くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

振り返るべきは、戦前戦中の暗黒面だけじゃないという気づき

私たちは戦後復興の中で戦勝国の意図も手伝い、戦犯意識と多くの同胞の命を失った後悔から、戦争への贖罪意識から完全に抜け出せないでいますが、これに加え隣国政府からも締結事案の蒸し返しや不当な戦犯請求が加熱していて、ますます戦争悪の意識だけが強調されています。

ここで思い返したいのは、上のような罪に対する真摯な姿勢だけでなく、戦前から続く日本人の誇りと自負であり、一方では戦争で苦渋を舐めさせられた悔しさをバネにして経済復興を遂げたという事実です。

 

www.chunichi.co.jp

磐田・掛塚「福長飛行機研究所」 設立100周年:静岡:中日新聞(CHUNICHI Web)

 

些細ながらも上の事例を挙げたのは、過去の歴史において私たちのしてきた行いが、過ちだけでなくむしろ社会貢献の大きさがどれほどの支えになってきたかを、考え直して欲しいとの考えからですが、日本の職人や偉人が果たした海外貢献度を自負すべきでしょう。

日本が、特に第二次大戦前から戦後にかけて開発した基礎研究や技術は、今でも当たり前に使われる様々な技術の礎にされていて、今の日本人はその子孫なのですから、その事実を一つ一つ丹念に広い、思い出し、学ぶことは今でこそできることです。

 

「これからの日本が、世界にどう認識・評価され、どう応えるべきか?」

 

日本を執拗にヘイトする声があまた湧く中、これこそ最優先課題であるべきです。

それを前提にした、過去の反省を活かす姿勢を忘れてはなりません。

 

私たちが、毎年この時期に多くの時間を費やすのは、戦争への後悔と反省ばかりですが、果たしてその後生まれ育った国民や、これから生まれ育つであろう宝の子どもたちにも、精神的にも負の遺産を引き継がせようとしていいのでしょうか。

筆者は決して、日本の軍部や一部メディアが煽った結果において戦争の道を選んだ先達の行為を正当化する気はさらさらないのですが、同時にだからといって全否定して良い訳でもないと思っています。

 

戦前・戦中・戦後の経緯を今なら多くの事実の記録が残っていますから、今を生きる私たちが正確に後世に伝える義務を忘れてはならない、加えて当時の日本人の工夫と英知をあらゆる方向から洗い出し、引き継ぎべき功績や知恵をもっと評価すべきです。

私たちがなすべきは、誇るべきを誇り誤りは正しく伝えるという至極当たり前のことを、どこまでできるかにこれからの日本の未来はかかっているし、大きなことは当然としてそれが些細なことでも寄せ集めて次の知恵につなぐ「連携力」こそ日本の最たる能力だと考えます。

 

これからも、戦争に加担した多くの反省は残るにしても、過剰な課外意識は見直して、むしろ長い歴史で証明されてきた、日本人の飽くなき向上心と工夫を怠らない真面目な精神も引き継いで行くという意識が大事ではないでしょうか。

今まさにこれらの向上心が疎まれるかのような動きが国内外から起きている危機感が私達を覆いつつあるように見えますが、こういうときにこそ冷静に巻き込まれることのないように、粛々とカイゼンを進める賢さによって、切り抜ける時期なのかもしれません。

 

日本人の家系や出生の根拠と現実

筆者が以前何度か手続きに必要となった際、住民謄本について所轄の役所に訊ねる機会が何度かありましたが、こうした機会が無いと自分の出生について関心を持つことは意外にも少ないことに気づきました。

子どもの頃にありがちな疑問である「私は何者」というルーツへの好奇心は、たいてい親などから口頭で知らされ、探究心の強い子だったならある時点までさかのぼって、打ち切りとなるかもしれませんが、これらの根拠のひとつにある住民謄本の歴史は意外に浅いようです。

 

 この話題を今回取り上げたのは、関連して表面化する民族差別への意識が何から起きているのかを考えるためですが、人が人を差別するのに差別する側が正当化や安心材料として根拠にしているのが公的に出生を記録した戸籍謄本になります。

しかし、これは意外に知られていないのかもしくは逸らされているのか、現存する戸籍謄本は明治政府に変わった後に再変遷されたもので、それ以前の記録は曖昧なものが多いという事実です。

  

ironna.jp

真のアイヌを知らないニッポン、私が反新法を訴えるこれだけの理由

 

 筆者も謄本を取り寄せて知った事実ですが、ルーツを追う際に明治時代以前の祖先を追うことは困難になりますし、あとはそれぞれの家系図が唯一の証ですが、これは余程の家柄でなければ極めて私的資料となりかねません。

多くの家系についての話題は家族に伝承される「言い伝え」や、歴史文章に残る記録からの「推測」が頼りで、名前が載っていたのは幸いなケースでも存在事実は証明できても家系を保証できるケースはまれのようです。

 

由緒ある家系の家と同じ出身地に住んでいたとか、近所に住んで親しかったなどはステータスですので、それさえも家系の浄化に貢献したり、移転や絶たれた家系の引き継ぎなど歴史においてあらゆる動きがあって今があるわけですから、よほどの根拠が無いと本来の家系証明は不可能なはずです。

さて、仮に家柄が保証されてとく出来るのは現在世襲制が幅を利かせる世界だけですから、むしろ一般的には相手を卑下する際に使われる事が目立ってきました。

 

日本の歴史上、隣組など狭い地域で共同生活を余儀なくされてきた私たちにとっては、となりの人の素性が自分の利害に少なからず関わってきたことを思えば、様々なかたちで人を比較する行為は、ある意味生産的なことでしょう。

ただ、今回忘れてほしくないのは、韓国による不当請求は論外としても国内でも、このやむなき感情を逆手に取る政治家や団体が、私達の税金を掠め取り、民族差別への代償として利用する利権も無視できなくなりつつありますから、こうした差別問題に関わる機会には、感情論を避け可能な限り客観的事実を根拠にした話し合いを心がけたいものですね。

 

 

 

 

●足元救われた思いの、地元民のあいちトリエンナーレへの思い。

 津田総合ディレクターは、事の矛先を逸らそうと躍起になる一方、共同主宰者愛知県からの公式な言動は一切見られない中、開催地名古屋市の河村市長は、民意を即日汲んで行動に出ました。

それに倣って、愛知にゆかりのあるタレントのフィフィさんや、今回の問題の元凶になるチュチェ思想の解明撲滅に力を入れるジャーナリストの有本氏がも即反応してい

 

 

 いちいち反応するのは、彼らを増長させるだけなのですが、なりふり構わず芸術にまで偏向思想を刷り込もうと体当たりしてくる一派に対し、無視を決め込んでもだめですからの、目をそらさず国内に巣食う膿を排除しなければ、この問題は終わらないと悟りました。

そのために、隠れ潜む内部の隣人にさえもメスを入れるべく、身の回りの労働環境や教育現場の密偵を観察し差別化して対応を使い分けるくらいの徹底さが必要なほど、極めて身近な夏の宿題です。

 

感謝いたします。私達愛知県民は、この一件を通して労働・教育現場の成り立ちを、学習しなおさなければなりません。パチンコ発祥の地であり、製造業の雇用にも独自の事情など、偏った思想の影響を受けやすい環境が揃い過ぎています。

 

お早うございます。そうです、この一件で愛知も他人事ではなくなった、ああ悔しい。とはいえ考えれば愛知含む東海は、リベラルを決め込むインテリ意識が強く、宗教や偏向思想に傾き易い風潮が元々ある地域で、朝鮮系娯楽産業の発祥発展の地だったり、外国人労働者を積極的に受け入れた事情があった。それらの背景の末、今回芸術が利用された、黒歴史にならないといいが。

 

 

 などなど、在住者が言うのもどうかと思いますが、愛知県は全国でも地元にコンプレックスを示す意見が多いのは有名になってしまいましたが、それはひとつにこの地方の特徴として教育に力を入れていたことで、PTAや教育機関の影響力が他県に比べて強いことや、民主主義(リベラル)政党が支持されやすい地域があるなどで、与党の政策には厳しい傾向があるようです。

これが良いことか悪いことかの回答はここでは出しませんが、こうした独自のバイアスの結果、あいちトリエンナーレ表現の自由を再度問うという企画に、待ったがかかったことに過剰反応を示した県民や、それに便乗した団体・思想派が問題を大きくしたのでしょう。

 

筆者は純粋に芸術思考の旺盛な県民性は支持しますが、その芸樹祭がこのような結果になったことに憤りを感じますし、愛知県知事はその収拾をつける動きを取るどころか、一定の責任があるもののそれに一切触れようとさえしない姿勢は、とても残念でなりません。

この主張には憲法21条の表現自由の保証が必ず盾に使われますが、その主張にこだわるばかりに本来優先される国民の生活に関わる税金の使途に大きな誤解が生じていて、こちらのほうが重大ですし、表現の自由は保証されるべきですが国の根幹を揺るがす否定に反感を禁じ得ない意見を無視できるはずがありません。

近いうちに開催されるジブリパークの構想が持ち上がっていましたが、開園しても全国の支持が保てるかとても心配です。

タピオカミルクティーのブーム拡散で見えた近未来の問題

筆者の大好きな台湾で長く愛されているタピオカミルクティーが、ここ1年で一気に日本でも大ヒットしたことで、日本全国に販売店もバリエーションも多彩に進化し、迷ってしまいそうなほどに増えました。

その人気ぶりは、台湾文化が拡散することにおいては良いことだと筆者は感じていましたが、そのあまりにもバブリーなブームはあるあるな問題も、早くも見せつつあるようですので、このブログでは今回そこを取り上げます。

 

l-taiwan.net

台湾のゴミ捨ての分別方法!何度も注意されて掴んだ分別方法!

 

実際に筆者はその惨劇を何回も見れたわけではありませんが、名古屋の商店街の片隅では数回見かけたことがありますし、ブログやTwitterでは少しずつその現状を画像で明かす人たちが出ています。

その姿とは、タピオカミルクティーの容器が繁華街の一見目立たない隅などに、放置でなくきちんと置かれた姿ですが、一見すると置き忘れとも見れなくない姿が目立ちだしていることに、既に一部の商店街は心配を始めているようです。

 

筆者がその話を見聞きしたのは地元名古屋の大須商店街のタピオカミルクティー売店のイベントニュースでのことでした。

商品が売れることはとても良いことである一方で、容器やストローが投棄される姿は、ごみ問題に敏感な日本人なら、売れる前から十分予想できたことですが、先にカフェで問題化し出したストロー廃止化・代替品の話題や、処分問題が大きくなるかならないかの内に、今度はこの容器問題が噴出しつつあるという連鎖です。

 

そもそもごみ処理は国によって処理施設の規模や各行政区間によって、対応力は日本国内だけでも様々で、例えば名古屋市は廃棄対象ゴミは、隣県の多治見市に有料で埋めてもらっていますが、地域ごとに見てもおそらく人口の多い自治体は、だれもが納得できる根本的な処理解決ができていないでしょう。

ゴミ焼却に至っては、CO2排出規制というルールを守るために限界があって、償却効率が優れるとされる日本でさえ、既に限界を超えていて主に中国へ資源ごみは輸出もしていましたが、そのごみの多くは海に流され、一部が日本に里帰りする皮肉な現象も起きています。

 

この現状において、日本の市場はタピオカブームでわかる通り、肝心な対策を待たずして見切り発車したようにも見られそうですが、消費者側に責任を押し付けても解決する問題でもないのに、この流れは生産側より消費者側に来そうな勢いです。

「商品は買え」

「ごみは捨てるな」

この矛盾問題は消費者間で大きく意識され、持ち帰って家庭ごみとして捨てる、これが浸透してます。

企業側に立場を変えるとこうなります、

「商品は買わせる」

「ごみは出させる」

商品は消費者が求めるので売っているし、利益の出ないものはそもそも売りませんが、売れても商品ゴミを回収処分するのはあり得ないこととなっています。

ゴミ処理に対して求められる常識観や行動義務が全く違うことは、意外と意識されていませんし、意識したとしても表面化されるところを殆ど見たことがありません。

 

その一因で不思議に見えることは、TVメディアが爆売れブームを似たような内容なのに、何度も何度もどの局も流す一方、たとえ問題をニュースにしても、上のような矛盾を指摘するシーンは見たことがないことです。

どちらかと言えば、ネットメディアの指摘が早かったり、個人発信の方が的確だったりするシーンに多く当たると思えるのは、ネットの速報性よりもメディアの姿勢に何か大きな違いがあるのかもしれません。

 

さて、話の対象をメディアからタピオカブームに戻しますが、あまりの人気拡散の速さは、明らかにネットでの拡散メリットが存分に生かされた結果であることは、だれもが理解されるでしょう、その解決のヒントには20年も先輩の台湾のゴミ処理は参考になるかもしれませんし、自然災害など他にも台湾とは共通の問題が結構多いこともあって、意識の共有化はマストになるのではと期待しています。

ただ情報拡散のによる想定外の問題化はどの国においても答えのない課題で、ブームと同時に起こる問題が同じ速さで増大することを証明してしまった以上、これから先起こる現象に対する備えのとして、このタピオカブームというインフルエンス現象をとらえて、問題対策のスピード化も視野に意識を変えないといけない時代にはなったようですね。

 

 

地域産業のKAIZEN力の確かさを見極める、その現実は?

日本は、技術大国を自負しこの70年を突き進み、一時は世界の工場と評されるまでになりましたし、今でも技術ノウハウで不正貿易を働くとされる韓国にプレッシャーをかけ正そうとする事ができるほどの実力派であることは変わっていません。

しかし少子化や産業もIT化・グローバル市場化する中さらなる合理化や効率化が求められ、世界でもトップのトヨタ自動車でも経営者肝いりの組織改善を急いでいるほどですが、そのKAIZENと世界でも通じる日本の十八番にギモンの意見もあるようです。

 

president.jp

「インダストリー4.0」はスマート工場ではない 日本の報道は"木を見て森を見ず"だ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

 

グローバル化する自由貿易の社会がITによってより精度を要求されるようになり、大量の資本力を持てる企業の優位性と、そうした企業を支える資本家の影響力は増しています。

大企業はその資本家の利益を最大効率化させることを求められ、その要としてドイツが生み出した「インダストリー4.0」は注目されだして久しいですが、この概念の本質を日本企業の多くが誤解しているとの指摘は興味深いものでした。

この生産業に最も影響力のある思想の一部でしか実行されていないという指摘は、思い返せば思い当たるところが多いように思いました。

 

指摘の詳細は記事をご覧いただくとして、思い当たるというのは概ね日本の企業が陥りやすい誤解は今に始まったことではない気がしたからで、それは模倣から始まり模倣の制度始終するという繰り返しに思えたからです。

つまり、インダストリー4.0のように基礎的理論は開発せず、得意分野のみで満足してしまう点で、そもそもこの手の概念はドイツに限らすアメリカは無論中国でもこうした基礎概念を打ち出しているということです。

 

そしてこうした概念や理論が最も意味することは、それぞれの国の様々な事情や都合が大本にあって、その根本的・合理的な最適解をまとめたものであることが理解されていない可能性があります。

PCを劇的に使いやすくしたOSを開発したのと同様に、その国で最も需要な根本的な問題解決を解決する仕組と手順を開発することが、これらの最優先の命題であるのに、日本の企業は表面上の一部しか咀嚼せず、それどころか日本の問題の本質を解決していない点で、負けていると考えられないでしょうか。

 

裏の事情では、かつてあった日本独自OSの事例のように、そうした動きもあったようですが、何らかの圧力によって断念したとかしないとかという以前に、戦前戦後では日本がイニシアチブをとっていた基礎研究の分野は、第二次世界大戦を経て弱体化したのは事実です。

この事実に圧力があったにしろ無いにしろ屈した事実を今後どのように生かしていくかは、日本の将来を大きく変えていく要素です。

 

今後日本政府が日本の弱さに屈した事実を恥じて、教育の再構築を行い産業での地位を改めて築くかどうかはわかりませんが、この行為を戦争行為でも問題視されるように、一定の日本再興が都合悪く取る意見が存在するのも、多くの方がうすうすお気づきでしょう。

この勢力が私達の外にいるか内にいるかの判断はお任せするとして、確実に言えることは共通していて、自身の実力を過小評価せず粛々と伸ばす強い意識と自負を、忘れず前に進むという、消し去られようとする空気をなくさないようにしていかなければならないということでしょう。

 

 

大人が本来子どもたちにしなければならないこと

子どもが正常に成長できる環境に、メディアの報道は過度な便乗をしているように見える昨今で、意外なところからまっとうな成功事例が届くことに、考えさせられることがしばしばあるものです。

統計学の数値を正しく把握していれば、発展途上国の子どもたちの識字率貧困率は思った以上に改善されていると言われますが、現実は日本でさえ十分とさえ言えない生活に苦しむ子どもはまだまだ多くいます。

 

www.huffingtonpost.jp

雨乞いしかなかった村で、少年は学ぶことを諦めなかった。風車で未来を変えた14歳の物語 | ハフポスト

 

そんな中でこうした希望の持てるメディアニュースは、一時のオアシスのようですが、生活苦をバネに知恵を絞り出すスキルを子どもたちに学んだりしてもらう機会をどうすればよいか、考えることは大事な大人の役割のひとつです。

大人の多くがこうした生きた事例を美談で済ませる人が多いほど、この少年の起業成功率も変わってくるでしょうから、なんとかこの流れを継承する工夫が必要です。

 

では、大人はこうした子どもたちにお金を提供したり商品を買ってあげれば貢献したことになるかと言えばそうでもなくむしろ本末転倒で、一時的な善行欲を満たしたに過ぎないわけですが、だからといって大きな投資をすれば良いわけでもありません。大事なのは彼らに大事な「継続の場」を作ってあげられるかのほうが、はるかに効率的なのがおわかりいただけるでしょう。

 

子どもに興味を持って好奇心を生むチャンスを作る、これは単に大人の都合だけで子どもの言動の邪魔をしないだけでも大きく貢献したことになり、なんか納得しにくいかもしれませんが、無意識にそういう状況にしている事例は思う以上に存在していますのでばかになりません。

いわゆる「大人のおごり」を少し顧みて減らすだけでも子ど模たちに、考え工夫する機会を得られることに、大人は意外に無頓着だったりしますから、その意識を行動に示すだけでも十分でしょう。

 

子供を実際にお育ての方々なら、実感されることはしばしばあると思いますが、メディアが過度に危険を煽る時代に、不本意ながらも子どもの自由を犠牲にしなければならないジレンマは、親子関係にも大きな負荷をかけてしまいます。

意外と地味で地に足の着いた発想で大人が生活できていれば、過度にメディアに煽られず子供の自由を確保できる機会はまだまだあるように思いますが、気持ちの面で子どもに危機感を煽るのは直情的で、むしろ自らゆとりを放棄する行動を子どもに見せる教育上のメリットがあるかないかを見直すだけでも、ゆとり教育に大きな成果を出せるかもしれません。

 

子供は、大人が思う以上に自然や現実的な現象から自由に学習していく才能がそなわっているようですから、大人は可能な限り放任の場を作ってあげるのが最も効率的で理想かもしれません。

だからといって生活の現実は大人それぞれ違いますし、厳しさを隠すのは親心なのかもしれませんが、唯一我が子を守れる親御さんが、過度に無理すれば歪は自ずと大きくもなり、元も子もありませんので、それは現実的に素直に見てもら雨しかないですが、子どもたちはその中からも生きる上で大事なことを学び、親の後ろ姿から不幸よりも愛情を感じてくれるものだと思っています。

 

子どもの心は、良くも悪くも素直で、前向きなものです。

私たちはその心から学び、見守る姿勢を忘れないようにしたいものですね。

 

 

 

地方経済を安定させる確実な方法

中国がアメリカと貿易交渉が長期化し、中国近隣国に関わらず欧州アフリカ諸国においても経済的低迷が続いている中で、政府の経済中央集中化政策が止まらずに、日本国内では地方経済の疲弊化が止まりません。

一例でいう中部地方におけるトヨタ自動車のような大企業の存在が、一定の景気向上に貢献することはあっても、恒常的なものでは無くそうした恩恵の無い地域は、やはり疲弊しており、特効薬はないと言われます。

 

japan.cna.com.tw

台湾の学生33人が日本へ 地方創生テーマに交流 | 社会 | 中央社フォーカス台湾

 

日本を後追いする台湾も、日本同様に中国経済の影響力を大きく受ける国のひとつですが、この国の動向を見ていると日本に有益なヒントがいくつか見えてくることがあります。

その一つは、中国経済圏からの離脱への試みで、日本でも巨大な市場と期待された中国へ積極的に進出した経緯を持ちますが、結局中国政府の閉鎖的政策に振り回され、撤退の憂き目にあった経緯があります。

 

企業は市場の将来性と大幅なコストカットを期待したわけですが、中国政府はそれら外資企業の目論見をことごとく逆手にとって、自国の利だけを優位に伸ばしてきた結果、他国の参入メリットが狸の皮算用に終始したことを考えると、参入により市場性の読みが難解な中国市場は、むしろリスクとも取れなくありません。

 

この他国の企業成長を成熟させた上で、優位に吸い取るビジネスモデルは、誰もが予想だにしておらず、弊害による問題は今でも巨大な市場を餌に群がる企業が後を絶ちません。

中国は他国企業が期待するような政治影響力の弱体化を、経済制裁や貿易でコントロールしてきましたが、巨大市場による内製化で思うほどの疲弊は見られていませんので、今後も虚しい皮算用は期待できない見通しです。

 

この期に及んでは一部のチャレンジャーな潤沢資本を有する企業を除いては、中国市場はむしろリスクと見る企業も見られるようになった今、地方経済を担う中小企業にとっては、むしろ中国に依存しない運営を軸にすることが、かえって経営安定化には有効だと見ることができます。

その代わりをどこに求めるのかは、産業の種類や目的によって変わるとおもわれますし、新規の取引企業や市場を開発するのには相応の負荷がかかるものの、ブレない中国への過度の期待は経営を危うくするリスクが高まっていると思われます。

 

台湾が中国でなく日本や韓国に発展へのヒントを求める動きには、政治的な要因が大きいことは間違いありませんが、それ以上に中国リスクの危険さを最も肌で感じている国だからこその行動であることは間違いないでしょう。

そのリスクの基においては台湾に限らず陸続きの韓国北朝鮮・東南アジア諸国、海を隔てて日本も同じ問題を抱える経済共同体である以上、その影響力からの離脱達成は共通の至上命題であることは動かしがたい現実のテーマです。