くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

クラスメイトは外国人、その時親はどうしますか

 数年前から積極的に始まった、国内の観光事業強化と職業人材育成によって、私たちの生活環境に外国人を見ない日はほぼ無くなっていると感じるように、漠然とでも彼らとの関わり方をまじめに考える機会も増えていることと思います。

 すでにその境遇に立たされている人は今まさに、まだの人でもより具体的に心の準備はしていきたいと考えているかも知れませんが、地元でも下記のような大きな変化は現実になっています。

 

www.asahi.com

新入生49人のうち41人が外国籍 愛知の小学校:朝日新聞デジタル

 

少し前までは、漠然と「人種や宗教の壁を認める」は頭の中では当たり前だったですが、当事者になるとそう簡単で無いことに戸惑う人は結構多いそうです。

私たちのお国柄は、受け身型で短期訪問者には寛大なことが多いのですが、それが長期化するとその反応はガラッと反転する事実に驚くことになりますよね、歳をとればその傾向は増すし、人付き合いの経験量でも差が出ます。

 

だからこそ、その事実を認めながらその判断を集団で決めずに、個々に判断し行動するスキルが不可欠になるのですが、私たちの多くが集団の調和に重きを置く性格から、容易で無い事は今後益々深刻になる可能性があるわけです。

もしあなた達の子供が通う学校でこうした現実があったときに、単独で多様性を受け入れつつも子供の安全性や人脈を見極めなければなりません。

 

子供たちは経験も浅い分受容性が高いので、いとも簡単にコミュニティを作って馴染んでいくのですが、子供より親などの大人が冷静に対処できない場合は、その時点でそれぞれの柔軟性と価値観が問われるわけです。

 親御さん世代では経験ももてず大人から教えてもらえなかった、コミュニケーションスキルを、唐突におこる変化の中で子供にどう諭せば良いのか、社会の個人化が加速する中でストレスになる人も多いと思います。

 

それを解決する上で、上の実例は役立つ人とそうで無い人に別れますので、後者の人は個々に自分自身で判断するしか無いのですが、そのリスクを覚悟で判断してもその行動を許容するコミュニテイでないと、その英断は生かされません。

少し本題がずれますが今、幼児虐待を表面化させる試行錯誤をしているように、イジメなどの犯罪が面に出にくい集団性が大きな課題になっているように、より個人の追うべき責任とコミュニティが請け負うべき責任が、不明確な事で起こる障害は、外人受け入れにも良からぬ課題を残します。

 

その解決には、まず単純に個人の判断を尊重できるか? ですが、この尊重とは関わらない事ではなく「かかわりながらも認める」ことで、そのためにはコミュニティが明確にすべき保護権利と、個人が背負うリスクを共有しやすい場を持てるかにかかっています。

この境界を曖昧にすることは、問題をうやむやにする姿勢と比例していて、健全なコミュニティかどうかの判断基準になる目安ですから、市民にメリットのわかりやすい「目安箱やSNS」導入など、行政も具体的に目的を明示した上で実行し、その是非はその後で討議する、言ったもん勝ちの仕組みを作れるかは大事です。

 

行政が積極的に明確な態度を示し、市民誰もが関われる仕組みはある意味連体制が高度に進歩している日本でしかできない事だと思いますし、今は個人化の普及で昔からあった連体制がうまく機能していないだけではないでしょうか。

筆者もどちらかといえば個人主義者なので過度な縛りは賛成できませんが、民主社会を目指す以上最低限の統制は避けられないもので、むしろ多くの日本人が望んでいるものでしょうから、自治体は市民のニーズをバランスよくまとめてコミュニティ単位でいつでも市民全てが参加できる仕組みに予算をつけることに、誰も反対はしないと思います。

 

この提案は冒頭に挙げた問題を解決する一案にすぎませんが、だれもが好きな時にこうして言いたいことを書き込む習慣は、有意義なことではないでしょうか。

それを集めてどう分析するかは、自治体の能力次第ですが始めて進める行動力を、色んな形で市民に示してほしいと願っています。