くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

子供を社会で育て保護する共通意識

大規模都市を皮切りに、幼児保育無償化や義務教育学費免除実現への声が高まる中で、最近では大阪や名古屋でより具体的な動きが見られるようになった今、保育をされる親御さんは基より、それ以外の立場の大人へもその機運を引き継ぐように、市民を中心にした活動が増えています。

今回は、社会による子ども環境のあり方を少し掘り下げます。

 

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来月の「幼保無償化」を前に 保育士・保護者の集会 (関西テレビ)

 

正直筆者が子どもだったころも、今でも子どもに関わるリスクはさほど変わっていないと思いますが、変わったとすれば社会の子どもに対する味方が変わったとは言えるでしょう。

少なくとも筆者の記憶の範囲では、昔は放任主義で子どもは親からよりも自然に社会の中から多くを学んでいたように思いますが、今は社会が子どもリスクを避けるようになったことで、子どもの居場所が不当に制限され、親御さんの保護義務が強調されてしまいましたね。

 

本来日本では、子供は国の宝と言われ、社会が子を育むものだった良き慣習を西洋式常識に阻害され、日本人は、長い間感覚的阻害を負いながら西洋式に順応した結果、本来の感覚とのズレが今顕著に出ているように思います。

例えば毎朝の挨拶で、子どもとすれ違って挨拶できない関係などがそうですが、基本的コミュニケーションが社会的に重要だと知っていながら、犯罪と結びつけるマニュアルに従ってしまうなど。

 

従来、外来者にも親和的で需要性が高い国民性を持っているのに、身内である日本人同士には厳しくなっている常識は、不幸以外の何者でもないと思うのです。

ゆとり教育が提唱された頃からだったような気がしますが、教科書の情報量が減らされ、道徳よりゆとりが優先されたり、義務教育に当たる小中学校での国歌斉唱を拒む教員が出てきたり、祝祭日の国旗掲揚が問題視されていました。

 

数十年前まで当たり前だった些細な習慣が、隣国の感情を過剰に忖度しすぎて、日本の持つ当たり前にさえ配慮するようになった教育関連者の本意が何だったのかは、ここでは語りませんが、日本人同士の不協和音を生んでしまった気がします。

大人が、そのような状態で日本の子どもが真っ当な日本人に育つかどうか、日本が積み上げてきた誇りと自信全てを、いっときの戦争の功罪を理由に否定していいものかどうか、私たちはよくよく考えて判断すべきです。

 

大人の混乱は、何も言わずとも子供に以心伝心してしまいますから、子どもを育てる以前に大人が日本人のアイデンティティを、しっかり持って行動する方が大事なのかもしれません。

日本人は、他国の人に比べ自他を忖度しやすい傾向がありますが、忖度によって自信を失いがちであり、そればかりではそもそも個の存在自体が意味を為さなくなりますし、国民としての主体性を異常に主張しすぎる隣国への反感もあるでしょうが、それ故に今見失いがちな日本流の主体性を忘れてはいけないと思っています。