くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

民主社会が独裁・資本社会の妥協でしかないこと

猛暑が続きますね、街の様子ウイルス予防や対策との兼ね合いで、暑さ対策が十分行き届かないように見えてしまいますが、この時期は間違いなく熱中症対策優先されなくてはならない時期ですし、例年通り次の台風の時期で、今年は通常通り台風が日本に影響する可能性が出てきました。

ウイルス対策が多くの人の負担になっていて、本来集中しなければならない仕事や災害対策などの連絡網が十分機能しにくくなっているため、感染後の実害よりも普段通りの問題解決ができなくされている事実に、理にかなったことは積極的に意見すべきでしょう。

 

さて、こうした想定外の出来事について、TVに登場する専門家や要人の見解は、後出しジャンケンかのような事後解説だけで、リスクをとった前向きな提案を避けていますが、初めての対事件に的確な対応などできるはずがありません。

日本人の多くの人が好む民主的な生活は、文字通り市民が自主的に意見し判断し責任も分かち合うものですが、実際には意見はするが責任は取らないのが現実で、不満なら抗議行動すればいいのにしない、むしろ現政治行政を良かれ悪かれ容認してしまうくせがついているかのように見えます。

 

世界の国々には1党または一者独裁制を取る国と、自由経済を優先する国がありますが、民主的な国家はほぼ皆無ですし、むしろ多くの国が民主的な制度を認めてはいても、それよりもそれぞれの政治主義や経済的な主張を最優先させます。

つまり、国の大義の上では民主的な国民の待遇は、少なくとも二の次酷い国ならもう刺し身のツマ程度にしか考えていないかのようであり、そもそも国民に民主的な自由をもたせると、不都合が多いことが多くなると考えているかのようですね。

 

その国民の権利を護るため、多くの市民革命や人権革命が過去起きてきましたが、その殆どは無に帰しており、体制持つ軍事力とカネのチカラを国民側に活かすことがない事実からして、国家の維持は体制の維持でしか無い、という現実を証明してしまっています。

筆者にとってこのような体制と反体制ということですか図式と、不自由からの開放の発想は、社会主義思想から学んだものですが、資本体制社会の矛盾から市民を開放するとした革命後の国家も、結局は資本マネージメント無くして成立できず、むしろ1党独裁という偏見政策だけを助長するだけでした。

 

一方で、その革命を生み出した元凶のカネ社会は、カネにおいては自由であっても、人に対しては格差を生むだけで、生活の自由平等はカネを介することなく実現することは決してあり得ませんでしたが、長い間国民市民は、その体制側のうたう自由を受け入れる悪習がついてしまいました。

この現実を、特に若い人たちは学校で教えられたのか、されなかったとすれば理解しておく必要がありますが、少なくともこの国の歴史教育は年々偏って来ているとも聞きますので、肝心で必要な基礎知識は、学校を頼らず自己責任で吸収した方が良いと思っています。

 

さて、結局私達が理想としてきた民主国家は、古代ギリシャを最後に淘汰されたのかもしれませんね、ギリシャを滅ぼすに至った経緯は学んでいるとは思いますが、様々な見方がある中で重要なのは、民主的な市民の合意の基で機能する社会は、多くの国家にとって到達すべき目標であったにも関わらず、潰してしまったということです。

その行為が歴史的には古代ローマ帝国成立に、たまたま不可避だった以外古代ローマが民主制度を根絶やしにしたわけでなく、その後成立した国家体制に不都合だっただけのことですから、残された歴史が事実であっても、必然性を証明している訳でない限り、いちいち歴史を過剰に正当化するのはあまり意味がありませんね。

 

道義的に歴史上資本主義や社会主義の体制が生まれ消えしていますが、それを鵜呑みにする恐さを理解しておく必要がありますが、いつの時代にも民主的な自覚と責任は、体制に関係無く生まれ自らが課すべき十字架のようなものでは無いでしょうか。

日本人は、古くからの習慣から天皇以外の国民が分け隔てなく、自然を受け入れ生業を当たり前のものとして自然に受け入れ生きてこれた民族ですから、本来民主的な社会を理解できていたはずなんですが、さてどこでどうおかしくなってしまったんでしょうか。

今になって考える、平成時代とは何だったのでしょう。

世界は西暦を使って時代を刻んでいますし日本も例外なく西暦を採用していますが、日本には元号が存在し、それは天皇陛下世代交代した蔡に改められるもので、筆者は昭和生まれで今のところその時代に生きた年数が一番長いです。

ですので、昭和・平成・令和三つの元号をまたいだことに成りますが、昭和の次になった平成は個人的に違和感のある時代だったのですが、令和になった日本がこういう状態になった大きな変化が、昭和終盤から平成全期であった印象で、この平成とは日本にとってどんな役割をしたのでしょうか。

平成は、西暦で1989年1月8日 – 2019年4月30日までを差し、「プラザ合意」と「バブル」が終わった後に平静に変わりましたが、因みにバブルはご存知の方も多いでしょうが、プラザ合意は憶え無い人が多いと思います。

 

1985年、米プラザホテルで先進5カ国の蔵相、中央銀行総裁がドル安円高に協調の合意の目的で、財政と貿易赤字に苦しむアメリカが巨額の貿易黒字だった日本に為替レートの調整を約束させた取引です。

結果円は、対ドル20円上昇し1987年には120円となり、これでアメリカ不利だった貿易赤字も解消、同時にアメリカからの輸入品も増やされたため、日本国内の食品を中心に輸入が大きくなり、食品自給率が激減した上に、自動車を中心に工業製品も円高の影響を受けだします。

 

合意の後、アメリカの要求を国際協調と解して、当時の中曽根総理大臣は前川春雄・元日銀総裁に命じ、内需と輸出の国際協調のための、「前川リポート」を発表しました。

「前川リポート」の提言

  1. 内需拡大
  2. 国際的に調和の取れた産業構造への転換
  3. 市場アクセスの一層の改善と製品輸入の促進等
  4. 国際通貨価値の安定化と金融の自由化・国際化
  5. 国際協力の推進と国際的地位にふさわしい世界経済への貢献

つまり、これまでの日本は生めや増やせやで莫大な貿易黒字を作ったことで、世界の貿易均衡を著しくダメージを与えた、その反省として基軸通貨ドルに優位性を持たせるために、日本は自重して輸出より輸入を増やし内需構造を変えようと解釈します。

 

これはアメリカからの圧力によって、アメリカ巨額の貿易赤字の原因は日本経済の構造問題があり、何とかしろとアメリカ側要求を呑んだと言うことです、つまり日本はアメリカの雇用を奪っている悪者と認めたわけです。

この頃、かつての「JAPAN as No.1」から「JAPAN bashing」に大きく評価が変わり、そして制裁をちらつかせ一方的な要求をするようになったのですが、こうした圧力に日本からの譲歩が「プラザ合意」「前川リポート」で、ここから国際化・自由化の波が押し寄せてきます。

 

工業製品を輸出するばかりでなく内需拡大を図って輸入を増やす。

労働生活を改め積極的に余暇創出、サービス業を振興し消費増やす。

海外へ直接投資をして工場や産業を国外へ移転。

国内市場を開放+関税下げ、非関税障壁も撤廃し輸入促進。

金融を自由化、円の国際化に協力し国際協調と大国にふさわしい節度。

 

自由貿易を推し進めようとするアメリカの政策により、日本という出る杭は打たれたと言うことです、経済上の抹殺はかつての太平洋戦争の二の舞になりかねないと、畏れたのか彼らに従ったことになりますが、こうした政策は昔からのアメリカの常とう句であり、今のトランプ大統領でなくとも誰でもやると言うことです。

プラザ合意後の急激な円高不況によって、不景気対策金利を下げ財政支出の拡大を始めますが、これはアメリカからの内需拡大要請によって、円高不況と内需拡大圧力の結果、財政支出垂れ流しに向かい、名前は誰もが知っているバブルが始まります。

 

1987年頃から金利低下で円・株・債券高騰、土地の価格も急上昇の泡のように膨れ上がる経済で、日銀は公定歩合の引き上げを模索しますが実行せず、泡はし続け崩壊を迎えますが、崩壊後「失われた20年」と言われる時代が、ちょうど平成時代の中心になるわけです。

株式市場は暴落、土地価格も急落・短期間に1500兆円もの国の利益とび、政府は金融緩和と財政支出を続けまくった結果、赤字国債の発行残高は積み上がり、この頃から緊縮財政を始めますが、財政軽減は既得権益の団体から抵抗を受ける結果にもなります。

 

当時の日本は、アメリカからの内需拡大の強い要請で財政支出の拡大が正当化され、日本の世界協調の意志に反し、国際競争力を失う道を歩み始めるの平成時代で、財務省も消費税を始め緊縮財政を強化していきます。

平成時代に民主党が第一党になっている間に、国内は増々デフレ化が進行し、安倍政権後は、相当ヤバい状態からのスタートで、リスクも大きかったはずです。

 

アベノミクスを打ち出した当時、日本の国債発行残高は1000兆円を超え、国民一人当たり約1000万円の借金でしたが、この借金と言う解釈がこの後令和に近づくにつれ、大きな論争になっていくわけです。

ちなみに、このころから中国の国内工業生産性が高まり始め、日本疲弊に変わる巨大製品輸出国に成り代わっていきますが、中国共産党はこれまでの日本の歩みを反面教師にして、この頃からアメリの圧力に屈しない反アメリカという姿勢を始めたということで、米中の経済戦争はこの当時にもう決まっていたのかもしれませんね。

 

巨大マーケット中国に食物が無い!

今年の夏はここ数年の冷夏に比べて、本格的な猛暑でそのギャップに既に体調を崩されている方もいらっしゃるかもしれませんね、夏バテ気味だからと食事を軽くせずにしっかり栄養を取ってくださいね。

さて、この猛暑の前に今年の梅雨も本格的で九州や三重など大雨被害が出たことで、被災地を含め育ちかけた農作物の被害も目立っていたのですが、徐その影響によって夏野菜やサンマなどの供給が薄くなっていますね。

 

この農作物の被害は、日本だけでなく中国も深刻な不足に会っているのをご存じでしょうか、日本でさえこの先国内供給がどうなるか農業従事者は見通しが立たないのに、中国だとその市場規模は日本の比ではありません。

その巨大市場から深刻な不足が挙げられるのは、じゃがいも・麦など野菜の農産物だけでなく、豚肉が過去からのウイルス対策で大量と殺され、一般人の市場では殆ど手に入らない状態だそうですし、アフリカから始まったバッタの大量発生でも被害甚大でした。

 

さて、ここまで大きな被害が出て来たとは言え、まあ他国の事情だと見て見無ふりを決め込めそうでも、どうやらそうかんたんでは無さそうなんですね。

中国共産党は、この食料不足を補うために何をしたかというと、国内の増産体制を強化するかと思いきや、コロナの影響で思うようにいかず、国外から大量の食物を買い漁り始めたわけです。

 

ここまで話せば、日本に何の影響も無いとは思えませんよね、そうです日本の農産物も例外なく大量買取を齒めたようなんですが、もっとも近況では北海道のじゃがいもがそのターゲットにされてるそうです。

おそらく中国の買い漁りはそれだけに終わらないでしょう、日本の生産品は農産物でも肉でも魚でも、品質は文句なしnと定評であり、そんな優良生産国が目の先にあるわけですから、中国共産党はあらゆる手段ルートを駆使して、日本の食物を買いまくるでしょう。

 

国内の需要は、若干高価になっているものの、なんとか国民が妥協すれば今年いっぱい食いつなげるはずでしたが、この先農産物や天候不調で不漁が続くなかで、きちんとノーと言えない日本は、良いように買い漁られてしまい、また買い占め騒動になってしまう可能性があります。

この先まだ分かりませんが、梅雨み猛暑もきちんと来ているので、台風も例年通りきっちり来るとなると、台風被害状況によっては少なくとも、食物供給は好転することは無いですよね。

 

さて、こうした国内の天候や災害による作物被害の状況は、年々悪転する傾向にあるようですが、これがたまたま続いたと楽天的に考えたとしても、大きなスパンで日本の周辺の気候は、一昔とはかなり様変わりしているとお感じの方も増えていないでしょうか。

この点を政府は、長期的な視点で捉え科学的な統計調査や専門家との協議を進め、農作物を中心とした自給率をもっと強化すべきでは無いでしょうか。

 

そもそも、高度経済成長を果たしたのは工業製品の売上に依存し、そのツケとして労働人口を工業へ転用させた結果、政策も手伝って農業従事者は異常なほど減ってしまったのですが、この計画が今となっては世界先進国途上国合わせても食料自給率は最低ランクの国となってしまいました。

政府はこの状況を十分理解していながら、その主だった対策を海外からの輸入として予算計上してきたわけですから、その予算を見直し内需傾向を強化できるよう方向修正をしないと、いざ災害や戦災に巻き込まれた時、食料不足で自ら兵糧攻めにしている状態になりかねません。

 

この先、産業はIT関連が急成長すると予告され、あらゆる産業にITとAI管理による自動化が進といわれますが、一方では農業もその恩恵を受けながら、安定した生産が望めるようになるでしょう。

ただ、その前に農業の基本日本の四季に合わせて、農産物を作る昔ながらのノウハウは、AIの精度を上げる欠かせないデータです。

 

今、原点回帰の流れによって、あえて便利な都会から地方へ移転する動きが出始めていますが、広い土地が得られやすい移転者にとって、この先来るであろう農産物不足に先立って、あえて農業復活に貢献していく選択肢もアリでしょう。

もちろん、簡単では無く苦労は多いと思いますが、今なら高齢ながらも農業ノウハウを持った現役が沢山いらっしゃるし、今から十年後を見据えて農業ノウハウの継承に参加したり、農業のIT化に関わる事は、ブルーオーシャン開拓を体現できる好機かもしれませんね。

 

 

 

 

日本の心は、いつの日か世界に届きますか?

日本の心、おもてなしって何でしょうね、これを日本人に聞けば、何らかの答えや意見が返ってきそうですけど、実際日本人に尋ねても千差万別な答えが返ってくるような概念を、日本人が外国人にそうやすやすと理解させられないのは、簡単に理解できます。

問題は、どうやったら分かってくれるか?と言うよりも日本人の間で、マニュアル化したほうがむしろ役に立ちそうですけどね。

 

外国人が日本に訪れるきっかけや動機のほとんどは、聞いても「無いもの見たさ」か単に友人や家族が”イイね”してたから興味を持った位ではないでしょうか。

一方で、日本人の中でも漠然と”なんで来てくれないんだろう…”とかではなく、そもそも分かりやすい日本の良さが外人目線で、説明できてないんじゃね?という不安に陥ることが多くなっているのではないでしょうか?

 

筆者に尋ねられても、その明確な答えは説明できませんが、そもそも日本はどんどん変わっているのに、日本人がまずその自覚が薄い、特に観光に携わっている人が結構無いのではないかと(憶測です)。

多くの日本人が、西洋に追いつき追い越せで、経済成長にいそしんできたわけですから、今更日本の古く良き伝統とは何ぞや?とか言われても”分かりません”となるに決まっていると思うんです。

 

意図的に”日本とはこういうものだ!”と日本人が決めつけて、観光に転嫁させたとしても、そもそも日本人しかわからない概念で組み立てられていたら、海外の人に伝える事さえほぼできないし、それを”こういうもんだ”とごり押しするのもどうかと思います。

そこで、最近は外国人にリサーチして、人気の合った要素を積極的に取り入れて、ある程度成功していた観光地もあったかもしれませんが、結局未だ京都や奈良がトップに並ぶのは、極論ではありますが日本式はその2都で十分なんではないでしょうか?

 

それより、何でも手に入る東京都とか、旨いものが外れなく食える大阪とか、南国リゾートなら沖縄、雪景色やスキーは北海道と、外国人の日本感はそれだけで十分なのに、他の観光地が、何とか続こうと努力してもほとんどが続かない。

上の観光地で、規模も宣伝量も圧倒的なため、当然外国人はその気になってくるわけですが、もちろん料金の安さもありますけど、ザ・定番と同じことを長年判を押したように続けたのが、地方観光を最も疲弊させた確信犯だったはずです。

 

外国人の感覚で、レアで母国で味わえない生活や文化を体験する成功例は、確かにあっても、どこでもマネできないから目立って関心を持たれますが、規模も収益も小さいためになかなか、実行しようとすらしない地方も多いようです。

既に成功しなさそうなのでやめるって、そもそもおかしいですよね?小さくとも成功を上げているところは、採算よりもまず地域の行動力の結果・賜物じゃないですか。

 

人口の少ない過疎化している地域が増えていく中で、人が動くことの価値観は確実に目減りしていると決めつけだしているのかもしれませんが、人数がどうであれ人が動かなければ、誰も注目しないという事実を理解できているのでしょうか?

カネがかかる、声を掛けても集まらない、ジジババしかいない、目玉が全くない……その無い無い尽くしは、悲劇しか呼びません。

 

そもそも地域活性化は、観光以前に市民のあるあるな気持ちを増やす工夫な筈で、主に市役所町村役場の人が考えるものと決め込んでいる自治体が多すぎるのではないでしょうか。

本来、自治体がするべきは市民のやる気を起こしてあげるだけでいいのですが、全部市民に要求されて予算も追いつかず、できないになってしまう。

 

確かにカネは必要ですが、その前に知恵をどれだけ出しているかの方が本来大事で、そのためにも市民と一緒に考えるのが当たり前なのに、カネさえあれば何でもできるというカネ至上主義が、本来の日本の事足りる文化を自ら消してしまったのでしょうね。

江戸時代の市民は、庶民の生活を見ると、貧乏が不幸だと思っていない人が多かった、その貧乏すら工夫したり楽しむ心のゆとりさえあった、だからカネが無ければ不幸だと決めつけなかったことで、その分祭りや祭事を大事にし、自然を尊びその出来る範囲で満足していたそうです。

 

これって今の日本人では不幸なんですかね?不幸に思うようになって、人との助け合いもわすれ、カネで幸福を得るようになった日本に対して、日本を心から愛してくれくれている少数の外国人から、その良さを教えてもらっているって、何なんですかね。

多くの外国人にとってもカネが全てのモノ言うことを当然知っていますが、カネを楽しんで使っているように見えて仕方ないのです、むしろカネの使い方が汚いのは中国・韓国、そして日本の様な気がしてならないのです(あくまで主観です)。

 

なぜそう思えるのでしょう?それは間違いなく貧しさの価値観が、独善的になっている点がもっとも大きいと思えますが、そもそもカネ社会を持ち込んだのは西洋人と言う見方もあります。

ただ他人のせいにするのはいつでもできるわけで、カネの価値観は先進国なら無いことが不幸で、途上国も同じはずだと言う刷り込みは、完全に資本主義経済の都合のめせんでしかないと言うことです。

 

恵まれない子供たちに募金を……世界平均で言えば絶対的にカネがなく、生活さえできない子どもがいまだ沢山いる、と言う刷り込みはもう統計的に激減していますし、元来貧しくても、バラックに家族が一つ屋根に暮らせるって、不幸ですかね?

その家族を出稼ぎとしてバラバラにし、子どもを売ってカネを生み出す、貧乏ってそれだけですかね、幸せの価値観は千差万別で、低所得だけが不幸のバロメータって、どれだけカネを基準で考えさせられていたんだか。

 

もっとも貧困国を不幸にさせてるのは、カネが無いことでなく戦争の餌食にされることなのに、日本ではカネを生み出すために行われる戦争ゲームの真相は問われず、ただ被害者としての面や、日本より貧しいというロジックだけで不幸と演出したり。

そのおかげで、本来裕福でない日本を中間富裕層という曖昧な言葉でその気になって、結局そんなに裕福でない人が増えちゃったのはなぜですかね。

 

日本人の生活スキルの最も大事なカネの管理を教えてこなかった日米中の教育政策や、商品の正しい価値を見る習慣を無視され、買いたいがまま散財癖を持ってしまった国民意識が積もり積もって、日本の貧乏と幸福感の価値観を麻痺させてしまった、それがもっとも大きな不幸だったと、筆者は思っています。

いくら可哀そうだと煽られても、カネをそこそこ持つ人なら出してもいいんでしょうか?国内でも、少なからず極貧の生活を送る人が居るのに。

 

海外の特に先進国の人々は、キリスト教なら寄付やチップ精度だったり、そうでなくとも大金で無いにしても、自分の資産を自分の価値判断とリスク管理で使えるスキルを多くの人が有しています。

故に、日本人が提示してくる日本観光の価値をきちんと判断して来られるのですが、ただカネを散財してほしいだけで観光をすれば、外人でなくても日本人でも辟易してしまいます。

 

日本人がお金の価値を学んでいない以上、そこはクリアしたうえでないと観光にしても購買にしても対価は払ってくれないでしょうし、不幸や貧乏の価値観がしっかり浸透していないと、その曖昧さは間違いなく彼らにつわって、見透かされるでしょう。

それもしないで、単に羽振りがいいだけの中国人環境客だけにへりくだったり、依存するのでは、おさきは見えてくと言うものでしょうから、カネをかけるのではなく学んで知恵を出す、これが最低限必要なのではないでしょうか。

 

ローカルな田舎暮らしが、外国人に喜ばれるのは、最初日本人には理解できなかったと言いますが、今では日本時の中にもその回顧によって立ち返る人も増えているのは、過去に積み重ねてきたあらゆる価値観の学びなおしが進んでいるからでしょう。

山村では、田舎暮らしでネイチャリング、港では日本で魚がなぜうまいのか再認識し、昔ながらの素朴なお菓子や遊び道具、なぜこんな小さな国に、多種の祭りや方言・習慣が残っているのか、日本人が関心を示さなくなった全ての日本らしさが、外国人観光を通じて評価される、この事実は何より心を豊かにしてくれる、日本の特色なのです。

 

日本は無くならないよ、本気でそう思ってますか、不安はありませんか、その気持ちさえあれば、もっと外国人にも理解してもらいたい欲が出てくるのではないでしょうか。

世界は、極東の小国とは言いますが、その国でさえ200年以上の歴史を持てたのですから、何をいわんやですよね、でも行動しなくなったら、その声さえも届けることは永久にできなくなるのですから。

 

日本人はカネで動く人々ではなかった、損得なしで心で動く人々だったと、筆者は信じたいし、そうなら今からでも出来ることです、助け合いましょう。

日本らしさを生かすも殺すも、日本人の責任であるし、日本人の誇りではないかと思うのです、その自覚も日本が世界から消えてしまうようなことが有ったら、それすらできなくなってしまうでしょうから。

日本のこれからの指針となる未来の展望

今年いっぱいは最低限、コロナウイルスへの対策に相当な手間暇を要する覚悟はできたにしても、来年以降は可能な限り経済成長、景気回復に向けて全力を注がなければなりませんし、昨年から近未来の日本の位置づけを担う様々な事象実験や研究も実行されています。

日本の主観産業である自動車産業がこれまでは多くの雇用を支えていた時代にたいし、これからはIT産業が中心となる半自動化が仮想環境の構築が前提の産業社会が展開されると予測されていて、いち早くトヨタ自動車はそのポジション故の危機感と世界第一級の企業意識によって産業モデルの事象実験を始めました。

 

この前そのトヨタ自動車が、ITの分野で米アマゾン社と技術提携する発表をしたそうですが、同社はアメリカIT企業大手の1社で、AWSという独自のネット販売網とネットを利用した販売・情報網システムを構築しており、日本がA社のシステムを核に都市構想を構築するという選択肢を拡大させたことになります。

IT上のシステム構築は、トヨタ自動車はA社以前に国内IT大手NTTと業務・システム構築の技術提携をしたうえで本格稼働しているので、AWSがその販売網を独占するとは断言できませんが、多くの投資家や起業家にとってNTTより行動力の速い米企業を後押しする可能性は高いと筆者は見ています。

 

筆者が関心のある地域創生の一環として、国内のITインフラ上のシステムのベースがどこに依存するのか興味が尽きないだけに、このニュースは結構衝撃でしたし、オールジャパン化の流れが弱まる可能性も含め、要注意だと感じています。

 更に近年、オールジャパン化の流れに水をさしかねない動きとしては、IT関連の製造を手掛ける大手企業の事業売却が目立っている点で、過去ではSHARPに始まり東芝SONYだとか、最近ではパナソニックが精密機器・部品製造部門を採算が合わないなどの理由で売却し、海外特に中国系アジア企業買収されています。

 

特に今、資本主義経済圏に驚異となりつつある中共政府の影響力を持つ、中国系企業への技術漏洩がアメリカ政府に問題視され、今では直接でなく間接的に企業機密が搾取されるなどの、洒落にならない問題が指摘されています。

日本の高い評価の精密機器や薬品原材料の技術が、思わぬ経路で中共側に渡っていく事は、日本の優位性をスポイルするものであり、その流れにトヨタ自動車が直接中国市場にこだわっている話題が、一部経済評論家に問題視される事もあります。

 

ただ、トヨタ自動車に関しては、中国市場はグローバル市場の1つとして見て戦略に組み込んでいるために、むしろ積極的な中国企業側からの技術提供や、規制が低いためあらゆる事象実験や商品化がしやすいメリットを評価すれば、接点は持っておくべきとの見方もできます。

同社は創業当時より、日本の典型的な堅実経営が信条のリサーチ力に長けた企業であるだけに、この企業の成長力の結果は、日本企業や経済力そのものと言っても良いだけに、まだまだ伸びしろは大きいと考えられます。

 

同時に、国内の主幹産業を支えて来た雇用促進力は、これからもこの企業側から国民の働く場所の開拓という点でも、日本の産業の未来を背負っていると言っても過言ではありません。

その動向は他の日本企業の将来性をも占う目安なだけに、単なる自動車企業だけの目線で見ることなく株式会社日本の看板企業として見る必要がありますし、トヨタ自動車をハブにした新たな裾野産業が成長していく期待が持たれています。

 

IoT産業が未来の主力産業と言われる昨今で、成熟社会の日本が取るべき近未来の次の一手は、追い上げてくるアジアなどの新興国と比べて、世界にどのようなポジションを取っていくのか、一つに参考にすべきは近年IT大国として急成長を遂げる台湾です。

本来日本ががこのポジションを取れていれば理想的でしたが、そうならなかったのは他国への企業進出において中国市場に固執した結果、良いように利用され疲弊した経緯は大きかったと思われ、今後もっとも警戒すべき国を見誤ら無いよう、国際情報を正しく判断できるスキルを、トヨタ自動車のそれに学ぶべきでしょう。

 

 

 

日本人の善意は世界を救ったのか

75回目の終戦記念日を迎えた今年は、筆者も連続で戦争に関する記事を書きましたが、終戦後の私たちの日本は、他の敗戦国や搾取された発展途上国と比較して、幸運な戦後を歩んでこれたのかもしれません。

その理由は、賛否両論あるにしても戦勝国アメリカの国家再建の介入を赦し、他先勝国の関与を受けにくく出来たことが大きかったとも言え、実質上米国のバックアップ国となることで、経済成長も早かった。

 

そんな、独特な戦後成長と情報統制のかかった教育などを通して、私たち日本人は他国以上の多くの恩恵を受けられたことで、筆者は平和観や善悪観が独特に発展した気がしますが、みなさんは日本人がどれほど善人でどれほど悪人かを考えたことがあるでしょうか。

筆者は中学・高校の頃に精神論や哲学にドはまりした経緯があって、結構大真面目に理屈っぽいテーマを考えたことがありますが、今日本は希望した平和な社会で拘束的な宗教も持たず、経済的な余裕も手伝って思想の自由を謳歌してきました。

 

今でこそ教育格差とか、経済格差が問題視されはしますが、それでも世界の事情からすれば恵まれていると考えるほうが多いと思いますし、本来からの素朴な気質と性善説嗜好が強いことで、多くの人が自分は善人だと言う前提で生活できています。

戦後でさえそうですが戦前でも基本変わっていないようで、筆者は参考にYoutubeで「南滿洲鐵道 特急亞細亞號( あじあ号)特快列車之旅 日本紀錄片」という動画で、日本語圏の中国を統治した時代の動画を見てもそう思えます。

 

こうした日本人の意識では”あたりまえ”の平和意識の社会で、善人として暮らしてきたにもかかわらず、その経緯は省くとして世界は連合を組んで、善人を悪人に変えてしまったわけです。

その経緯によって、日本人の善人・悪人の価値観は混乱し、わざわざ敗戦国となって当時の中国からすれば極悪人にされてしまいましたが、今でも多くの日本人にはその強制に疑問を持つ人は多いでしょう。

 

戦後、敗戦国と自覚させられ価値観がゼロにリセットされた後、日本人は戦後復興から経済成長をがむしゃらに駆け上がることで、新たな善悪観を抱くようになったようですが、ある者はカネこそが正義であり善であると考えたり、事を穏便に済ませることが平和であり善であると考えた人も居たわけです。

総じて戦後に生きる多くの日本人には、消極的に波風立てず、譲歩や施しすることが善人の証だと考えることが当たり前になり、それ以外の価値観は出る杭を打つように指示しなくなっていきます。

 

この行動はある時から「赤信号、皆で渡れば怖くない」という当時の交通標語を皮肉った流行語でも分かるように、本来の善悪に関係なく集団化すれば何でも全に出来るという、不思議なローカルルールを広めることになったわけです。

その一方で時代劇の「水戸黄門」のテーマにある様に「くじけりゃ誰かが先に行く」(おいおいw)とあったように、助け合うのが日本人の美徳だったのが、競争時代によって隣人を足蹴にして這い上がる意識も在るべき善悪観をゆがめてしまったでしょう。

 

特に戦後の善悪観の様変わりは筆者の私感ですが、お隣の共産化中国の傲慢な意識や朝鮮時代の階級意識の影響が少なからずあったと考えていますが、同時に優位になった日本人の、在日中国人や韓国朝鮮人への差別意識も大きかったと思います。

戦前前までの日本人は見聞きする限りでは、もっと大らかで素朴で、それなりにあったと思われる差別や階級意識も受け入れて生きていたように思うのです。

 

その日本人の意識の変わり様は、無意識に価値観の混乱を及ぼし、いつの間にか他国に利用されている現実に気づくのを遅らせてしまったようで、裕福でなくともそこそこの中流意識が”利用されている”事実を、援助しているとか先進社会を謳歌しているとかの誤解を生み、皆で行動することで現実を非現実化させながら、結果的に自らの手で格差社会を仕立ててしまったことに気づかなかった。

その根拠はそもそも利用する側の協力者であった政治家や学者、経済人を野放しにしながら、彼らの一方的な偏った経済政策を見逃してきただけでなく、加担さえする者も少なくなかった、善悪意識の偏りが必ず付きまとっているからです。

 

かなり厳しい分析になってしまいましたが、戦後にドイツやイタリアなどの同じ敗戦国が当時然るべき制裁を受けたのに対して、日本はそれを免除される代わりに日本の英知を放棄し、戦勝国にすり寄る選択をしたこと、それ自身を天皇に押し付けて、どさくさを利用して、特別扱いかのように現在に至っている事は事実です。

国民の多くは、自分たちはそうさせられたと徒党を組んで言い張るかもしれませんが、それを翻せば皆で少しずつ旨味を奪い合って、戦傷を癒したにす義ないのかもしれないのです。

 

物事の真偽を量る基準としての”拠り所”に、原則強制的な宗教を持たない私たちは、その宙ぶらりんな状況で、善悪を判断してきましたが、あるところまでは教育された道徳や、習慣として残る神教のよる参拝の習慣や、仏教の先祖や輪廻の教えは、大きな支えになったかもしれません。

それでも教育の一貫性を欠いてしまった日本では、今後もこれらの教えさえも薄れていく可能性があり、単に個人の善悪観で世界中の人と対峙していかなければならなくなるかもしれません。

 

1945年から数え、戦後75年を迎えた今はその長い期間の間に多くの人達が、戦後から起きていた多くの矛盾に気づき始め、若い人から改めてその意義を問い直す意識は強くなっている気がします。

日本人にとって、その際に善悪とは何か、たった一人だけの善・もしくは悪が有った時に、どう共感しどう裁くのかをを考え直すのは、有意義なきっかけになると思い、取り上げてみましたが、最も怖いのは日本人の根底には集団意識だけで善悪の判断をしやすい悪習が付いてしまった分、しっかり善悪観を意識し、行動に責任を持つ姿勢を大事にしなければいけないと思いました。

日本の思うように世界は動かない

何やら、今後はマークされた人物は中国国外にいたとしても捕まる可能性があるとのことなので、厄介ですね。
あと気にっなったのが、今回の件のネット記事の一般人か投稿するコメントの中に、何人かわかりませんが
、周庭さんを擁護するコメント(内容は一般的な同情)に対して、“今回の件で中国を批判してる奴は完全にアメリカの犬ということに気付かないのか?
本来であれば日本は中国と協力してアジアの覇権をアメリカから取り戻さなければいけないのに!”
みたいなものがありました。
仮にそうだとして、中国のやり方で支配された世界とアメリカのやり方で支配された世界とどっちが生きやすいかと言われれば後者になるので、そのコメントはやはり暴論だと思いました。

 

日本人の方が中国人より視野は広いが、主張が弱いのでなめられ易いかな。

 

たしかに日本人は同調圧力に弱いですし、“和”というのが時として悪く働くことがある民族なので、脇目も振らずに周りのこと気にせず振る舞う中国人より結果として“弱い”ということになってしまいますね。
…というか黒柳さんも言われてるいることですが、最近の中国というのは、“中国以外の国の物事の道理”というのが、全く通じないのか、あえて通じようとしないのかわかりませんが、もう外交だとか協議とかでなんともならないレベル…ナチススターリン時代のソ連みたいになってしまっているので、行き着く先は武力衝突しかないのかなとも思えます。
アメリカだけじゃなく、ヨーロッパとアフリカも中国離れが始まると良いですね。

 

残念ながら、おそらく私達の代ではこの問題は解消しないでしょう。
従来からの中国人の性根を熟知した上で、中国共産党は成長した経緯があります。
解決のヒントは、同族である香港人と台湾人という成功事例は存在し、その遺伝子が優位に立てる状況ができるかどうかになります。
日本国内でも、中共勢力親派の影響力を身近に感じたとき、流されずにいられるかを考えれば、決して他人事ではあり得ない。
日本人は70年以上、平和を自ら戦わずして得たことで、世界の誰でも日本人と同じ感覚で平和に成れると勘違するようになってしまいました。お金で買えるのは平和ではなく強制でしかないのに、日本人は経済力にかまけ、周りの主体性を重んじることなく、日本式を強要したに過ぎません。

 

 

 

 そんな日本がアジアのリーダーシップを担う?あり得ないですよね。
共産党体質の中国解体は、他国主導で日本は積極的に参加協力する事から謙虚に始めるしかないでしょう。
今の日本はカネの貢献でなく、人の貢献が一日でも早くできるように、努力すべきです。