くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

無くてはならない(2)愛すべきペットの付き合い方、そして始末

今回も、本ブログテーマに直接は関わらないけれど、捨て置けないテーマにふれておきますが、私達の生活に無くてはならないシリーズ第2弾「ペット」についてです。

多くの家庭でペットは、単なる主従関係を超えた「家族の一員」もしくは「生活のパートナー」の存在になっていて、飼う飼わないにかかわらず避けて通れない社会現象になっています。

 

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愛するペットを遺して死んだときのため、私はこんな準備をした(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

この現象を考える前に、立場を明確にするためにまずは筆者のペット観を述べておきたいと思いますが、筆者は今ペットを飼わない派?になっていますので、幼少時代以来ペットを持っていないし、今でも敢えて飼わないと決めている立場です。

それに至った由来は、幼少時代飼っていた猫との死別と親の方針(飼えばそのいずれ来る死を多く見る辛さと、所有する人の欲を肯定できないという考え)の影響が大きかったせいですし、同じく幼少時代の体験(心ない大人によって、目の前で子猫を溺死させる姿を見せられた)トラウマもあって、人に関わらず生命の死をネガティブにする傾向があるからであり、必要以上にその生死に関わりたくないと考えるためです。

 

今でこそ人を含めて「生きもの」が与えてくれる温かさやモチベーションの大きさと深さは理解できるようになりましたが、こうした体験から今のペットの不遇の話題はより耐えられなくなっていて、可能性が1%でもあればペットは飼わないという立場を捨てられずにいます。

これは、あくまで私見であり筆者自身がペットの存在を否定するどころか、幸せに生きているであろう多くのペットたちを祝福したい立場であり、それだからこそ家族としての存在になっていることに安堵するのです。

 

私たちは、家族の一員として死との対面を避けては通れないし、そこから学ぶべき大きな意味を得るためにも、ペットとの付き合いは家族同等の意味を持って然るべきですし、その関係はこれからも深まってほしいと願っています。

ただ、残念なことに自分が死に至るとわかった時に、家族として愛玩生物としての存在をも十分に思いやった上で、手軽に入手できるようになった今、筆者がもっとも畏れた不幸との遭遇が、少しでも少なくなることように知恵を働かせるのが、最高の叡智であるはず人の責任であり、温情だと信じています。