くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

ハイ・ブランド地域の「大人事情」と、いい訳しない「子ども環境」

実際に子育てをする環境については、紹介記事のように賛否両論や利害の絡む問題が多く報道されるようになりましたが、この決着は永久に終わることのない大人事情からくる問題ではないかな、とつくづく感じざるを得ません。 

 

実際に子の親である有名人の意見は、リアルで重い。

 

という趣旨で、今回紹介した記事には、子育て中でありまた影響力の強い芸能人のコメントを挙げたものですが、そのリアル子育て世代であっても「反対派」の一定の理解を含む意見は、この問題の複雑なところを垣間見ることができます。

反対派の意見は様々ではありますが、個人的な事情的・感情的な意見は置いておくとしても、土地価格・資産価値に直接響く「ハイブランド」つまり土地や地域のブラン性とひかくされる地域も在るという事実は、その地域を含む自治体によっては、高い税金を払う高額所得者や、その所有者への忖度や優遇という事情も含まれることにな

ります。

 

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松嶋尚美、児相が自宅近くに建設されたら…「引っ越す可能性はあります」/芸能/デイリースポーツ online

 

 今回の争いはその利害よりも、区はあくまで「育児教育の健全化」を主張していて、正当性が高いと判断したという、とても明快な結論に至りそうだということです。

今後この判断は、他地域の重要な判例になるでしょうし、一方で土地の資産価値基準の左右にもなるだけに、どちらを優先させるか注目したくなります。

 

ただ、これはあくまで一つの事例にすぎず、根本解決のきっかっけになるかさえ不透明ですし、住人それぞれの境遇によって条件や事情は様々で、また子どもの生活環境とはまた違った課題があってその環境づくりには「人口増加時代の習慣からの脱却」が必要です。

その課題解決には何が必要でしょうか。

 

一つは、素直に日本人感覚で考えれば「守る環境」は是であるという一般認識自体が、社会の仕組みは大人たちの都合優先で機能しているため、子どもの実質的な見方が「親」になる点で、大人ならではのずる賢さはコントロールできる一方で、子供はそれを持ちたくても持てず、そこから守れるのは権限も含めると親だけです。

子ども全てがこの問題に結束するにしても非力で当然認識も弱いため意見が通りにくく、大人も子育て問題に関わる・関わらないという立場で二分され、その内の反対派が今後増えていく時代です。

 

もちろん現実はこれほど明確に二分できるものでありませんし、あくまで子どもの立場をわかりやすくするためです、また世界全体の統計上は私たちが思っているほど育児環境は劣化しておらず、むしろ確実に改善されているらしいので、あまりネガティブな情報に振り回されないように注意が必要ですが、大人の意見や影響力が絶対的であるのは確かでしょう。

さて二つ目でも大人の事情は優先されていて、その親御さんが人口減少で子どもと共に減少する一方で、教育方針の変化でより個人化や道徳不足、また訴訟問題の複雑化があります。

 

子どもの味方は減り、大人の個人事情が優先される時代にあって、景気後退の中で個人福祉への要望が強く、教育・母子福祉への要求は相対的に弱くなるわけですが、日本の弱者保護の認識から子ども福祉環境の見直しは、行政会議の議題に上がってはいますが、その割り当てはまだまだ不足しています。 

さて、わかりきった現状を一通りあげててみましたが、筆者の意見を申し上げますと、その私たち大人が忙しかったり複雑化した社会で活くる中で、忘れてしまいがちな大事なことを、まず。

 

「大人もかつては、子どもだった」

 

とても基本的で大事なことです。

その子ども時代に、問題にも触れることなく過ごせた幸運な人や、逆にいじめや暴行など不遇な時代を過ごして大人になった方々は、素直に子どもの味方になれないかもしれませんが、その程度があっても素直に「子どもって可愛いな・守りたいな」という感情が行動に出せない大人が、主導権を握っているのかもしれません。

また、自宅はもとより公共の場において子どもの泣き声を、「当たり前・良いこと」だと受け流せる方と、「騒音・悪いこと」と感情的になる方がいらっしゃるのも、意見の相違を生んでいるのでしょう。

 

でも子どもは自分を守るために「泣く」んですよね、その経験は誰にでもたくさんあることですが、それを大人になると多くが忘れてしまうのは何なんですかね、それも人の成長の上では仕方ないことなんですかね。

もし可能ならば、統計でこうしたギャップが数字で証明されると、もっとこの問題は論議しやすくなるなるんでしょうね、実際はとても困難なことだし大人の都合で努力さえしないかもしれませんね、次に。

 

「子どもが国の宝でなくなった」

 

事実なら衝撃的なことですね、でもご安心を。あくまでも私見ですから、

お国の自治や政策において福祉は格段に改善されていますが、その福祉のウエイトは子どもに無く、大人特に高齢者寄りにシフトし続けていることです。

人口比率のグラフをご覧になった方は、それをみて何をお感じになりましたか? 筆者は特に感じたのは「子どもはますます冷遇されるな」ということで、これは単純に数からして子供に共感できる大人が減ることを意味します。

 

「そんなことは無い! 高齢者にも、子どもの味方は多い」

 

そんな、大人目線の声も聞こえてきそうですし筆者も否定はしませんが、多数決至上主義の日本ではその意見が通る確率は格段に減るという点で説得力は弱まりますし、「大人事情」を見れば建前と本音の現実は消えることなく、先の記事にあった事例を実際に生んでいます。

 

加えて一部の親御さんをのぞいて、子どもに不利な行政がまかり通る事実を行動で止めていないのは、

 

「個人福祉の予算に影響なければ良いよ」

 

という大人事情が国内に憚っているのか、政治家・行政者にその意図があるのかは照明が困難ですが、これも大人比率増加の弊害でしょうし、増えた分単純に大人側に多様な言い訳がしやすくなっているということです。

私たち大人は、景気悪化を理由に反論する裁量を増やし、その結果少子化に拍車をかけてしまいましたが、その不公平をどうするかを話し合ってある程度の覚悟を持つのは、大人であれば逃げてはならないない責任と義務。

 

今の社会は、子どもに限らず大人に対しても「利便性の商用化」が進み、人は実現可能な範囲でしか夢を見なくなり、その夢は企業によってお金を払えば実現する時代になりました。

たしかにこの環境は先代からの大人による血の汗と努力によって得られた戦利品であり、子ども時代から苦虫を潰し大人になられた方からすれば、大人事情も否定できるものではありません。

 

ただ、その過程で「子ども事情」は優位性を目減りさせ、教育を歪め育児環境の向上より大人福祉の向上を優先させてきたのも事実です。

その何が悪いと言われそうですが、「痛みを受けてもなんとかしてあげる」のは有事でもない今は平和な時代になったのですし、あくせくせざるを得なかった人口増加時代の習慣から脱却する意味で、意識を変えても良い頃でもあります。

 

まずはシンプルに、子どもの今の待遇や環境に寄り添ってもバチは当たらない。

 

各世代の自分らの子ども時代と比べて、いろんなことが変わっている変化を受け入れるゆとりが持てないと感じる大人が多いように言われますが、国が豊かになるにつれ要求度も高くなっていくのであり、知りながら他人事のように見て見ぬふりするのが大人だとすれば、平和の時代であっても子どもたちは不幸になるしかありません。

その豊かさの多くとまで言わなくとも、最低限の認識と情報を理解したり、忙しいかも知れなくても、1分でもいいから子供の頃の「子どもの心」を思い出してもらえば、きっと役立つヒントが見つからないでしょうか。

 

不当な大人の理不尽に、耐え従わざるを得なかったり、その行動に「助けて欲しい」と無心で救いを求めた子ども時代があって、その不遇が大人になって招いたけっかだとすれば、それは責められるものではないかも知れません。

その憂いもあってか、子ども事情を後回しにしているなら悲劇でしかありませんが、その悲劇を喜劇に転換するのは大人でしかできない以上は、大人が行動するしかなくその結果が「新たな不幸」を作らないように、誤魔化しの効かない「明るい・暗い」どちらへの未来にも反映されていく事実を忘れず行動に生かすべきでしょう。