くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

ハイ・ブランド地域の「大人事情」と、いい訳しない「子ども環境」

実際に子育てをする環境については、紹介記事のように賛否両論や利害の絡む問題が多く報道されるようになりましたが、この決着は永久に終わることのない大人事情からくる問題ではないかな、とつくづく感じざるを得ません。 

 

実際に子の親である有名人の意見は、リアルで重い。

 

という趣旨で、今回紹介した記事には、子育て中でありまた影響力の強い芸能人のコメントを挙げたものですが、そのリアル子育て世代であっても「反対派」の一定の理解を含む意見は、この問題の複雑なところを垣間見ることができます。

反対派の意見は様々ではありますが、個人的な事情的・感情的な意見は置いておくとしても、土地価格・資産価値に直接響く「ハイブランド」つまり土地や地域のブラン性とひかくされる地域も在るという事実は、その地域を含む自治体によっては、高い税金を払う高額所得者や、その所有者への忖度や優遇という事情も含まれることにな

ります。

 

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松嶋尚美、児相が自宅近くに建設されたら…「引っ越す可能性はあります」/芸能/デイリースポーツ online

 

 今回の争いはその利害よりも、区はあくまで「育児教育の健全化」を主張していて、正当性が高いと判断したという、とても明快な結論に至りそうだということです。

今後この判断は、他地域の重要な判例になるでしょうし、一方で土地の資産価値基準の左右にもなるだけに、どちらを優先させるか注目したくなります。

 

ただ、これはあくまで一つの事例にすぎず、根本解決のきっかっけになるかさえ不透明ですし、住人それぞれの境遇によって条件や事情は様々で、また子どもの生活環境とはまた違った課題があってその環境づくりには「人口増加時代の習慣からの脱却」が必要です。

その課題解決には何が必要でしょうか。

 

一つは、素直に日本人感覚で考えれば「守る環境」は是であるという一般認識自体が、社会の仕組みは大人たちの都合優先で機能しているため、子どもの実質的な見方が「親」になる点で、大人ならではのずる賢さはコントロールできる一方で、子供はそれを持ちたくても持てず、そこから守れるのは権限も含めると親だけです。

子ども全てがこの問題に結束するにしても非力で当然認識も弱いため意見が通りにくく、大人も子育て問題に関わる・関わらないという立場で二分され、その内の反対派が今後増えていく時代です。

 

もちろん現実はこれほど明確に二分できるものでありませんし、あくまで子どもの立場をわかりやすくするためです、また世界全体の統計上は私たちが思っているほど育児環境は劣化しておらず、むしろ確実に改善されているらしいので、あまりネガティブな情報に振り回されないように注意が必要ですが、大人の意見や影響力が絶対的であるのは確かでしょう。

さて二つ目でも大人の事情は優先されていて、その親御さんが人口減少で子どもと共に減少する一方で、教育方針の変化でより個人化や道徳不足、また訴訟問題の複雑化があります。

 

子どもの味方は減り、大人の個人事情が優先される時代にあって、景気後退の中で個人福祉への要望が強く、教育・母子福祉への要求は相対的に弱くなるわけですが、日本の弱者保護の認識から子ども福祉環境の見直しは、行政会議の議題に上がってはいますが、その割り当てはまだまだ不足しています。 

さて、わかりきった現状を一通りあげててみましたが、筆者の意見を申し上げますと、その私たち大人が忙しかったり複雑化した社会で活くる中で、忘れてしまいがちな大事なことを、まず。

 

「大人もかつては、子どもだった」

 

とても基本的で大事なことです。

その子ども時代に、問題にも触れることなく過ごせた幸運な人や、逆にいじめや暴行など不遇な時代を過ごして大人になった方々は、素直に子どもの味方になれないかもしれませんが、その程度があっても素直に「子どもって可愛いな・守りたいな」という感情が行動に出せない大人が、主導権を握っているのかもしれません。

また、自宅はもとより公共の場において子どもの泣き声を、「当たり前・良いこと」だと受け流せる方と、「騒音・悪いこと」と感情的になる方がいらっしゃるのも、意見の相違を生んでいるのでしょう。

 

でも子どもは自分を守るために「泣く」んですよね、その経験は誰にでもたくさんあることですが、それを大人になると多くが忘れてしまうのは何なんですかね、それも人の成長の上では仕方ないことなんですかね。

もし可能ならば、統計でこうしたギャップが数字で証明されると、もっとこの問題は論議しやすくなるなるんでしょうね、実際はとても困難なことだし大人の都合で努力さえしないかもしれませんね、次に。

 

「子どもが国の宝でなくなった」

 

事実なら衝撃的なことですね、でもご安心を。あくまでも私見ですから、

お国の自治や政策において福祉は格段に改善されていますが、その福祉のウエイトは子どもに無く、大人特に高齢者寄りにシフトし続けていることです。

人口比率のグラフをご覧になった方は、それをみて何をお感じになりましたか? 筆者は特に感じたのは「子どもはますます冷遇されるな」ということで、これは単純に数からして子供に共感できる大人が減ることを意味します。

 

「そんなことは無い! 高齢者にも、子どもの味方は多い」

 

そんな、大人目線の声も聞こえてきそうですし筆者も否定はしませんが、多数決至上主義の日本ではその意見が通る確率は格段に減るという点で説得力は弱まりますし、「大人事情」を見れば建前と本音の現実は消えることなく、先の記事にあった事例を実際に生んでいます。

 

加えて一部の親御さんをのぞいて、子どもに不利な行政がまかり通る事実を行動で止めていないのは、

 

「個人福祉の予算に影響なければ良いよ」

 

という大人事情が国内に憚っているのか、政治家・行政者にその意図があるのかは照明が困難ですが、これも大人比率増加の弊害でしょうし、増えた分単純に大人側に多様な言い訳がしやすくなっているということです。

私たち大人は、景気悪化を理由に反論する裁量を増やし、その結果少子化に拍車をかけてしまいましたが、その不公平をどうするかを話し合ってある程度の覚悟を持つのは、大人であれば逃げてはならないない責任と義務。

 

今の社会は、子どもに限らず大人に対しても「利便性の商用化」が進み、人は実現可能な範囲でしか夢を見なくなり、その夢は企業によってお金を払えば実現する時代になりました。

たしかにこの環境は先代からの大人による血の汗と努力によって得られた戦利品であり、子ども時代から苦虫を潰し大人になられた方からすれば、大人事情も否定できるものではありません。

 

ただ、その過程で「子ども事情」は優位性を目減りさせ、教育を歪め育児環境の向上より大人福祉の向上を優先させてきたのも事実です。

その何が悪いと言われそうですが、「痛みを受けてもなんとかしてあげる」のは有事でもない今は平和な時代になったのですし、あくせくせざるを得なかった人口増加時代の習慣から脱却する意味で、意識を変えても良い頃でもあります。

 

まずはシンプルに、子どもの今の待遇や環境に寄り添ってもバチは当たらない。

 

各世代の自分らの子ども時代と比べて、いろんなことが変わっている変化を受け入れるゆとりが持てないと感じる大人が多いように言われますが、国が豊かになるにつれ要求度も高くなっていくのであり、知りながら他人事のように見て見ぬふりするのが大人だとすれば、平和の時代であっても子どもたちは不幸になるしかありません。

その豊かさの多くとまで言わなくとも、最低限の認識と情報を理解したり、忙しいかも知れなくても、1分でもいいから子供の頃の「子どもの心」を思い出してもらえば、きっと役立つヒントが見つからないでしょうか。

 

不当な大人の理不尽に、耐え従わざるを得なかったり、その行動に「助けて欲しい」と無心で救いを求めた子ども時代があって、その不遇が大人になって招いたけっかだとすれば、それは責められるものではないかも知れません。

その憂いもあってか、子ども事情を後回しにしているなら悲劇でしかありませんが、その悲劇を喜劇に転換するのは大人でしかできない以上は、大人が行動するしかなくその結果が「新たな不幸」を作らないように、誤魔化しの効かない「明るい・暗い」どちらへの未来にも反映されていく事実を忘れず行動に生かすべきでしょう。

 

 

2019年花開け。堀越二郎氏も夢見た?紙飛行機から始まった未来

2019年の航空機は、どんな未来が開けるでしょう?

昨年来、日本製の旅客機「MRJ」はようやくアメリカで実地飛行テストにこぎつけました。

 

そのなかでアメリカ企業は近未来に向けて、アメリカン・ドリームへの準備を進めているようです。

チューブのレーンの中を超高速で走る列車の次は……

 

www.sankei.com

マッハ2.2の空の旅が実現する? 戦闘機そっくりな超音速旅客機が開発中 - 産経ニュース

 

かつて、フランス製コンコルドが果たせなかった空の未来を、受け継ぐかのようなこのニュースはとても羨ましいかぎりで、MRJもこれにあやかりたいもの。 

同じ航空機でもアメリカといえば、民間機のイメージと共に軍事大国の自責の念からか、軍用機の進化を優先させてきた側面も大きいので、ようやくというかこういう未来をも実現を目指すようになったのは、前向きに拍手を贈りたいですね。

 

日本の航空機事情を思うに、返せば不幸ながらも戦時中に花開いてしまった才能の話に及びますが、かつて日本人の中に空への平和利用に尽力を願った、航空機開発の天才が居たのは、みなさんもご存知の通りですよね。

 

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ジブリ最新作主人公(ゼロ戦設計者・堀越二郎)「幻の名機 烈風」の設計図に込めた思い(フライデー) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

宮崎駿監督によってアニメ化もされ注目も浴びましたが、堀越二郎氏の才能が兵器として高性能な零戦を生んだ失意を、改めて思い巡らせてみます。

彼の本意は彼によって結果実現しなかったが、例えばこうした最速の航空機に才能を費やしたかったに違いないだろうし、その希望が別の形で実現する姿を見ると、少しは彼の夢みた未来が、形になっていくのを見て、

 「経緯はともかく、結果として良かれ」

と、思うしかないのでしょうか。

 

その答えは、昨年の「HONDA JET」デビューでもわかる通り、日本人によって実現されていて本田宗一郎氏を通して彼の思いは文字通り引き継がれ、その後継者の世代でついに花開いたことは、彼の才能が「一矢報いた」と考えれば、希望が残る話にも解釈できるかな、とも思うのです。

 

そのためにも、私たち中に居るであろう後世の担い手によって、より確実に事実化する努力を引き継いで欲しいし、戦争を決して無駄にしないことにもつながるのでしょう。 

是非とも、この勢いで次は『MRJ』で中型旅客機でも成功してほしいし、

 

「紙飛行機から始まった、空への想い」

 

を、もっともっと叶えてほしいものですね。

フィンランド発交通システムの反響と近未来

欧州連合EU)の一国であるフィンランドは、日本でも高福祉・教育国家として知られていて、日本とも国の規模が似ていることから、行政や技術的に参考にされやすい国のひとつだそうです。 

 そのフィンランドで実際に稼働している、次世代交通網システムの日本導入が検討されるのは当然といえばそうですが、昨年からそのローカライズや国内企業連携に利用されているようです。

 

toyokeizai.net

欧州の交通サービス「MaaS」は日本に根付くか | ローカル線・公共交通 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 こうした交通網(インフラ)システムは、トヨタ自動車と政府・NTTなどが、事象実験的にトライアンドエラーを繰り返している話題を何度か紹介していますが、日産自動車に代表される国内自動車・建設関連企業の計測データー不正などの問題が連続して、オールジャパン体制が思うように進まない中では、汎用技術の導入は最も現実的であり、大阪万博までに何とか形にしたいと政府が進めている、近未来技術の実用化・国内導入計画への、最も現実的で早道になると期待されています。

 

都市と地方をリンクさせる鉄道網や道路網は順調でないまでも進んでおり、このシステムは各地域内での交通網の統一・合理化に役立つ技術として期待されるもので、古い世代の筆者などは、同じ欧州発の汎用OS「LINUX」の先進性に思いを重ねてしまいます。

北欧国はEU統合前からパテントに縛られない、汎用性の高いソフトウエアを開発する素地があって、アメリカ型の知的資源の個人化の文化と異なる、共有化する文化が根付いているようで、限定された独占市場に対してオープンな市場を広めるのに、大きく貢献しているのは、日本の文化的価値観と近くてこの資質も大いに学び、連携していく価値がありそうです。

 

日本は、同じEUのフランスとルノー・日産の企業争奪戦で争わねばならなくなっていますが、今後世界各国の連携がアメリカや中国のような一国統治に進むのか、EUのような共有連携に向かうのかわかりませんが、少なくとも日本の立場からして後者の体制が国際化した方が分がいいのは間違いなさそうです。

その共有連携の社会を実現するためにも、今後日本がどのような貢献ができるか、その意味で「MaaS」の導入・改善が生み出すものものは、交通インフラの未来化に止まらない「世界の近未来化」にも大きく影響を及ぼしてくれないかと、期待するものです。

健康な人生と、薬・クスリと生活のバランス

今年話題の長期連休が「プラチナ・ウイーク」と命名されるなど、かつてなかった長期連休を、今からどう使うかが既に大盛り上がりになっていますね。

ただ、一方で病院の対応や育児施設の方針などで混乱が予想されていて、生活の内容によっては差が出始めていますが、今年も良い面と課題を残す面との格差が注目される年になりそうですね。

 

さて、今回はそういった生活の中で地味でも未だ悩ましいクスリとの付き合い方について記事りたいと思いますが、当ブログでも過去に取り上げた「ジェネリック薬品」についてです。

私達が病院で診察を受けたあとで、必ずと言っていいほど診察医からクスリの処方を受けますが、そのクスリは院外処方がもうあたり前になった時代で、一時期そのあおりで「薬漬け」の問題が話題になりました。

 

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「先生、その薬、本当に必要ですか」思い切って尋ねてみたら…(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)

 

その問題は、余り話題にならなくなってはきましたが、今でも処方箋発行の際に診察医との、ジェネリック処方の交渉がやりづらいことは変わっていないようですね。

これは院外処方が、福祉向上より院外商法化に偏っていることを指すものかもしれませんが、相変わらず相場と言われる価格より低く手に入る「薬」にお得感を感じてしまう傾向も、その課題になっているように思います。

 

当初、ジェネリック薬品の登場は、保守的な医療制度の高額化の傾向を緩和する良作として注目されてきましたが、実際はその恩恵が活用されることが少なく、むしろその恩恵を躊躇する人も少なくないようです。

これは未だ患者の多くが、医者=お上(崇める人)という先入観からの解放がされていないこともありますが、それ以上に医者(医療)=聖域・逆らえないものとしてイメージを変えられていない事実にあります。

 

その上で「薬」は、まるで都市伝説のように、お金のようにありがたいもの・お得なものという実利と乖離した高付加価値のイメージから抜け出ていない現実を持っていて、海外のそれとはかなり現実離れした医療のあるべき姿が、日本でなくならないを私たちは何とか変えていかなければならないと考えます。

これを課題として考えた時に、なぜ単なるモノである薬にここまでお得感を感じてしまうのかを考えると、

 

・あっても増えても困らないが、いざ無いと困る。

・負担が少なく、むしろ国民としての恩恵を感じる。

・海外のそれに比べ制度の充実度が高く、優越感が大きい。

 

 などなど……いくつか挙げられますが、筆者が心配なのは3番目の理由に関わる、精神的に離れられない「日本神話」への執着にある気がしてなりません。

医療については、現実的に医療には闇や問題が多くありますが、恩恵を受ける側から見て克服しなければならない核になる課題は、これに集約できると考えます。

この比喩は、医療サービスだけのものではなく、国と国民の関係全般に見られるもので、今ではメディアに煽られて政府に対しては批判の目が行き届いてはいますが、医療に関しては最近の不祥事がようやく大きく扱われるようになった分、その問題と課題が他人事に考えるより、まだ良質の福祉と見る人が大勢を占めています。

 

あながち間違いでは無いにしても、今叩かれている政治と同等のさまざまな課題が蓄積されていると予想され、医療が神聖化されてきた日本で私たちはその未知の課題に踏み込めずにいるというのが現状なのです。

「命に関わることだから信じたい」

 この気持ちは筆者を含め、変えたく無い思いです。

しかし、昨今のニュースが示す次々起こる問題は、こうした当事者になった方々なら医療業界は、けっして諸手を上げて肯定できるような聖域ではないことを、経験を持って知っています。

 

人によっては、語るもおぞましい現状を思い知らされた方もいらっしゃるでしょうが、お察しするとともにこの伏せられがちな現状と問題を、単にメディアで報じられる量を過信すること無く、政治・経済以上に厳しく・公平な目線を緩めてはなりません。

クスリを飲んで、病が改善されることは確かに私たちには有益ですが、がん治療に放射線治療や抗生剤投与が効果を出すというのは、最近では疑問を呈する人々が増えている事実からも、最善と信じて未だ体制変化を好まない医療の姿はあまりに不自然ですが、なぜか看過され一方でいつ実現するか未知数の、一部の医療技術革新に目が行きがちです。

 

もちろん、医療に関わる人たち全部が疑わしいわけではありませんし、結果的に恩恵を受けていることは間違いない事実ですが、医者を含め政治に関わる人たちは、私たちより知能が高い人が従事しており、そう言う人なら国民に善意的な制度を与えてくれていると、単純に信じて疑わない側がいる限り、どの商売もそうですが改善されないのも世の常です。

医療はイメージ的に別格化されやすいですが、民主国家日本においてもれっきとした民間企業体であり、その組織の良し悪しは今注目される政治以上に厚いベールに隠されたブラックボックスという事実は政治以上に「闇案件」なのに、このまま改善もされずに未来に進んでいくのでしょうか?

 

今回は、かなり踏み込んだ内容になりましたが、クスリひとつ取っても関わるものと関わらないものの認識のギャップがある事実を書いてみましたが、「闇案件」のフレーズと合わせ、もう2つ話題語を使って言うならば、

 

「信じるも信じないも、あなた次第、です!」

と関氏のセリフを借り、

 

「ぼぅーっと、生きてんじゃねーよ!!」

と、チコちゃんに喝をいただき、

 

三連ちゃんで流行にあやかりつつ、

自責の念と緊張感(どこが?)を持ちつつ、締めくくりたいと思います(汗)

無くてはならない(2)愛すべきペットの付き合い方、そして始末

今回も、本ブログテーマに直接は関わらないけれど、捨て置けないテーマにふれておきますが、私達の生活に無くてはならないシリーズ第2弾「ペット」についてです。

多くの家庭でペットは、単なる主従関係を超えた「家族の一員」もしくは「生活のパートナー」の存在になっていて、飼う飼わないにかかわらず避けて通れない社会現象になっています。

 

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愛するペットを遺して死んだときのため、私はこんな準備をした(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

この現象を考える前に、立場を明確にするためにまずは筆者のペット観を述べておきたいと思いますが、筆者は今ペットを飼わない派?になっていますので、幼少時代以来ペットを持っていないし、今でも敢えて飼わないと決めている立場です。

それに至った由来は、幼少時代飼っていた猫との死別と親の方針(飼えばそのいずれ来る死を多く見る辛さと、所有する人の欲を肯定できないという考え)の影響が大きかったせいですし、同じく幼少時代の体験(心ない大人によって、目の前で子猫を溺死させる姿を見せられた)トラウマもあって、人に関わらず生命の死をネガティブにする傾向があるからであり、必要以上にその生死に関わりたくないと考えるためです。

 

今でこそ人を含めて「生きもの」が与えてくれる温かさやモチベーションの大きさと深さは理解できるようになりましたが、こうした体験から今のペットの不遇の話題はより耐えられなくなっていて、可能性が1%でもあればペットは飼わないという立場を捨てられずにいます。

これは、あくまで私見であり筆者自身がペットの存在を否定するどころか、幸せに生きているであろう多くのペットたちを祝福したい立場であり、それだからこそ家族としての存在になっていることに安堵するのです。

 

私たちは、家族の一員として死との対面を避けては通れないし、そこから学ぶべき大きな意味を得るためにも、ペットとの付き合いは家族同等の意味を持って然るべきですし、その関係はこれからも深まってほしいと願っています。

ただ、残念なことに自分が死に至るとわかった時に、家族として愛玩生物としての存在をも十分に思いやった上で、手軽に入手できるようになった今、筆者がもっとも畏れた不幸との遭遇が、少しでも少なくなることように知恵を働かせるのが、最高の叡智であるはず人の責任であり、温情だと信じています。

 

 

無くてはならない(1)スマホとの適度な距離感について

今回は、直接まちづくりと関係しない話題に触れますが、今では私達の生活に欠かせない存在になりつつあるもの「スマホ」の付き合い方について考えます。

「無くてはならない」2回シリーズの第1弾です。

昨年もSB社のサーバーダウン発生の事件で、スマホの使えない生活がどれほどの影響を及ぼすかを改めて実感したことで、改めてこの便利なインフラとの付き合い方を真剣に考えさせられました。

 

一方で、紹介記事のようにスマホの利用については以前から課題を抱えていて、特に子ども使用時への影響と心配はこれからも様々な形で取り上げられることでしょう。 

大人の私たちも、その葛藤はより現実的であり、引いては経済活動や豊かな生活環境へもつながる、複雑な課題でもありますが、おおむねは利用を歓迎されるスマホと私たちはどう付き合っていけばよいのでしょうか。

 

www.bbc.com

スマホと別れる心の準備、できていますか? - BBCニュース

 

マイノリティな部分からですが、今でもこうした問題を警戒して利用をためらう人も高齢者を中心に少なからずいらっしゃるので、彼らに無理くりその環境を押し付けられない課題もありますが、それ以外の人々がマジョリティ(大勢)であり、彼らの希望はますます叶えられにくくなっていますが、まさにその年齢層の方々こそ介護福祉においてその恩恵が必要になりつつある今、以前からの課題である少子化・人口減による人材不足で、サポートする人も激減しています。

この現実を、次世代の高齢者予備軍は熟知していますが、現役高齢者の方々は時代の早さについて行けないために、参加の足が遅くなりがちで、その恩恵に確実に間に合わない世代については、若い世代に大きな負担になります。

 

支えられる側と支える側の極度のアンバランスは、経済成長や福祉充実への足かせになっている以上、世界でも最先端に居る日本がその何らかの答えを最初に示していかなければならないでしょう。

私たちはあまり慣習的に前に出たり、目立とうとしない傾向が強く、こうした要求に対しての回答に上手く立ち回れないかもしれませんが、逆に言えば小国日本が世界に注目される数少ないチャンスと見る向きもあり、本気で取り組んでけっして損はないチャレンジであるのも、間違いありません。

 

 このチャレンジは、政府や企業はもちろんのこと、私たち個人ユーザーの認識と行動がもっとも試されると考えられ、単なる企業のシェア争いの客としてでなく、スマホ社会のあるべき姿と未来像をデザインする構成員として、とても大きな意味を持っています。

これから未来を気づいていく私たちにとって、AIとネット端末の活用は新しいだけで無く、その付き合い方そのものが私たちの生活向上に深く関わり、誰もが好き嫌いにかかわらず避けて通れない「今そこにある問題」として再認識していかなければなりません。

 

その取り組みを前提にした上で、これから起こるさまざまな課題を考えていく必要があるために、意識でしていない人はいちいち意識してでも生活する習慣を持っていかなければならないでしょうし、もう生活の一部になっている人はスマホと生活とのバランスを取りながら付き合うことになるでしょう。

この無くてはならないモノとの課題が意味するも、忘れてはならない一番大切なことは、情報氾濫するネット社会の中でまた次世代知能として中心になりつつあるAIの存在を利用するなかで、いかに自分に有益な情報を精査できるか、そしてなにより仮想化する未来においてリアルな現実としてこれからも存在し続ける「人間の尊厳と自覚」をどこまで持ち続けられるか?にあるでしょう。

 

そもそもネットやAIは生まれた経緯・成り立ちの違いはあれど、最終的に願われているものは私たち「人」が、降りかかる未来の問題のサポートとして、なによりも人が中心にある社会の向上を望まれて成長しているはずであり、それが望むことのはずです。

その不動であるべき基準からして、現実はその進化のスピードに当惑し、振り回される姿が表している通り問題であり、忘れてはならない目の前の課題なわけですから、その自覚を新たにして、まだ傷の浅い間にそれぞれがスマホとの関係をコントロールするスキルを磨き、このネットというインフラがいずれ擬人化を超え「知的生物」として認知されるまでに、備えなければならないのです。

 

 

名古屋の新「市電」復活と、世界インフラの近未来

今回は、とてつもなくスケールのでっかいテーマになっちゃいましたが、こんな話もいいかなと開き直って書きます。

 

今当に東京では、観光を引き金に物流・エネルギー関連でも湾岸開発が加速しており、関西・中部でも同様な計画が発表されていて、 災害などの厳しい現実の中でも近未来実現への取り組みは止む事はありません。

具体的には、12月に発表された「SRT」インフラの導入の話題が最新で、予てから名古屋やその周辺地域で自称実験を実施してきたとおり、その成果がいよいよ実を結ぼうとしています。 

 

www.chunichi.co.jp

「未来型バス」名古屋市が構想案 リニア開業時開通目指す:愛知:中日新聞(CHUNICHI Web)

 

名古屋市は、かつて「市電」が走っていて、近い将来にその姿が最新の技術によって復活するという事であり、降って湧いたこの話題はなかなか進行しないMRJや木造名古屋城の話題を差し引いても余りある、ステキな話題と捉えられます。 

 

そもそも名古屋圏の公共バス・鉄道網は、関東や関西圏のそれとは異質で、競争原理が働きにくい、限定された企業の中にありました。

その事実は地域事情の現実として変わることが難しかったとしても、それはそれとして新たに加わる新交通システムから、受ける恩恵は十分にあります。

 

加えて、今後期待されるのは東西大都市商圏のように、少しでも公共バス鉄道市場のシェア戦化へのきっかけにもなればと、筆者は密かに期待もしますがそれはさておき、これからITインフラを根幹としたAIシステムが標準導入されていく、国内インフラ市場は、過去のシェア争いを凌駕する道の市場開拓が期待されています。

 

web.smartnews.com

自動運転バス「Apolong」が日本仕様になって上陸へ SBドライブとバイドゥが2018年度内に実証実験 (ねとらぼ)

 

個人的に気になっているのは、オーバーアクションの最近台頭するIT企業の動きと、AIインフラ技術を国策で急激に発展させている中国の他国に対する動きで、特に中国政府の国内民間企業をいつでも国営化できる方針を緩めない事です。

これが、日本のような小国市場で発展するうえでは、競争原理が働き具合がいいのでしょうが、国そのものが巨大な実験市場となる、得意独占市場を持つ中国テクノロジーが捉えようとする、数々の世界市場戦略が与えるインパクトと影響力は、その後の世界のあらゆる過去の実績をもっても、予測しづらい未知の領域だけに、米トランプ大統領の奇行と揶揄される市場防衛策は、むしろ不思議ではないほど緊急性の高い現象であることを無視出来ません。 

 

昨年からのこうした世相の中で、今年はこうした不安要素に対して「ブレない」企業姿勢が問われる年になるように思います。

大枠で国内景気は、昨年来通せば順ではありますが今年になってその実利は現れると予想されるだけに、今年こそ引き締めを進める企業が増えると予想される年でもありますので、政府も2020年への計画を成功させるために、具体的案件を詰めずに大枠の施策を通す姿勢を継続するでしょう。

 

中央の動きが、東京を中心とした日本全体の体裁整えに集中せざるを得ない姿勢からみても、柔軟化が問われる時代において国内市場にゆとりの無さが伺い知れます。

この柔軟化をどれだけ実現するかは、地域の活性進行を地域単位の自力でどこまで成し遂げられるかが、成功の鍵になるでしょう。

 

自然災害の影響でゆとりを見せられない地域の復興には、まだまだ時間を要するタイミングではありますが、30年の平成時代を終え新しい年号の元年となる年は、歴史から見ても偶然でなく、日本の大きな転換点・節目の年であるのは宿命です。

「何かが変わる」年でなく「何かを変える」年であり、その課題は私たちひとりひとり自らが探し、他力本願にせず各々の水際で食い止める、自覚と自制と行動力を示す文字通り「自分が変化させる年」として、今後この国の歴史の1ページに残せるよう、今から計画を結果につながる一年にしたいです。