くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

アートの解釈とアートの効果の復興へ

 今年開催された、あいちトリエンナーレの展示品による国内外の騒動は、SNSだけでなくTVメディアも巻き込んで、真剣に論争をする者からお祭り騒ぎやエンタメ感覚で乗っかる者までいて、筆者はどちらも丁寧に観察し、意見論争にも参加しました。

その中で、もっとも目に余ったのが国内の愛知県外の、しかもこのイベントを見てもいないのに、騒ぎに乗じて人権だの自己の主義思想だのをさも当然の権利かのようにまくし立てる人が多かったことです。

 

筆者は、この騒ぎで愛知県民か直接見に来られた人など、直接実害のない人からの行きすぎた意見に憤り、実際に自分の目で確かめるという行動が、こういうときこそどれほど大事なことかを学びました。

広義で言えば、自由の表現について法的にも人道的にも守られるべきという考えを誰もが主張する権利はあるでしょうが、この一部の主催側の失態で直接難儀を被るのは愛知県民であり名古屋市民な訳です。

 

その中主催側に愛知県知事や運営に関わっていた地元議員や運営関係者が、この騒動を想定できずもしくはせずに、通してしまったのは大きな問題でしたが、その段階であるべき検閲がされなかったまたはさせなかったとも取られる県側の行為がどのようなプロセスで実行されたかは県民の重い課題となりました。

 

 表現の自由というテーマは、今ある国内の諸問題の多くで日本人が感情を抑えることで、表面化しにくく問題を深刻にさせてしまう事にもつながり、アートイベントに限らず法以前に解決しなければいけない課題です。

表現という言い方はとても広義で使い回しやすいものですが、表現する際の前提には、発信側の立場の表明と、表現の根拠を明かすことが必要です。

 

引用記事文中にもある通り、自由には相応の責任や義務がセットになっていると考えられますが、自分の考えを自分で決めずに依存したり、前もって決めたことへの責任を取りたくないために曖昧にする、無責任さが事を大きくている事実に気づかなければなりません。

そして、貯まるストレスによる精神の侵食に危機感を持たないほうが、むしろ深刻だと自覚できる冷静さを持てるかどうかで問題の収縮がされていくかが決まるのですから、危機感を持ったなら何らかの行動を起こし解決に向かうか、別の角度で見方を変える習慣は大事です。

 

そのほか、ジェネレーションギャップが慣習や常識の壁を作っているかどうかは、行動してわかることで、若年層など経験が少ないほど、先に推測だけで安易な判断をしてしまいがちなので、若年層は経験値の不足を、それ以外の人は経験値故の偏りに注意することになります。

また、海外経験によって世界観が変わる幸運なケースもありますが、客観度を自己分析できる保証はない中で、抽象化したアートがもたらす功罪を提供者は熟慮しなければならないわけですが、今回のトリエンナーレはそれに欠けていたのは残念でなりません。

 

このイベントの支持者による再開への運動が始まろうとしています。筆者は愛知県のアート活動は昔から評価していましたので、この動きは歓迎していますが、このリトライがどのような反響を呼ぶか否かはわかりません。

失敗を恐れず、むしろ失敗をチャンスくらいに思って試行錯誤する行動を、今のところは「本来のアート表現の追求」への行動として見守りたいと思います。

  

www.huffingtonpost.jp

「あいちトリエンナーレは表現の自由の分岐点」。日本人作家を中心に新プロジェクトが始動 | ハフポスト