くろま流 × NAGOYA式 ブログ

地域産業・観光を広い目線から、東海・名古屋あるあるをリサーチ。

平成の功罪。未来を担うはずの、青年の暴走が意味するもの

 2019年明けて早々明るい話題だけでなく、予測できない未成年や青年加害者の、事故・事件が報道されたのは衝撃的でしたが、統計上減っているとされながらも話題が絶えないのには、何か不足な点があって改善が足りないと考えるべきなのでしょうか、それとも他に原因があるのでしょうか。

まず、毎日流されるニュース・報道の内容は、すでに子ども・青年が起こす事件は、大人が経験してきた許容範囲を超えたことを嘆き、複雑化・予見困難で対処に行き詰まる様子や現状を訴え、さらに「稚拙な動機による生命軽視」「凶悪犯罪」と断定、センセーショナルな三面ネタのように常習化は問題ではないか、という点はあるでしょう。

news.livedoor.com

竹下通りで暴走運転 逮捕の男「灯油で車を燃やそうと思った」 - ライブドアニュース

 

こうした不幸はあって欲しくなくとも、判断力が未熟とされる子ども達が起こす犯罪は、ここまでメディアが普及する時代の前からも起きていましたし、以前と較べて減っているはずなのに、メディアが普及したことで新しい中心世代への影響力が、大きくなったことも大きいでしょう

この犯罪量と質の印象による誤解は、本来与える印象とは直接関係の無いことへも悪影響を及ぼしているようで、「子どもの凶悪化傾向」を煽ったり「大人の言動の正当性」の理由づけにされているとすれば、社会的防衛力を持たない年少者には迷惑この上ない話と言えます。

 

こうした反省点があるとしたら、その原因は子どもの境遇だけでなく、大人の社会的な混乱や困惑によるものなのかもしれないですし、風潮として定着しつつある凶悪事件の大人たちの印象によって、若者バッシングや子ども環境への冷遇に繋がるとすればそれは不幸です。

事実大人社会の個人化が進み、SNSメディアには他人の悪事面が強調された印象が根拠でコメントした結果炎上したり、避難側・保護側総出で年少弱者に不利益をもたらす混乱ぶりが、浮き彫りにされいます。

 

まだTVメディアが主流だったころは、事件はある程度「他岸の火事」として他人事としたり、好奇心や野次馬根性を満たすゴシップとして受け流す選択肢があったし、身の回りの人以外への拡散も限定的でしたが、今は情報共有者全員がいつでも何処でも擬似的(しかも匿名)に犯罪や捜査に自由参加でき、犯罪に加担するかもしれない責任とリスクを気にかけず参加する節操が、凶悪犯罪ほどその事実を複雑にさせている事に、関連者は気付いていないように見えます。

この風潮はアメリカから起こって亜種メディアを通して拡散しつづけていて、アメリカ文化を模倣する日本の慣習に根付き、その習慣は良し悪し関係なくさらに学習を繰り返えしながら、メディアで供給される悲劇報道の「耳年増」にならざるを得なくなったということです。

 

今年、幕を閉じようとする「平成」時代は、そうしたメディア社会の習慣化によって、良いこと悪いこと全てが強調・刺激として受け入れられた、象徴的な時代だったと受け取れます。

かと言って悪いことばかりでなく、平成時代を束ねた「人間天皇」が癒しを与えた時代であり、昭和の話題・問題作が様々見直された時代でもありました。 

 

 

その平成で筆者が残念だったのは、日本独自の「道徳」と「哲学」が教育面で一時的に力を失ったことでしたが、そのそれでも救われたのはある書籍の再注目で、そのタイトルは、

『君たちはどう生きるか』

です。

 

まだ記憶に新しいので覚えていらっしゃる方は多いのではないかと思いますが、今に生きる多くの若者や大人に、大きな反響をよんだ名作と言えます。

事実当時は売れましたし、何度も読み返された方も多かったでしょう。

この内容の解説はここではしませんが、昭和に起こった若者の社会的な問題を問い、哲学的な視点も交えて根本的に問い直した作品であり、

 

「避けて通れない身近だけれど、目を逸らしてきた課題」

 

を、時代を超え多くの人の内なる問いとして共感された内容でした。

 

この作品が示すとおり、若者たちの社会的な葛藤をありのままに問いかけた結果、多くの人の共感を得たわけですが、その根底に流れる日本人の道徳観や性善説に基づく哲学的な「良心」の在り方を、私たちに再認識させてくれました。

また、今年14日にNHKスペシャルで放映された、

“冒険の共有” 栗城史多の見果てぬ夢

は、同メディアの自戒を込めた衝撃的なドキュメンタリーでしたが、対象者に繰り広げられたネットからの無責任で独善的な書き込みの罪は、大きく問題にされることが少なく、いかに大人が自分に甘く人に厳しいのかを、見せつけられる例でした。

 

最初に揚げた時代的な経緯も踏まえ、改めて連続する若年者の事件を考えると、単なる凶悪犯罪としての偏見表現だけでなく、様々な角度の表現に乏しいメディアや視聴者たちにどれだけ影響を与えたでしょうか。

 

「未成熟な判断力の存在を大人と同じ扱いをしていいのか」

「子どもたちは加害者か、犠牲者ではないのか」

 

この答えに、肯定する人はほとんど居ないでしょうが、実際のところその真意は本当かどうか疑わしくなってしまいませんか?

多くの大人は、理屈や経てきた人生経験を通してこの答えを知っているはずですが、行動はその答えと相反しているようです。

 

 

大人目線で子どもの起こす犯罪を、犯罪として否定しながらも、課題として受け止める日本の法の基本である「罪を裁いて人を裁かず」の理念を実践していかなければなりませんが、今の社会風潮は明らかにその実践を示す方向に向かっていないように見えます。 

 

大人の中にも今の世相に混乱が起こっていて、わかっていても出来ない人から知ったことでは無い人まで居て、多様性の捉え方が一様で無くなったのは、グローバル化する社会、メディアIT化で情報過多一辺倒な時代に、素直で、無垢で、受動的な日本人の意識は、それには大真面目についていこうとした結果オーバーロードし、それに耐えきれなくなった子どもから先に、日本人の性善説的言動から脱落せざるを得なくなっている。

 

その哀れな時代を、ひとりひとりが見えない心の底から少しずつでも、自分をジャッジして改める。

 

宗教観の弱いというか、寛大な神教観の中で生きてきた日本人にとって、自分を裁くというか不馴れな感覚は、メディアからの影響に対応するスキルとして、今後もますます大切にしなければなりません。

筆者から見た平成時代は、昭和の盲目的な性善説に疑問を持たず、色あせた過去の道徳観を変えずに乗り切ろうとしているようでしたが、今年変わる新時代を節目とし、メディアの現実とより良く適応できる柔軟性と多様性を身につけ、メディアと距離を持てるようにしていく必要があると実感します。