くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

生きる未来を掴む者と逃す者を分かつもの

有事とは、主に国の存亡に関わる事象に対して使われるが、今回は中共ウイルスの国外輸出によって一見合法的にWHO管轄下で監視され、戦争のような人為的でない災難として認識されているが、この期に及んでは、戦争と何ら変わりなく有事であると認めるようになった。

 

しかし一方では、専門家の中にはウイルス感染の一つであり、既存の流行性感染症ほどの驚異は無いと言う者もいるが、ではなぜありふれた流行風邪が有事となったのか。

 

この答えの多くは、世界的規模に広まってしまった驚異を上げて納得しようとしている人がほとんどのようだが、果たしてそれを結論として良いとは思えないし、目先の驚異については、多くの情報が飛び交っているのでここで触れないが、別の視点で見ればいくつか不自然な点が見えてくる。

 

まず前列で考えて見ると、前回の有事戦争ではお国の言葉と疑わずお国のためにと思い込まされた人びとが犠牲になり、その影響を逃れかつ戦火を逃れた者が生きながらえたが、その結果私達には一方的に犠牲者側のやむなき境遇にばかり共感が集まり、生き残った者には自責の念と、行動しない美徳や処世術だけが引き継がれることになった。

 

そもそも当時から思いこみで選択肢が無いと自分を追い込んだり、当たりを引くかはずれるかは選べないのに、さも選べるかのように思い込んだ者は多かったと思われるが、この両者の人生にあらゆる意見や批判は数多とあるが、今でもその選択肢を誤解している人は多い。

 

その結果、戦後のどさくさでその誤解を省みるゆとりもないまま、未来の自由を託された筈の我々は、肝心な判断力を見失ったまま、今の社会を作ってきた。

 

方やどさくさに紛れて、少なからず私欲のために政治家や官僚、事業者になった者はいたし、彼らはその姿を隠して今でも影響力を弱めようとせず、結果構築された縦割り社会と自由の名の下に、国民の行動を合法的に抑制する法が今も残され、最高権限を持つ筈の総理大臣でさえコントロール下に置かれてしまう。

 

その関係は、主人と召使のそれであり、既に個人の命は国が負うべきものでなく、個人に負わされて良いという、暗黙の道理が今回の有事でもまかり通るのである。

 

加えて、生きる自由への規制に我々は抵抗さえしなくなっているようでは、託された思いを引き継げかどうか以前に「要請」という一方的な都合で命令を受け入れてしまっており、選択肢を自分で狭めてしまっている。

 

ここ有事でぼかされる緊急事態とは、政府・行政・報道3人トリオがまくし立てている要請を受け入れるのでなく、どんな要請があっても、どんな忖度があっても、どんな無責任な空気が流れようと、正しいと思えば行動責任と権限は個人にしか無いと、行動で示せていないうえに、それをも赦さない問題を明るみにできるか否かの瀬戸際なのだ。

 

かつての有事の際に経験を持つものはもう多くは無いが、彼らはそれを身の丈で味わった猛者なのだと考えれば、彼らが生きることに何のてらいも忖度も遠慮も無いこと注目すべきであり、力や影響力を失った今でも、彼らは必死に生きようとしている。

 

その生きる極意とは、生きるために手段は選選べないことを身体で知っていて、 彼らは泥汁を啜ってでも辛酸をなめさせられながらも、生きるために闘っているが、その生命力から我々は人間のしぶとさをどう学べだか?

 

祈っても、願うだけでも天からの助けの糸は降りてこない。

求め、あがき、行動したものだけには、ようやく選択肢の糸を掴ませてくれるのだ。

 

そのチャンスを得るのに、人が作った金も法も、何の力も持たないし。

与えられ得ない、人が人たり得る、絶対領域だと知るべきではないか。

 

 

さて、これらを踏まえた上で今の有事を見回した時、我々はいかに自分が行動していないかに気づけるだろうか。

半分透けて見えないような細い天からの糸を、助け合いながらでも他人を貶めてでも掴もうと行動する、そこに正解など無いのだし、この生き方の先にしか国が存続し共に反映する未来は残されないのだ。

 

個人を繁栄させることが周りのそれともの相互作用で、全体のそれへとなることを我々は有史以来残された事実からしか学ぶ材料は残されていない。

リスクを選んで行動した者は国をも操る立場に就いている、ただ彼らはその成果を自分繁栄のためだけに利用しているだけであるが、その是非はまた別のところにある。

 

logmi.jp

立ち上げ1年目で倒産しかけた 家事代行サービス「タスカジ」和田社長が語る失敗談 - ログミーBiz

 

こうした有事になると、日々私たちがどれほど”ゆとり”に甘えて生きてきたかがよくわかるが、汲々とした生活しかできないとしたら、何か生きる意味を誤解していたのかもしれない。

普通のサラリーマンでもそうなら、自営や事業経営をしている人なら、さらにゆとりはなくなってしまうが、そうでなければ事業者目線で生活を見直してみるのもいいかもしれないし、考え方として幸せについて見返してみるのもいい。

 

ただでさえ、明日は我が身で国の要請が受け入れられない者は”申し訳ない者”と思わなければならないとしたら、その人は生きる意味さえ忘れてしまったのかもしれないし、いくら望んでも未来はつかめないかもしれないのだ。

未来の姿は、まず個人的な主体が無ければ見えてこないもので、いくら日本人が個人主義に馴染めない教育や社会ルールの中で生きていても、与えられたルールの中だけで未来は生まれ育つものではないはずである。

 

いよいよ詰め将棋の詰めに入ったようなプレッシャーがかかるが、自身で判断し、自身でリスクを取った行動をしてこれなかった過去をとことん省るべきだろう。

その後でも未来が残されているのであらば、死にものぐるいでその糸を掴みに行動することが未来を引き継ぐことだし、その行動が明日そして明日……と遅れていく度に反比例して、選択肢は加速度的に減っていくのではないだろうか。