くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

今更と言うなかれ、週末に学び直したい「原爆神話」

わたしたち日本人にとっての、この表題の意味はくどいと言われようが繰り返さなければならない、とっても深ーい課題です。

この課題は、7年前にもなる被害を受けた東北沖大震災・津波災害においてもほぼ同様の意味を持っていて、これらの被災には当時のアメリカ合衆国における、罪の意識を偏らせる働きがあったことを意味していると、解釈できます。

 

www.huffingtonpost.jp

世界最大・最悪の嘘「原爆神話」 NYタイムズ記者とハーヴァード学長が生み出したものだった。 | HuffPost Japan

 

いまだにアメリカと日本では、根本的な解釈が異なることは以前から指摘されてきたことですが、このギャップが広島・長崎両被災者たちの平和への訴えを、ここまで長引かせた事実を生んでしまっていることからも、私たちはうったえ方を見直す必要があるのかもしれません。

また、東北大震災・大津波原発崩壊によってうけた放射能二次災害においても、自然災害と定義された以上、日本での内輪話で済んでしまっています。

 

いずれの惨事とも、核兵器の元になる核の軍事利用と同時に、彼らが大量保有していた核燃料の効率的な利益拡大という、最優先された当時の資本大国の方針によるものだと考えられ、日米双方の言いたくもない利権保証が前提にあったことは、単に平和への弊害だけで問題化するには、かなり目線不足と考えられます。

 

これらの大義についてはあまりにも裾野が広く、膨大な検証が必要なためこの回では一例として筆者が今回の記事で取り上げておきたいのは、上記事引用の次の下りでについて取り上げます。

 ハーヴァード学長となり原爆開発の統括責任者を務めたコナントは、若いころは毒ガスの開発と大量生産の第一人者でした。学長としてホワイトハウスの戦時内閣入りし、アメリカ人の原爆理解(例えば「原爆は命を救った」)の決め手となった情報操作を自ら企て、神話を確立させました。さらに、人口密集地を原爆の標的としたのは、彼の提唱によるものです。 

 

 情報操作に関わったとされる2名のうち、メディア記者(個人特定には及ばず)の関与は以前からも指摘されていましたが、元毒ガス開発者の大学学長が関与したとされる点は、事実とすればさらに問題を複雑にし、他の歴史にも大きく影響を及ぼすもです。

指摘したいのは、権威による情報の信用性を高めたところでは無く、その権威は第二次大戦時に毒ガス開発の第一人者だった点にあって、これは当時毒ガスと核兵器の開発が、アメリカに無かったナチスドイツの最先端テクノロジーであり、当時噂されたとする米「ペーパークリップ作戦」による、ナチス技術者の大量引込みにつながってきます。

 

当時の連合国が戦争にピリオドを打つ手段を模索している中で、当時のアメリカは仕入れた技術で毒ガスや核兵器の実行を試用・実施したと推測され、実際核兵器においては日本で使用された経緯がたとえ試作物とは言え、いやむしろ試作の実験に投入したという事実があったことに驚かされますが、この事実からアメリカが連合国の中でも優位性を主張した結果、多くの人々が目を背け正当化する今があるわけです。

 

被災国日本としてはまさに、

「なんじゃ、そりゃー!!!」

と憤らざるを得ない、ネタのオンパレードでしょう。

 

さて毒ガスについても、時期的に開発者がアウシュビッツ大虐殺の時期を待たず大方引き抜かれていてかつ、技術引継ぎ後のアメリカでさえ毒ガス兵器の完成・実践投入されなかったことからも、大虐殺時の実践投入そのもさえ怪しく思えるという尾ひれがつき、そうならばそれを邪推したくなるのは筆者だけではないでしょう。

 

あくまでこの記事が事実であるとする前提での推測と帰結なので、都市伝説レベルの話とされても反論するものではありませんし、実際に検証できるほどのネットワークも実現不可能な一個人の情報に過ぎません。

しかし、たとえこの思考の試みがトライアンドエラーに終わっても、歴史を学び・歴史をこよなく愛する人には御存知の通り、新しい事実の検証を権威に恐れず実行する大切さは、あせることのない事実という点です。

 

ここ戦後70年を経ただけでも、私たちが学校で学んだ歴史が塗り替えられていて、

例えば、日本太古の歴史でも「聖徳太子」ネタなどが有名ですが、直近の近代世界史なら尚さらで、多くの人が新事実に驚かされますが、それ故に私たちは大人になってからも、情報の棚卸は生きている以上続くということですし、グローバル化する世界情勢では特に大きく影響してきます。

 

これは、歴史が起こった後どれ程の時間が経っていようと、

 

後からでも判明する事実が、鮮やかに定説を覆すシーンや、

もしくは、旧説の矛盾が修正されるシーンに、

 

何度でも出くわすことがあるという現実として、私たちは「証拠を示せ」と要求する理不尽の前に、ゴールである指針としての合理的な指針を示すための、トライアンドエラーを自信を持って行うことは、とても大事だと思っています。

 

歴史は私たちに、時には事実を知らせ、時には時代勢力の誇示に利用されますが、その歴史の断片を単体で理解するのではなく、首飾りのように流れでつないだり、シルク生地のように繊細にタテヨコに紡ぐことで、また新しい事実として宝石のような輝きのある情報の価値を生めるのです。

 

記録さえ残っていれば、永遠に事実の歴史は残るもの。

であり、

それを掘り出して、論理的に組み立て、後世に引き継ぐことは、

人である以上試練であり挑戦であり続けなければなりません。

 

その点で忘れてはならないことは、

「公的記録・文章を正確に残す」

今の日本はそれさえ正くできていないのが残念ですが、後世に宝となる「公文書」さえありのままに残せないのなら、決して認められない大きな問題です。

 

最後に、こうした災害の事実を絶やさず引き継ごうとされている多くの方々へ、そのご苦労をねぎらうとともに、宝として引き継げれるできる限り正確な事実の重要性を再認識し、希望やモチベーションにつなげていただければ幸いです。

日本の都市ランキング発表で思う、情報の真贋と期待

わが名古屋は4位、同じ愛知県では豊田市14位でランクインしています。

また東海4県でおとなり岐阜市28位、静岡県浜松市10位、静岡市15位で名を連ねます。

評価基準や評価した人の専門性や妥当性、何より評価する意図や目的によると思いますが、30位まででも全国人口密度に合わせまんべんなくランクされている印象はありますね。

これで少しは名古屋市民の地元評価が変わってくれればと思います。

 

www.fnn.jp

“都市力ランキング”トップは京都市 格差ハッキリ!“ランク外”都市はどうする? - FNN.jpプライムオンライン

 

 住みよさでトップの地元長久手市などが無いことを見ると、人口密度あたりの評価の高さが見られているようなので、東京は別格で抜いてありますが、やはり都道府県庁所在地が中心になっています。

こうした評価ランキングを見るに、名古屋のような中間都市の中途半端な立ち位置は、その実態を素直に反映させているのでしょう。

 

ランキング投票を記事にする場合は、国などの自治体や調査機関で企業資本の影響を受けにくいものをのぞいては、なんらかのバイアス(偏り)が出て当然であり、むしろその多くが広告的な要素を期待して出されるものが多いと考えてちょうど良いと考えられます。

ただ、バイアスの少ない統計の把握は一般の人には面倒で敷居が高いと感じられたり、親近感が湧きにくいものでこの点は企業が実施し公表するものが、見た目もわかりやすく親しみやすいので、参考にされやすいのはやむを得ないでしょう。

 

筆者は、だからと言って正確な統計だけしか信用しないと言っているのではなくて、経済効果や見えない期待感も統計に反映されて良いと考えますので、実質的には親しみやすいことが、ランキング情報にはとても大切だと考えます。

比較する際に大事なのは、数的に表される絶対的な情報が不可欠なのは変わりませんが、一方でその情報をつかった心情的で一見では曖昧な統計情報は、さらに重要と言えるのではないでしょうか?

 

その実力の片鱗は、すでにAIが繰り出す判断材料に現れだしていて、AIが表現する統計結果は、初見は「関連性が理解できない」ものですが、それらを追っていくことで、深くて思慮深い根拠が浮かび上がってくることに驚ききます。

この体験はAIが注目されてから得られた未知の体験だったわけですが、実は元からあって人が推量していたものではあっても、数値的に証明が難しかったので切り捨てられていたものだったわけです。

 

そもそもAIが現状で実施する統計情報は、人の思考を数値化するために行われていて、今のところは世間で恐れられているようなものではなく、AIの行動は人の知覚の及ばない範囲を超えることは無いようです。

 

その根幹的根拠にはAIも学習に必要な「時間」は避けて通れない現実があります。

 

「シンギュラリティ」と言われる人とAIの知力ランクの変換点は、彼らが自分自身の言葉と思考パターンを得られるまでは、起きることは無いはずですし、人がその領域に達するまでには数万年というとても長い時間を要したことからも、AIがそれを達成するまでには流石に数年で達成すると言われる短時間での転換は、起こらないと筆者は見ています。

 

そもそもそこまで独自性を持つまでの情報量は、今の世の中に存在しませんし人だけが作ってきた歴史なのですから、新たな歴史を根拠とする創造性を確保するにはそれなりの時間が必要ですから「転換点」の解釈にもよりますが、上で言ったような根拠であればそうなるでしょう。

話がAIに偏りましたが、AIの例ような情報の一人歩きが起こるのを人は最も恐るために、その情報一人歩きを意図的に行われないかを気をつけていれば、情報に騙されることはありませんし、むしろ楽しんで良いのだとさえ思うのです。

 

ただし、ここで誤解のないようにしたいのは、私たちが得た情報は必ず繋げて解釈するという絶対的なルールを守っているという自覚です。

世に出るより良い情報とは、公表された時点では真価を判断しにくいものですし、同じような情報を可能な限り時系列で追って、私たちが連続した物語のように意味付けることによって、初めて判断できる情報になるという約束事です。

 

人類は、今のところ有史上で地上初の歴史を作り上げた動物ということになりますので、情報の連結つまり歴史を記録してきたからこそ今の存在感を示せているわけで、それより歴史の長い生物が現れない限り、今のところ安泰なはずです。

特に日本人は「個々の能力」よりも「連携による効果」を重視する人間ですので、筆者としてはその歴史との長さと人の連携は、世界でも引けを取らない高い能力だと思っています。

 

この事実は力となっていて日本人としての優位性となり、対外的にも勝てなくとも「負けない」底堅さや信用に繋がっているものです。

その優位性のコスパをもっとも高い位置にするために、私たちは乱立する情報の中から「おトク情報」を引き出すスキルを共有していかなければならないでしょうから、逆に言えば筆者を含めて「情報発信をする側」には、情報の扱い方と発信の仕方には大きな責任と自負をもって行動しなくてはならないと考えます。

 

ただ、一方で「情報を享受する側」の倫理観と道徳観も見透かされているのであり、双方のバランスの取り方次第で、競争力をアップさせる日本の姿勢には今後もより一層期待していきたいです。

 

 

年長者を敬う習慣と高齢化社会

日本に限って言えば、この国は中国由来の「道徳」思想が普及していて、高齢者は目上の人として「敬う」「従う」という発想が一般的ですが、筆者の世代以上はもとよりとしても、道徳教育を受けない世代の是非はあるとしても、単に年長者が最優先される考え方には、いくつかのリスクが問われるようになっているようです。

たとえば著名な投資家や企業経営者などからは、企業経営においては企業トップの高齢化は歓迎されないばかりか、リスクになるという意見が出ているのを見て、このリスクについて考え直さなければならない時期にあるのかもしれません。

 

toyokeizai.net

日本を滅ぼす「GG資本主義」という病気 | 投資 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

記事を読んだ上では、自営以外で雇用で働くビジネスマンにとっては、うなずけるところもあるでしょうが、本来日本ではキャリアを重んじて、長く働いている人こそが有利になっていた時代から、実力主義や成果重視にシフトが進み、年齢は労働者のスキル判定において軽視されつつあるようです。

これは、企業経営において儒教的なキャリア重視の東洋型から、欧米型の実績重視で合理的な資本経営へと、日本もかじを切っている過渡期だからこそなんでしょう。

 

今までは道徳観からして低頭徹尾守られてきたように思いますが、筆者のような道徳教育を受けた世代には全く違和感がないだけにこうした考えは斬新ではあり、同世代識者からの指摘は刺激的でさえあります。

私たちは歳を経る間に、若い世代や時代・流行とのギャップを感じるよになっていきますし、それは誰でも避けられないものですが、一方で近年になって情報過多の時代が始まったことで、ある意味追い込まれている錯覚を覚えるようになっています。

 

その気になればいつでも好きなだけ欲しい情報が手に入る時代にあって、歳を経るたびにその収集力は衰え、その手段は進化していって追いつかなくなるのですから当然です。

その世代が少なくとも日本では未来を左右するはずの選択権は、次世代に譲ろうとしない社会は、そうでない社会と比べて競争力に歪みが出ても何らおかしくはないということですので、記事にある危機感はもっともでしょう。

 

日本は戦国時代以来、新陳代謝にひつような「下克上」を禁止して以来その最大のリスクに目をそらしてきたことで、情報社会のメリットを自ら手放しているのかもしれません。

生きることを保証された社会は、その分進化の速度を弱めざるを得ませんし、時間がかかる課題を最優先するばかりか、解決しないと先に進めないという深刻な問題を課しているという自覚が、ようやく先を見直そうとしている識者から指摘し始められたということです。

 

その一方で救いなのは、こうしたグローバルな視点を持った識者が注目されることが増えたことで、確実に理解されたものから徐々に行動が変わっているという朗報も感じられることです。

あとは、道徳観を理由に私惑をわざと変えない高齢者の慣習をどう変えていけるかを、その思惑が受け継がれる前に変えていけるかが課題でしょう。

 

外国人なら「レジスタンス」や「戦争」で簡単にひっくり返そうとすることを、日本人は「下克上」を放棄した時点から、平和裡に変える歴史を継続していますが、この課題は可能な限り従来通りの方法で行うミッションと見なければなりません。

おそらく前者のような方法を取れたとしても、海外のようにそう簡単には日本人の心の中や性根は、そう簡単に変わるものではないからです。

 

 

日本人が、長い歴史の中で選んで実施してきた気質は、基本的には世界と闘う上ではプラスに機能しているのですが、一方で国内の闘いにおいては重い障壁になっている事実が、ここに晒されてているのです。

敵は本能寺にあり

これは信長が予測できなかったイレギュラーだったわけですが、これを言ったとされる光秀も自分自身に潜む問題を、自分の中で解決できなかった上での暴挙だったことを考えると、多くの課題は変えられる側ではなく変える側にある自覚にあるのかもしれません。

こうした日本の重厚な価値のある歴史を手厚く保護してきた私たち日本人には、一度受け継いだ歴史を再解釈するスキルに乏しく、むしろ歴史で培った財産を新しい解釈で活かすスキルが、もとめられているのでしょう。

ハワイ観光にみる災害への認識と、石にかじりついても為すべきこと

昨今、国内で多発すると報道される自然災害によって、実害だけでなく風評などで当該地域の観光やまちおこしに深刻な影響が心配されています。

このなかで、気になる記事をみつけたのでシェアします。 

 

www.cnn.co.jp

CNN.co.jp : 米ハワイの観光業、今夏も好調 噴火にも洪水にも負けず

 

 

日本にとって、いや世界的に見ても観光先でダントツ人気のハワイ。

「ワイハー」とか「アロハオエ」とか、ハワイの現状を知りもせず、浮かれている観光客のなんと多いことか。

すみません、この口調は筆者の大好きな某国営放送の「チコちゃんに叱られる」のお約束ナレーションになぞらえたもので、ピンときた人もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

あまりにも深刻な現状があるので一瞬茶化してすみません、話を戻すと、記事にもある通り、火山噴火が未だ治らない観光名所のハワイですが、日本のそれと同様にさぞかし風評被害で客足が遠のいていると思えば、さもあらずの様子なのです。

記事中のシゲティ氏は今後も好調ではないとし、その原因について語っていないようですが、大きいのはハワイブランドの知名度はあるでしょうね。

 

ここで終わったら意味がないので続けますが、筆者が思うにその要因だけではないように思えたのです。

国民性というか、観光地の気質のおかげというか、災害さえも楽しむ・ポジティブに思わせる底力というか、こういうものはノウハウとして単純に真似できるものではないのですが、日本風にいえば「場の空気感」とでも言えば良いのでしょうか?

 

陽気な土地柄のハワイの空気そのものが、地場の深刻な問題を環境客に伝えない空気が、訪れるものに安心感を与えていることは、ハワイでなければできないものなのでしょうか?

それは否と断言するには尚早のように思いますので、まだ追求する余地があると考えます。

 

他の海外での同様な課題が、観光客にどう響いているか筆者には分かっていませんが、少なからず影響はあるでしょう、でもサービス業である以上その悲壮感は、伝わらないように努力すればするほど、暗に相手に伝わってしまっていることは十分に考えられます。

これは、メディアの報道姿勢にも課題はあるでしょうが、受け側がどれだけ気を使って気の毒がって観光しても、それは限界があります。

 

当事者になってその現実を知らない筆者がのいうことがどれほど伝わるか知れていますが、特に日本のような繊細に場の空気を読んでしまう観光者に「頑張ってます」感を訴えるのは、もしかしたら風評被害の要因に少なからず反映していると思われますので、傷に泥を塗るようで恐縮ですが、地元の方々の精神復帰の姿を見せるのが、根本的課題なのでしょう。

 

観光業を生業とする以上、私ごとはタブーという現実に対して、どこまでそれを成し遂げられるかは、絶対さけられない業のようなものです。

この時に、どれだけ被害意識という自分とたたかい、仲間とたたかいそれを他人には見せない姿勢は、死ぬより苦しい試練です。

 

負けた者への報いは、結果としてはっきりと出てしまうのですから、全く応援にならなくて申し訳ないのですが、一歩でも先に、1ミリでも心を前向きに、こればっかりは当人でなくてはできない絶対領域を、自分自身を変えていくし解決しない。

ただし、そのたたかいに勝利した暁には、何者にも変えがたい未来と財産を得ることができるような気がするのは、希望につながるとても前向きな話ではないでしょうか?

 

せつに、被災地の復興と観光の発展を、ささやかながらこのブログで応援するものとして、あえて書かさせていただきました。

すこしでも早く、癒され立ち直られることを願っています。

もう行動しなければオワコン、まちおこしの転換点後の地域経済

地方を主とする災害対策への、長期的な資金面の手当てが不足して、結果的に地方創生どころか地方経済疲弊につながることが、創生行政を始めて以来続いているのは、今政府が進める中央経済活性化を軸にした国内活性化につながるという政府の発想に限界を感じる今日この頃です。

 

自民党総裁選で奇しくも、地方創生行政を始めた言い出しっぺ同士の闘いで、原地方創生論者の石破氏が敗退したのは、自民党にとって想定内だったにしても、地方創生にとっては終焉を意味しているように見えました。

前にも書きましたが、やはり地方自治体単位で独自に創生を企画・運営していくしか地方経済の生きる道は無いということなんでしょうか?

 

理想論をここで語っても進みませんので、一向に地方創生が軌道に乗せることができない地域にとって何が求められるのかを考えます。

手をこまねいている市町村がまだあるのでしたら、参考までに。

 

www.townnews.co.jp

輸出でまちおこし 「木の実」料理長が協力 | 小田原 | タウンニュース

 

紹介記事で申し上げたかったのは、地域創生の実例ということでなく、可能性の視野を広げて今まで考えもしなかった域にまで、さまざまな可能性の洗い出しをどこまでできるか? という点でこの事例の成功点は「輸出」という発想だったということのようです。

 

一地方のまち企業が大それた輸出という手段に踏み切った経緯を紹介しているのですが、そもそも輸出入は行政が考えるものという発想をクリアした、発想転換の好例としてみることができます。

岩手県といえば、商談相手の台湾とは方向的に真逆であり、地政学的に考えにくい位置関係同士で経済交流を組もうとする試みは、一見小さな事業でもかつて無い大胆な発想が軸になっているのがご理解いただけると思います。

 

 地域の経済活性を自立して成功させるには、市場の視野をすで海外へも広げざるを得ない、もしくは可能性が万が一でもあるのならリスクを承知で飛び込んでみるという、今までの縦割り行政ではあり得なかった掟破りとも言えるやり方が、結果として可能性を広げたということです。

あまりにも長年続いた縦割り行政に依存で、このような発想ができなくなっている地方自治体や企業が多くなっていますが、もはや海外取引は行政や大企業の専売特許ではなくなっていることの現れでしょう。

 

ただい申し上げるまでもなく、右倣えで安易に輸出事業に舵を切るのは無謀ですし、成功事例の裏側には幸運だったこともあるかもしれませんが、それ以上に成功要因は必要最低限の市場調査とそれに見合った準備をしていたからであり、それを即実行するリスクを経験するとおもうと、どの地域でも取り組みに尻込みするのは当然かもしれません。

かと言って、今までのように行政に暗黙に右倣えしてお上の指示待ち姿勢で食っていける時代は終わりましたし、もし未だそんな理想郷が残っているとすれば強いて東京ぐらいのものでしょうが、その東京とて世界的に見れば今まさに後がない状況で必死なので、地域に求められる現実はそれ以上と見ていいでしょう。

 

先の自民党総裁選は、暗黙の地方創生事業の終結を案じする転換点を意味し、中央・地方行政は内政主体から外政主体へと大きく舵を切ったと考えた方が妥当です。

つまり、緊急災害時の対応以外の経済サポートは積極的に行えなくなったという、台所事情を暗に示したことで、地方に住む私たちはその醸し出される空気を読んで、自主的に自立活動を行ないましょうと言われていると解釈したほうが、しっくりくると言えるでしょう。

 

かねてから日本独自の玉虫色の行政姿勢に気づかずに、指示待ち姿勢をする時代の転換点は過ぎましたから、これに対し異議申し立て派も活発になるかもしれませんが、主流に乗れるかは今のところ微妙な現状では、もっとも可能性の高い選択は、自ら事業意識を育て、積極的な市場調査とその裏打ちした期待が持てそうな市場模索と、地場産業との相性のいい市場との連携、つまり紹介記事のような自主的な行動をいかに活性化させるかが、今後地方自治に求められる知恵の絞りどころと言えるでしょう。

映画の名作ローマの休……ならぬ、東北まちおこし動画

 おそらく地元では相当有名なのでしょう、ローマならぬオーマ(大間)の休日というキャッチは釘付けになった、という短編ネタです。 

 

www.toonippo.co.jp

オーマの休日!?まちおこしゲリラが“本家”に乗り込む|観光・イベント|青森ニュース|Web東奥

 

上の記事では有料なので、仕掛け役の集団に関する動画を併記しておきますが、町おこしにとてもユニークな方法として、それだけでなく単に楽しめるオモシロ動画として参考になりますね。

 

youtu.be

https://youtu.be/5kjABvZGt48

 

Youtubeをはじめとする、無料動画の活用によって町おこしを試みる自治体や非営利団体は、結構増えてきて手法の一つとして現実的な手段となったのは、広報する側にはとても大きなメリットになりました。

動画によっては「広告大賞」のような別のメディアでも評価されるケースもあったり、制作側の費用面でハードルの低さもあって、モチベーションも上がるのではないでしょうか。

 

これらの動画で話題になりやすいポイントは一企業の営利目的ではなく、純粋な地盤産業や文化を地元愛深くアピールする、純粋な思いと情熱が見る人を感動させるところにあるようですが、商用広告があまりにも画一化される一方で、人を動かすのはなにか?という原点を改めて思い起こさせる点でも、初心に戻るという反面教師の思いも含まれているからでしょう。

 

プロは「売れる」ことが至上命題であるのに対し、素人は「訴えたい」ことに思いが集中する結果、シンプルな思いがわかりやすく、面白く、微笑ましく、そして切実に見る側にテーマが伝わってくる。

この差って、クリエイターにとってとても大切な原動力なのですよ、一見微々たる差にみえるこの違いは、見る側に雲泥の差になって響いているのだと思います。

 

だからこそ素人集団の捨て身の行動は、オモシロく時として感動すら覚えるミラクルヒットにつながっていきます。

これからまちおこしに携わる方、深刻な地元の疲弊をなんとかしたいと悩んでいる方々、沢山の成功事例を動画で見まくってください、そしてその捨て身の思いを沢山吸収してください。

 

きっと、「まちおこしパワー」を感じ、光明がみえてくると筆者は実感しています。

 

「いや〜、まちおこし動画は、本当にイイですねぇ」

 

名画にかけて、故水野晴郎氏風に……シメ。

ちょっと手に余る、 隣人の壮大な地方創生事例?

最近創生ネタでは現実くさい重箱の隅を突くような案件ばかりが続いたので、今回はちょっとスケールを変えて、お隣さんの中国の壮大な経済復興について紹介しながら記事ります。

これは中国が社会主義国なので、正確には地方自治による創生でなく国家による創生になるのですが、この辺はざっくりと中国風にご勘弁を。

 

toyokeizai.net

中国のハイテク都市「雄安」は何がスゴいのか | 最新の週刊東洋経済 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

いやいやどうして、首都北京から電車で南下し、自転車で田舎の荒野をひた走る……ダイナミックでざっくり感満載の中国事情がこのくだりからも伺えます。

中国はご存知の通り人口・資源・土地の規模からして、日本と比較にならないスケールの大きい国ですから、これらの記事からどれほど私たちが役立てることができるかは、ここでは語りません。

 

ただ、彼らなりの問題課題を国民性の大胆さで確実に克服しようとしているのが、手に手に取るようにご理解いただければ幸いです。

この事実はある意味、本来優位な筈の日本人の繊細さがかつて戦後復興のそれとは変わっている時点で、ウイークポイントとして働いていることを示唆するものですが、人口減でその勢いも取りづらい今、この圧倒的規模のハンディをどのように埋めていくべきなのでしょうか。

 

 それはお隣さんのように国家単位でなく、各自治体単位で小回りが効く分にさまざまな技術や商品を、フットワークを軽くして海外に展開しまくれるところにあるでしょうし、その成果を見極めてピンポイントで国が全面バップアップすることで、成功事例を積み上げていく、日本らしい連携体制でしょう。

 現状は新幹線や原発などの、国家事業のノウハウ売りしか国はサポートしていないので、そこは少し手を緩めていただいて、大企業・中小企業に関わらない有望なビジネス計画にサポートを振り分けることになります。

 

いまだ自称実験レベルのサポートしかしない消極性は、国内経済の消極化につながるため、この点こそ国家レベルでの勢いづけを実行してほしいものです。

そのためにも、各企業体がかつて持たなかった世界市場目線の調査姿勢と海外リスクへの苦手意識を克服する最低限の鍛錬が求められますが、この基本的重要性もまた国家レベルの指針をキチンと示し、誘導する役割が期待されます。

 

どれだけ現実味がなくとも、人間モチベーションとなる実例は必要でしょう。

 

日本は、かつて戦後のどん底アメリカにその理想を追い求め成り上がってきましたが、現代で言言えば中国の理想的実体を国内に落し込みするトライアンドエラーを、少しでも多く経てカイゼンするのが、チームワークを重視する日本の成功スタイルであり、実行すべきビジネス姿勢と言えるのではないでしょうか。