていることや潔さの方が評価が高いため、海外製の自由と民主とは違った人の在り方に、魅力を感じる人も居るということでしょう。



日本では、本来天皇が統治する以外は国民は全て平等であり、平等な国民は話し合いで問題を解決るなど、本来民主的な制度の下で生活できていたのです、だた日本流の自由とは民主的了解を前提に、自由が暗黙の了解で保証されているという、自然発生的な自由であるのに対し、海外・全国共通の自由とは、自身の確固たる主張が他の主張より正当性があるかどうかを問う自由であって、誤りがあれば責任が発生しなければなりません。

日本人の多くは慣習的に自由は付いてくるものと考えるのに対し、海外では無から勝ち取るために働きかけないとならない点で、大きく異なる訳ですが、昨今の自由主張者たちは、その双方の良いとこどりをして、都合の良いことは当たり得に言い、悪いことは主張しない自由を選ぶ、極めて独善的解釈をしれっと実行します。

 

最近ウヨウヨと湧き出す民主と自由主義者は、本来の自由主義を破壊し、無秩序を生み出し混乱を起こしているだけであり、かつてあったシーシェパードだったり、最近のLGBTでもBLMでも、ほんらいの主義主張の中身がどうでもよく、無秩序に権利ばかりをリスク放棄して主張し続ける、偽装でしかありません。

日曜になると、様々なデモやストライキ行進が実施されますが、参加する人々は本質を理解して参加しないと、政治利用されかねない事を確認しておかないといけませんし、むしろ参加したことで達成感だけで満足して、本質を解決する足かせになりかねない、そんなデモが少なくない事を理解して下さい。

 

ただ、デモストライキが、何でも無駄でお騒がせや迷惑だと言っているのでは無く、せめて主催者と行動の経緯、その結果を具体的にどう生かすのか、納得した上で参加してほしいだけです、これらの中に巧妙に偽装された意図が含まれており、気が付いたら自分の行進シーンが、意図しない目的に使われていたりすることは、何としても避けなければなりません。

単に、人が安らぐ日に敢えて自分は巨悪や疑惑の裁定者として、正義を行使しているんだ、という自負を持ちたい、これも理性欲の一部かもしれませんが、それを近所づき合いの延長だとか、町内会で参加するよう決まっているとか、全くの効力の無い強制によって沿させられているのなら、その人は全く自由と民主制を謳歌するどころか、束縛と脅しに屈しているだけになってしまわないでしょうか。

多くの人が徒党を組んで行列するのですから、それをまたさらに多くの人が、客観性を吟味するわけですから、余程正当性が評価さない場合、効果半減どころか単に混乱を助長するためにムダな時間を費やすことにならないよう、自分の責任とれる範囲で参加すべきです。

 

みんながやっているから、自分も参加するのは自由だ。こんな自由のはき違えは間違ってもしてはならない事です、それなら参加しない自由もあるのですから、そもそもデモの行列が警察に保護されている時点で、本来のデモではあり得ないのです、香港のデモを思い出してください、警察は彼らを保護しましたか?香港警察は狂っているのでなく、普通社会秩序をひっくり返さんとするのがデモであり、その秩序を守る側の警察が見方になるはずがあるりません。

学生闘争に参加された、または同世代の方なら想像つくと思いますが、あのデモストライキが本格的なものの最後だったんでしょう、今週末に行われているものはデモではなく、イベントに過ぎませんし、社会問題に参加できたと満足するだけのストレス発散でしかありません。

 

日本の警察は、おまわりさんとして市民に親しまれた経緯があるので、善意的に見るかもしれませんが、言い方がわるいですが警察とは政府の利益に殉ずる犬組織なのです、ドラマ「相棒」や「湾岸署」に出てくる警察組織像は、端的に本質を捉えている通り、秩序に致命的な影響をあたえるデモやストライキは、どの国でも排除するのが”当たり前”です。

排除されず守られている時点で、なんか変だなと思わない方々は、そのデモがノイズであってなんら影響力の無いものだと察しなければなりません、単に自動車など交通障害にならないよう制御しているだけなのですから、私達の主張する権利が警察に保護されている、とは決して思わない方が良いです。

 

デモに参加する人の本意とは全く関係のない所で、主催者はの多くは混乱と雑音をバラまいて、休日を謳歌する人々にストレスを与え、それを自由の象徴だとか民主行動だと刷り込もうとしているだけでしょう、彼らに本気で国を変えようとか、革命をおこそうなどという根性は皆無です、かれらも本質を知る上部から指示されて、言われた通りしているだけの操り人形でしかありませんが、数を重ねることでじわじわと混乱は成功してしまうのです。

それはさておき、自由と民主の本質はとてもシンプルであり、自由と引き換えに責任が伴い、民主を求めるものにはその機会を相手にも与えなければならない義務が生じる、いいとこどりする連中は信用してはならないし、彼らの真意の道具に使われては本末転倒であり、休日位は難しいこと考えず、まずはタダでさえ溜まる平日のストレスを癒すのに集中したほうが、むしろ本質的な問題にも気付き易くなるのではないでしょうか。