くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

民主社会が独裁・資本社会の妥協でしかないこと

猛暑が続きますね、街の様子ウイルス予防や対策との兼ね合いで、暑さ対策が十分行き届かないように見えてしまいますが、この時期は間違いなく熱中症対策優先されなくてはならない時期ですし、例年通り次の台風の時期で、今年は通常通り台風が日本に影響する可能性が出てきました。

ウイルス対策が多くの人の負担になっていて、本来集中しなければならない仕事や災害対策などの連絡網が十分機能しにくくなっているため、感染後の実害よりも普段通りの問題解決ができなくされている事実に、理にかなったことは積極的に意見すべきでしょう。

 

さて、こうした想定外の出来事について、TVに登場する専門家や要人の見解は、後出しジャンケンかのような事後解説だけで、リスクをとった前向きな提案を避けていますが、初めての対事件に的確な対応などできるはずがありません。

日本人の多くの人が好む民主的な生活は、文字通り市民が自主的に意見し判断し責任も分かち合うものですが、実際には意見はするが責任は取らないのが現実で、不満なら抗議行動すればいいのにしない、むしろ現政治行政を良かれ悪かれ容認してしまうくせがついているかのように見えます。

 

世界の国々には1党または一者独裁制を取る国と、自由経済を優先する国がありますが、民主的な国家はほぼ皆無ですし、むしろ多くの国が民主的な制度を認めてはいても、それよりもそれぞれの政治主義や経済的な主張を最優先させます。

つまり、国の大義の上では民主的な国民の待遇は、少なくとも二の次酷い国ならもう刺し身のツマ程度にしか考えていないかのようであり、そもそも国民に民主的な自由をもたせると、不都合が多いことが多くなると考えているかのようですね。

 

その国民の権利を護るため、多くの市民革命や人権革命が過去起きてきましたが、その殆どは無に帰しており、体制持つ軍事力とカネのチカラを国民側に活かすことがない事実からして、国家の維持は体制の維持でしか無い、という現実を証明してしまっています。

筆者にとってこのような体制と反体制ということですか図式と、不自由からの開放の発想は、社会主義思想から学んだものですが、資本体制社会の矛盾から市民を開放するとした革命後の国家も、結局は資本マネージメント無くして成立できず、むしろ1党独裁という偏見政策だけを助長するだけでした。

 

一方で、その革命を生み出した元凶のカネ社会は、カネにおいては自由であっても、人に対しては格差を生むだけで、生活の自由平等はカネを介することなく実現することは決してあり得ませんでしたが、長い間国民市民は、その体制側のうたう自由を受け入れる悪習がついてしまいました。

この現実を、特に若い人たちは学校で教えられたのか、されなかったとすれば理解しておく必要がありますが、少なくともこの国の歴史教育は年々偏って来ているとも聞きますので、肝心で必要な基礎知識は、学校を頼らず自己責任で吸収した方が良いと思っています。

 

さて、結局私達が理想としてきた民主国家は、古代ギリシャを最後に淘汰されたのかもしれませんね、ギリシャを滅ぼすに至った経緯は学んでいるとは思いますが、様々な見方がある中で重要なのは、民主的な市民の合意の基で機能する社会は、多くの国家にとって到達すべき目標であったにも関わらず、潰してしまったということです。

その行為が歴史的には古代ローマ帝国成立に、たまたま不可避だった以外古代ローマが民主制度を根絶やしにしたわけでなく、その後成立した国家体制に不都合だっただけのことですから、残された歴史が事実であっても、必然性を証明している訳でない限り、いちいち歴史を過剰に正当化するのはあまり意味がありませんね。

 

道義的に歴史上資本主義や社会主義の体制が生まれ消えしていますが、それを鵜呑みにする恐さを理解しておく必要がありますが、いつの時代にも民主的な自覚と責任は、体制に関係無く生まれ自らが課すべき十字架のようなものでは無いでしょうか。

日本人は、古くからの習慣から天皇以外の国民が分け隔てなく、自然を受け入れ生業を当たり前のものとして自然に受け入れ生きてこれた民族ですから、本来民主的な社会を理解できていたはずなんですが、さてどこでどうおかしくなってしまったんでしょうか。