くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

環境変化が問題化される功罪

日本では特にエコと言うキーワードでここ30年ほど前から折に触れて、注目されてきた環境保護問題について、筆者なりにも過去に様々触れてきましたが、ここ数年で日本は海外の環境保護団体から、その努力を評価されるどころか、その要求は高まるばかりでなく、最低ランクに位置づけられる始末です。

それでも真面目な日本人は、単に努力が足りないと謙虚に努力を続け、その支援に補助金を海外へ出し続けていますが、今思い起こせばこの努力はそもそも適切だったのか、懐疑的になっています。

 

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オーストラリアの森林火災は、コアラやカンガルーがすむ独自の生態系まで壊滅させる|WIRED.jp

 

上の記事は、ここ最近の環境の変化を専門家の立場から純粋に警鐘を鳴らすものですが、私達はこの類の記事を読むたびに、猜疑心と罪悪感にかられて何か良いことをしなければとか、胡散臭いとか不用意に行動に影響を及ぼしていないでしょうか。

海外の人々がどれ程同じ感情を抱くかは正確には知りませんが、日本としては猜疑心より罪悪感の方が大きいように感じるのは、筆者だけではないでしょう。

 

環境問題と一括にされやすいこれらのニュースは、日本人の戦争贖罪意識の変化形だと筆者は考えていますが、幸か不幸か日本はこの感情が影響して、効率化やエコ性能の優れた製品や生産システムを先駆けて世に送り出して来れたわけです。

ただ、その一方でそれで得た利潤やノウハウは日本優勢の立場で提供されているのでは無く、まるで賠償させられるかのような認識でされやすい傾向が強いようで、更に深刻なのは日本人自体がそれに違和感を持つことなく受け入れてしまっていると言う現実でしょう。

 

もし、この事実を「ナニソレ?」とお感じの方がいらっしゃるのであれば、良く現状を見直されることをおすすめしますが、今少なく無い日本人がこのジレンマに違和感を感じだしているはずです。

筆者も地方創生に興味を持ち、まちおこしのニュースを5年以上追いかけてきた末に感じだした違和感であり、筆者はまだ遅い方だと思いますが、私達は悪く言えば海外の先進国シンクタンクの搾取を戦争の罪悪感情を利用されて、こき使われてきたと言えるでしょう。

 

環境問題の解決には、日本が最先端をリードして本来誇れる行いとなるはずが、現実はいつになっても世界に対する評価は変わらない理由がここに出ているわけですし、結局はそのミスリードを確信的に誘導してきた企業団体が内部留保率を高めたに過ぎませんでした。

その本質において、環境問題とはその効率化であっても自然保護とは本質的に何の関係も無かったのかもしれませんし、おこぼれで多少の恩恵はあったにせよ、それに貢献していると言う自負感を生きがいに働いてきた人々にとって、本来看過できるものではないはずです。

 

日本が、その贖罪を担ってそうしてきたのなら、百歩譲って良しとするにしても、これからも永久的に集られるいわれはないわけですから、エコ対策を言い訳に利潤を増そうとする企業や団体に、安易に奉仕する姿勢は改めていくことが、本来の課題だと言えないでしょうか。

これからも記事のように、環境の変化には敏感になっておくべきなのは間違いないでしょうが、それと同時に進行する資本主義的社会主義的な便乗報道にも、バランスを重視しながらも敏感に反応すべき時代に入っているのです。

 

エコと親しまれた環境問題への細やかな活動や参加は、私たちにとって少しづつ何らかの贖罪意識への癒しとして効果があったのは事実ですが、これからもそれを続けていくのは、少子化に喘ぐ今後の日本にとって負担でしかなくなります。

この負担を推してでも彼らに利益にしかならないエコ活動に参加するメリットがどれだけあるか、その疑問符をつける人が若い世代から増えていることは、注目しておかなければなりません。

 

欧州から世界の先進国を渡り歩き訴えたある少女の勇気は、確かに称えられるべきことかもしれませんが、彼女を利用し広められる義務の押し付けを正当化できるものではないと考えますし、よほど環境事業に関わっている人以外にとって、ことさら過剰意識を持つような緊急性は無いと見ています。

昨今の地球環境の変化がこの百年以上のスパンで見ても、有るのは事実ですが私たち人類の能力ではそれが人的影響度が高いのか、自然の摂理のサイクルでしかないのかの判断はできるものではありません。

 

日本人は特に神教からくる自然信仰の習慣がある分、今の状況を人間の行き過ぎによるものと思いがちですが、その正否をいたずらに強調しまくるメディアの一方通行情報だけを盲信することはとても危険で、日本の優れた資質や資金の単なる浪費に終わりかねない、切実な問題として捉えるべきです。

そうした立ち位置に立つことは、私たち日本人にとって試練に見えますが、実は新しい境地への入り口になるきっかけでしか無く、日本の独自の特異性を真に世界にアピールするために、欠かせない避けては通れない大事な選択の道だと考えます。