くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

自由という名の悪魔と天使は、宿主に何を囁くのか?

今、大雑把に見れば私たちの世界は自由と束縛の2つの選択肢の中で生きていることになりますが、そのうちの自由が認められる社会が、今後どのように展開していくのか希望と不安、そこどちらもお感じの方も多いと思います。

世界規模で言えばアメリカと中国の覇権争いは、毎日のように報道されてその動向に一喜一憂する毎日ですが、こうした政治的な自由世界の行方については、人の数だけ考え方があるでしょうが、筆者が言いたいのは、自由そのものよりそれにセットになってくる責任についてです。

 

自由とは中国のような統制管理社会では、認められていないもので、米中覇権争いは自由と統制の争いでもあり、これはこれで重要なテーマですが、今回はもっと身近に自由と統制を掘り下げようと試みます。

引用記事は、最も生活に身近で車社会が小さい子どもたちまでも関わるもので、自動車を運転する人の意識についての記事ですが、人によってはその環境下で似たようなシーンに出くわしているはずですし、運転する人の多くが車を使う自由は支払った対価に合わせて使い倒す一方で、その責任は逃れがちなのにふと気づくことはないでしょうか。

 

headlines.yahoo.co.jp

運転がうまい人ほど高く、苦手な人に足りない「先を読む」能力(Auto Messe Web) - Yahoo!ニュース

 

今まだ協議中の池袋母子ひき逃げの一件でも問題になったように、買った車をどんな目的でどういう都合で利用しようとそれは自由ですが、余りにも自己利益優先で使い続けると、ある時そのツケを払わされる結末を迎えることを、この事件は物語っています。

乱暴ですが、別に運転がうまく無くとも、車は免許という名の国のお墨付きさえ持っていれば運転できるのですが、運転のスペシャリスト清水さんの言う理想的運転テクとは、適材適所で柔軟な状況判断と安全意識を最優先できることなんですね。

 

また、エコドライブという言葉が注目されていますが、その根本はドライバーのアクセル・ブレーキ・ステアリング操作と、先読み力の向上は正論である一方で、そのハンディを補うとされたアイドリングストップや、ハイブリッドカーによる恩恵はその前提なくして効果が小さく、実際燃費競争がシビアなコンパクトカーでは、新型ヤリス(旧名ビッツ)からアイドリングストップは廃止されたそうです。

結局、高コストな機能を選ぶ自由は単に嗜好性で選ぶメリットはあっても、エコカー=エコドライブでは必ずしも無く、エコカーを買った手前過度に低速度で走る自縛でストレスが高まったり、より放漫な運転を自由化するデメリットが大きいかもしれませんし、そもそも燃料消費を節約したからと言って、実質的なエコに貢献したことにはなっていません。

 

こうした誤解の類は、車の運転に限ぎらず人付き合いやものづくりなど、おおよそ仕事や生活のあらゆるシーンのどこにでもあるあるなことで、うまく対処すれば自分が楽になるし、失敗もしくは気づかずに行動すれば自己に負担となるわけで、それも自由と言うことになります。

先読みをどれだけすれば良いのかもケースバイケースであり、しない方が幸せな場合もあるでしょうし、先読み自慢が損得とは別だったり難しい話なんですが、少なくとも自覚した上で選択する自由を行使したほうが良いことは間違いありません。

 

グレタさんの比較記事でも試みたように、今回のように自動車運転の意識とマナーを、どの程度自覚しルールと自己責任の範疇で運転するかを、いつも比較し固定しないような、柔軟な行動や先読みする思考が無いと、思わぬしっぺ返しが降りかかります。

また、表題のようないわゆる善と悪とかの二者択一的な考え方が、かならずしも適切だとは言いませんが、分かりやすく極端に比較発想するのは、判断や行動をある程度自己判定するために、有効で手軽なツールになるだけに、両方の肩に悪魔と天使を置いて置くのも良いかもしれません。

 

因みに筆者には、妖精さんと悪魔クンが囁いてくれていますが、彼らが居てくれることで、ある程度の心の安定と、客観的な視点のサポートに貢献してくれているのは、事実です。

こうした難解故に尻込みしがちな課題を、擬人化したり愛称をつけたり親しみを持てるよう工夫して、能動的に行動しやすくするのもアリかなと思います、人に知られたら変人呼ばわりされそうですけどねw

 

今回は自動車ドライバー体験から実感したことを例に、自由の解釈について書いてみましたが、どの道でもその道程は何でもよいわけですから、自身が自由を楽しみ没頭できる何かを継続する上で、善悪の二律背反性が上手くその道に導いてくれることを祈っています。

筆者も道半ばですが、自分から行動を制限しないよう解放し、自由な目線で自分に正直な意見を少しでも多くの人に見てもらえるように、たとえプロでなくとも執筆道を一歩一歩進んでいきたいです。