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くろま流 × NAGOYA式 ブログ

名古屋在住者の視点から地域産業・観光を通した活躍を応援。

戦後70年節目に見る、名古屋復興と発展の歩み。その①

街づくり 政府 行政 名所 施設 史跡

 

 昨年では太平洋戦争、いわゆる戦後から70年と言う節目の年で、さまざまな見直しや復古が取り上げられました。今年はその流れでは次の70年というくくりで考え、過去がどう生かされ、未来にどう生かしていくかに触れたいと思います。

 

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 次の70年(またはそれ以上)に向けて何を伝えていけばいいのかを考える街づくりを、名古屋を通して考えてみますが、まずはその起点になった太平洋戦争において、何を残し、何を伝えるのか。

 どうしても年数が経てば、直接経験した人たちは減っていきます残された物や記録でその残り香をかぎ取って行かなければならなくなります。

 名古屋市ではそのために資料館が設けてありました、それが市営ではなく長い間民間のボランティアで賄われていたのです、ようやく市営の資料館が昨年開館しましたが、民間資料館の館長は、遅れた市営館の開館に複雑な顔を見せていました。

 この二つの戦争資料館については、別の機会に詳しく書きたいと思います。

 

 その一方で、特に名古屋市の河村市長は、現職に当選して以来のライフワークのように、戦後復興の広小路屋台復活や、名古屋城(周辺の建物含め)戦火で焼けてしまった無念を晴らすかのように、戦前の名古屋復興をめざしているようです。

 それは、戦火で焼けた名古屋城の再建にかけた人々の思いを今でも忘れ得ないのだと思いますし、70年経った今でも脈々と生き続けている一例です。

 

 戦後の都市復興は、それは凄まじい速さで奇跡ともいえる回復を達成していますが、おかげで今の街からは、一見して当時の面影は消え失せて見えるほど近代的ですが、ご存知の方もいらっしゃる通り、街の色々な所に当時の片鱗・復興の跡をうかがい知ることができるそうです。

 

 例えば、栄の大津通に面する鉄筋コンクリート製の、レトロなビル(現:公立戦争資料館)ですが、市・県庁舎と同様に戦前から残っている近代建築の代表ですが、この建物にはもう一つの大きな存在意味があります。

 この建物は、名古屋が復興の際区画整理で道路拡張した際、全ての建物を建て替えると費用も期間もかかるため、当時の人々が知恵を絞って日本伝統建築方法の曳家工法を使ったことがわかっているそうです。

 建て替えなら何年もかかったかもしれない工期を、数か月かかって曳家(ひきや)で5mセットバック(退行)して、結果そのまま戦前の丈夫な建築物を残し、効率よく復興した知恵が、今も残っているのは素晴らしいことです。

 建て替えれば時間も手間もかかるのを曳家で移築し、使う工夫。おかげでその分早く道を広げ、今の判り易い碁盤の目の街筋が出来上がったのです。

 それはその後、良くも悪くも自動車社会を見据えたもので、事実その通りになりましたが、その一方で名古屋城など焼け落ちた建築物は、当時の最先端の技術で立て直されました。

 

 名古屋城の城下町を、新しいものに変えるために、市内中区・東区の市街地にたくさん(戦前昭和22年時点で18万7千基)あった墓を、市街の東側郊外に大規模な移転を実施し、今の平和公園としました。これで区画整理が飛躍的に進み栄地区の発展に寄与しました。

 これによって広い道路は、ゆとりと時代の変化(自転車専用路など)に対応できたしたのです。

 ここまで大胆な都市計画を実行できたのは、当時の人々の、早く復活・再生したいという強い意志と、未来を描きながら実現にまい進する思いを、上手く実行できたことが大きかったのでしょう。


  他にも、名古屋駅開発沸く最新の高層ビル建設とは別の方法で、名駅から東1kmに残る、四間道(しけみち)は、蔵の風景が未だ残されていますが、その間際にできた円頓寺商店街と併せて、新しい街づくりにチャレンジしています。

 名古屋市の隠れたシンボルでもある100m道路のメリットを、更に広げる試みとして、その広さを生かした「にぎわい作り」の再開発も計画中だそうです。

 

 名古屋の街には、戦後70年のこれからも、その時代のあるだけの資産を上手く生かして、次の世代に引き継ぐという伝統を伝えているのですね。
 引き継ぐ私達も今後も努力しなければならないと心が引き締まるというものです。