くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

人生100年時代をナナメ読みしてみる。

安倍総理が掲げる方針のひとつ、

2、30年後がひとつの節目になる?

安倍総理の世代が悠々自適に余生を送れるかの、丁度いいタイミングなだけに、筆者は額面通りに期待しない。

けれども、昭和末生まれの世代がリタイヤする時期であり、平成生まれ以降の新世代が主導する時期であり、ITテクノロジーもAIが社会に大きく影響を与えている時代でもある。

その頃、日本がどのように機能しているか想像するのは、鬼に笑われそうな話だが、あくまで勢力図が今の状態を継続していると仮定すれば、あながち100年時代起こりうる現実と捉えて話し進めたい。

 

可能性としては、今や世界2位の経済大国である中国に飲み込まれているかもしれないし、今からデモ予想できない第3の洗たくがあるかもしれないけれど、前述の家仮定の上では、ロングライフを視野に入れた人生設計は、マストになってくるでしょう。

 

さて、現役はそれなりに活躍できたとして、30年先というと安倍総理は基より小泉進次郎氏の世代さえ現役を退いている時期であり、政治の筋道が全く読めないが、現在安倍総理が描く青図は、医療福祉の充実はまずするでしょう。

ただ、もう一方の介護福祉の面は財政次第で手薄にされる可能性は、高いと見ています。

 

前者は政府のバックボーンである経団連や医学会の要望も強いため、最優先されるでしょうが、これは必ずしも国民よりの施策と期待しすぎない方が賢明でしょう。

 

人口減少の余波が現れてもいる時期なので、サラリーマンは今より減少し自営でないと生活が成り立たないかも知れませんね。

IoTやAIが管理面の仕事をほとんど管理し、職業形態も様変わりすると言われていますから、終身できる仕事のスキルを見込んで人生設計が必要。

 

お金も仮想通貨が主流になって、今タンス預金として機能する円の価値も変わっていて、より流動させる必要が不可避になるでしょう。

個人のプライバシーもあって無いようなもので、むしろ積極的に有効活用をした方が良くなっているのではないでしょうか。

 

今秋近未来を描いた映画「ブレードランナー2049」が公開されましたが、この映画で一世を風靡した退廃した未来都市の姿の陽には、さすがにならないでしょうし、未来の風景は都市の一部を除いては、今とさほど変わらないでしょう。

むしろ変わるのは生活形態や雇用事情などのソフトウェア面であり、急速に姿を変えてくるでしょう。

 

私たちは、歳を取りながらその変化について行かなければならない。

そのための準備期間としての30年とは、とても短いものになりそうです。

核分裂から、核融合炉へのシフトへの未来

日本は、核物質の脅威に晒され振り回されてきました。

とても残念なことであるとともに、この歩んできた道にアジア列強に埋もれない大きなヒントが潜んでいるように思えます。

 

this.kiji.is

<あのころ>湯川博士にノーベル賞 物理学、日本人で初 - 共同通信 47NEWS

 

私たちの戦後70年の過去には、戦争で負けたという負の意識の前に、忘れてはならない貴重な遺産があることをわすれてはならないのではないでしょうか?

筆者は決して国粋主義者ではありませんが、素直に歴史を振り返って見て湯川博士の存在は偉大であり、悲しくもこの技術は戦争に利用されてしまいましたが、ここで忘れてはならないのは、陰謀論のような情報操作に振り回されるよりもフラットな意識で日本の歴史遺産を見つめ直し、有効に未来に生かしていく真摯な姿勢が求められているということだと思っています。

 

 

核分裂技術では「もんじゅ」が廃炉に追い込まれましたが、核融合炉の開発は現在も岐阜県にある地下施設で進んでおり、世界でもドイツと日本が最先端であるのは、動かしがたい事実です。

かつて、欧米列強国に敵と睨まれ戦争へ誘導され、本来の技術評価をおとしめられたことは、今でも私たちの意識のトラウマとして残っていますが、本来ドイツも日本も世界のどの国にも及ばない先進性を生み出す遺伝子を、疑うまでもない素質を持っているのは、みなさんも心の隅の糧として確信しておられると思うのです。

 

今現在、核廃棄物の処理の解を見出すのに、抜けられない迷路に入り込んでしまった国内での核技術についての小競り合いが、私たちの負の命題になっているのは、とても残念な状況であり、アメリカの犬と蔑まれてても致し方ない現実でもあります。

安倍総理の掲げるアジア戦略には、個人的に首を傾げざるを得ないところは何点かありますが、キホン日本は中国の数の勢力よりもアジアを率いるリーダーとなり得るポテンシャルには、筆者はひけを取らないと確信しています。

 

その成功へのロード進むには、多くの課題をかかえてはいるのですが、いま私たちが思い起こしておかなければならないのは、精緻さと誠意をもって事にあたってきた、

 

「日本人の、培ってきた文化や、精神」だと思うのです。

 

ハロウィンやクリスマスといった西洋文化を受け入れ、心まで楽しめる文化はとても素晴らしいわたしたちのマツリ文化と許容性の賜物だと思っていますし、筆者もおおいに盛り上がって欲しいと感じています。

ただ残念なことに、一方で相変わらず西洋の技術に対して「劣等感」の過敏症に悩まされているのも事実であると自覚しなければなりません。

 

70年まえの戦争が、太平洋戦争として日本のトラウマになってきたのは、避けられないことではあるのですが、世界的な視野で見直せばこの戦争は、第一次戦争とよばれた欧米から言わせれば、市場拡大の戦略戦争としてはその第2弾でしかないのです。

ドイツは当事者として巻き込まれて然りですが、西洋列強に言わせれば極東・僻地の小国が疎まれたのは当時の日本が、有能な上に突然湧いたようにでた。

 

「目の上のタンコブ」

 

だったということ。

これは私たちにとっては、決して卑下することではなくむしろ胸を張れる歴史的事実でしかありませんが、これからは戦争の負の意識に負けることなく、新しい世代を中心に正の意識を膨らませることこそ、政府が掲げる大命題だと信じています。

そのためにも、私たちは積極的にグローバルな意識を育て、

 

精神的にも世界に並ぶグローバル国

 

を目指さなければならないと、襟を正したくなるのです。

 

 

 

 

旅行に行く楽しみは工夫次第

昨今、インバウンド市場を盛り上げる施策で、国内の宿泊施設は外人旅行者でいっぱいだそうで、それによって自分の首をしめる日本人の「おもてなし」「気配り」の理想と現実に戸惑うばかりです。

そのしわ寄せで、”周りを思いやる気持ち”が自分を追い込まないように、人への思いやりと自分への癒やしのバランスが、いかに大事なことかを考えてみます。

 

 

私たちは、よほど生活時間に余裕がないかぎり、サラリーマンは基より自営の方でさえも、理想の癒しの時間を持てない場合が多いのではないでしょうか。

 

せめて、なけなしの時間の中では、お茶したりドライブしたり読書するくらいが精一杯、いざ自由時間が取れるとなった際に、思うように余暇を有効に楽しめない自分に気づいたりします。

 

たとえば旅行を計画したにしても、用意周到な人は旅行より準備に疲れてしまったり、余計な気配りが増えたりと、気の休まる暇さえなくなったりと、充実感を得られない人は多いかもしれませんね。

 

日本人は、海外の人より周りの人や状況に気配りをしすぎる傾向があるとよく耳にしますが、一見に日本に住んでいて当たり前だと思っているこうした気配りが、いざ自分の自由時間や、下手をすると人生の流れまでもを活かしづらい状態を作り出していることに、どれだけの人が自分を追い込んでいるでしょう。

 

 もし、そうした実感にじわじわと頭を支配されているとお感じなら、何度かリセットを試みるのは悪いことではないでしょう。

 

自分自身で(人によっては多少のリスクはあるにしても)わざと節目を作って、そこに非日常的なイベントを計画・実行するのは、最近ポピュラーになってきているものの、なかなか現実は簡単にできないよ、と自身であきらめずにブレイクスルーする習慣は、創れないものでしょうか。

 

県民にも想定外!? 新幹線を使わず青森まで安く行くとっておきの裏技を実践レポート! | GetNavi web ゲットナビ

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週末や連休に行ける海外旅行 2/3/4/5日間でおすすめの旅行先│エクスペディア

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人に気を使うことが半ば常習化されているという風潮が、他の国の人びとより過度に捉えられて、自分を好きになることが罪のように思ってしまう人が増えているのが、いじめや虐待ひいては自殺に繋がったり、企業内で瑕疵の隠蔽やその上に問題を見て見ぬ振りをしたり、悪循環は改善できないでしょうか。

 

そのためにまず、他人からもたらされるストレスはどうしようも無いにしろ、せめて自分で追い込まないために、自由時間を自分の境遇に合わせてそれなりに創っていくスキルはぜひ身につけたいものです。

 

 先に書いた自分でリセットするというのは、慣れていない人にはとても自覚と勇気のいることですし、人によっては時間がかかることかもしれませんが、タイトルにも入れた「工夫次第」というのは、本人が自分の時間に責任を持つことが大前提です。

 

また、自分の時間や意識を自分の為に使うのも、人のために使うのも本人の自覚と覚悟がなければできませんし、逆にそれがあるからこそ自分の時間配分を、自分がコントロール出来るのだと思うのです。

 

紹介記事のように、旅一つにしてもいろんな旅があるように、また英語では「旅」は3つの表現(Trip、Tour、Journey)があるように、余暇を過ごすには人様々の感情や思いを軸にするのが「旅」の本来の姿だと思えるのです。

 

こんなことを言っては本末転倒かもしれませんが、現実的に旅する余裕のない人もいらっしゃるでしょうから、その時は持てる時間の範囲で旅以外の自由を、自分で創る必要はあるでしょう。

 

でも自分の時間を工夫=創造するという楽しみを見つけ、その計画に思いをめぐらしながら仕事をする人生と、単にできないからと絶望の中で奉仕をする自分とで比べてみて、どちらが幸せになれるか? 一目瞭然です。

 

こんな些細な妄想なら手間暇はかからずいつでもできますし、悲壮な妄想をするより夢のある妄想をする習慣は「自助」につながって、自分を「豊か」にしてくれる原動力であり、そうする事で少しでも日本人の癒やしにつながると願っています。

 

 

日本文化を愛でる習慣

 

御園座が閉店して久しい、御園座というのは東京でいう歌舞伎座のようなポジションの施設(ビル)でして、中日ビルと併せて名古屋での日本演芸娯楽場ですが、近年復活した大須演芸場とも併せて、地域のファンに知られた一大施設です。

ようやく御園座もリニューアルが進み、ビルのほとんどが完成に近づいていますので、先ごろオープンしたテラッセ納屋橋との相乗効果で、名駅と栄にある地の利を生かした文化の発展に活躍しいてくれそうです。

 

ということで名古屋城木造化の話題も大事ですが、本来この地域が大事にしてきた日本文化歴史の話題も大事です。

観光ブームに乗っかるのは良いのですが、地に根ざして、新しい世代にも関心を持ってもらえる文化的な、教育や準備の方がっもっと大事です。

 

 

平成中村座、8年ぶり名古屋城へ 勘九郎さんら兄弟抱負:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

 

将来を眺めて見ますと、私たちの国は欧州に比べれば小さいにしても、外国人の流入出が格段に増えることになると容易に想像がつきますが、その一方でより日本人らしさを意識する機会もより増えてくると考えられます。

その変化の中で、日本を代表する芸能である「歌舞伎」における積極的な変化は、多くの話題の中でも目をひくほど、大きな変化として注目されているようです。

 

上の記事でも江戸歌舞伎の大御所「中村屋」が、名古屋ゆかりであることもあって、名古屋との積極的な関わりを持とうとする動きですし、また演舞内容もインドの古典をモチーフにした作品も公開するなどの、伝統に固執しないいわゆる「温故知新」を実践している好例です。

また規模は小さいにしても、名古屋でも大須演芸場は復帰後も積極的に関西の芸能陣とタッグをくんで、落語など中心に漫才などでの文化交流を積極的に進めながら、若い層のファンを増やす活動は、目をひくものです。

 

こうした日本芸能面からみて、次世代の担い手が積極的にこれからの価値観を模索し始めていて、少しづつではありますが新しい時代への答えを見出そうとする動きが、ここ名古屋でも進んでいるのは、とても励みになるものでしょう。

日本芸能は、海外観光者の目をひく話題としては比較的ポピュラーなものだけに、私たちが日本人としてのアイデンティティを再認識するキッカケにしたいものですが、同時に海外文化や慣習がそれ以上に流入する現状も事実です。

 

古臭いと言われるかもしれませんが、ここ10年ほどで定着しつつあるハロウィーンの慣習は最たるもので、本来の期限や意味を考えるとここまでのめり込むのはどうなんだろう‥‥と首をかしげてしまいます。

本来祭り騒ぎが大好きな性分の我々が、その祭り気分に飛びつくのは当然といえば当然ですが、その性分がストレートに反映されている名古屋で広がる「どまつり」イベントなども、大いに全国の参加者が集ってもりあがっているのを見ると、まんざら捨てたものでもないとも思います。

 

日本が国際化の輪を広げて、参画していく上では今後より「日本らしさ」が大事なことだと思うのですが、現状一部をのぞいて中核層は基より若年層までもが、留学・出向など海外進出に消極的だと嘆かれているようです。

たしかに国内事情として、教育や仕事をする場において国や企業からの、海外展開への投資が伸び悩んでいるのがネックだとは考えられますが、新政府は国民の活躍の場としてこの方面の予算投資を始めるとしています。

 

その間に、民間でも引き続き受け入れの準備を進め、日本人としての心得を確かめていく必要がありそうです。

 

 

toyokeizai.net

 

 

産業改革・電力問題どうするの? わずか10年先の未来

 大きく変わろうとしている、私たちの生活上欠かせない移動手段である、自動車業界について、つい数年前まではドイツ日本アメリカの3大自動車生産輸出国が、当然のように、規模を拡大していた時代はすでに過去のものとして、中国やインドなど新興国を巻き込んで、再編成が加速し自動車そのものが変わろうとしています。

 自動車は私たちの生活に不可欠なだけでなく、さまざまな業種で活用されており、その変化を見通すことはとても重要なものですが、下の記事はその流れや問題点を上手にまとめています。

 

トヨタとマツダが資本提携に踏み切った「やむに止まれぬ事情」(町田 徹) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

gendai.ismedia.jp

 

  こうした自動車にまつわる課題は、当筆者のブログでも数多く取り上げていて、自動車産業が主軸の東海地方の関心事として提案もあげていますが、今回のトヨタマツダ資本提携強化でもお分かりの通り、世界の業界トレンドが電気自動車へと強制転換する流れで、かつてのトップ3国は一気に引き摺り下ろされようとしているという事実です。

 

 しかし上記事は指摘しているように、性急な電気自動車へのシフトの動きは、同時に急激な電気需要の増大と、そのインフラ整備の課題に目をつぶった動きであり、エネルギー需要の解消という世界共通の課題をもたらしています。

 

 日本はこの課題に対し、ようやく原子力発電を整理しだした状態で、国策的には全くこの課題解決の動きを持ててさえいない状態で、電気自動車へのシフトはおそらく10年スパン程度では、実現不可能かと思われます。

 

 その間に世界の電気自動車シェアがどの程度になるかは、実例が無いので不透明ですが、明らかに先進国に比べて中国やインドなどの途上国の方が、国策でインフラ整備が進めやすい分有利に進め易いことから、IoT企業の目論見通り自動運転ベースの電気自動車産業が主力化すれば、日本は一気に遅れを取ることになります。

 

 この流れの実現性は、事例が無いだけに一見低く見られがちですが、少なくとも日本の自動車産業には既存の国内で解決しないといけない、技術力や派生産業ノウハウの転用や裾野産業化している雇用の仕組みも含めた改革が残されていて、人口減少しているとは言え、解決の目途をつけるには国の行政改革や、転用技術の具体化などにそれなりに時間を要する分、変化はゆるいほうが有利ですが、果たしてそれまで待ってくれるのでしょうか?

 

 紹介した記事の当面の課題もさることながら、それを超えると同時に既に始まっている、エネルギー問題と国内雇用再編成の課題は、今後2次産業への関心が下がっていくこれからの時代において、大きな落とし穴が待ち受けていることを、国や企業はしっかり見据えて一歩一歩でも着実に結果を出していく必要がある、ということです。

 

 そのためにも、従来のタテのつながりを今すぐ断って、官民連携のヨコのつながりを強めた、オールジャパン化の動きを世界にアピールすることは、丁度東京オリンピックのタイミングともマッチしており、世界における小国のブランド性を植え付ける、絶好のチャンスでもあるんですけれど。

 

 果たしてこの10年のうちに、私たちはどれだけの成果を示せるのでしょうか。 

マンスプレイニングって……男だけが悪いんですか?

 マンスプレイニングについてシェアしたいと思います。

 

マンスプレイニングとは、「MAN(男性)」「EXPLAIN(説明する)」が合わさった新しい造語だそうです。

筆者が興味を抱いたのは、このブログでも何度もテーマにしてきた男女の言い分に差があって相容れない、社会問題について関心があったからなのですが、その問題の中で特に女性が感じる男性への憤りを表現した新語と言えるでしょう。

 

マンスプレイニング
http://m.huffpost.com/jp/entry/15231496

女性に男性が偉そうに解説する「マンスプレイニング」を、1枚の漫画が的確に表現している

m.huffpost.com

 

 記事では、女性が尋ねもしないことに、説明したがる男性が多いことへの憤りとして取り上げていますが、それに対する賛否両論が展開しています。

明確に男女の論争とはなっていなくて、あくまでいろんなご意見があるよ、というスタンスで、ことが無難に結ばれてますので、ひとえに男女間戦争にまで至っていませんが、このマンスプレイニングは女性が男性にチクリと刺したいときに使えるワードみたいです。

 こうした、男は......とか、女は......とかの言い分は尽きない話ですが、男女間に限らず社会問題生活では慣習の違いで怒る認識の相違の話題は、いたるところに見受けられます。

 

通勤電車の一等地「ドア横」巡る仁義なき戦い | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

toyokeizai.net

 

上の記事ではのようなケースは思い当たる方も多いと思いますが、これらに共通することは、社会生活する上で自分の個人生活とのギャップを、容認できるかどうかの問題かもしれません。

 違法でない限り、人はそれぞれ許された範疇で自分に都合のいい行動を取っていて、それら行動の中で、自分の行動とのギャップが許容範囲より外れていると、自分に都合よく解釈するために正当化してしまうため、自分も他から見れば同じように思われているのに、その事実にフタをしてしまう弱い生き物です。

 

だからこそその弱さに気づいて、客観視できるように努めて初めてイーブンな関係になるハズですが、社会生活で感じるストレスでなかなかそこまで許容できる境地にまで至れないのも、人の弱さになんですね。

そう考えると、少しは自分自身を俯瞰目線でみれたことになるのかな、とほっとできませんか?

 

人はどうしてもゆとりがなくなってくると、物事を俯瞰視できなくなります。

そのなかで、最も安易に交わされる言い分が男女間相違による諍いに他なりませんし、公共の場をわきまえない者への「いかがなものか」論争につながっているということ。

 

だからそれがどうしたと居直ることは簡単ですが、結局大事なのは自分の視点の狭さを何度も何度も自覚して、少しずつでも広い目線を持てる自分へと、自分自身が導いていくコツコツ努力こそが、こうした諍いを減らしていく最短の道じゃないかと、思う次第です。

 

 ご静聴ありがとうございました。

 

国の教育改革の遅れと、親の職業観の思込みの罪

  次の世代を担う子ども達を育てる環境を、考える動きに熱を帯びていることは、とてもいいことではありますが、その動きが政治勢力維持に利用されている間は、子ど育成には喜ばしいとは言い難いのかもしれません。

 小難しい話し合いをする前に、既に目先の実利を求めないと間に合わない段階に入っている、グローバル社会をサバイバルできる次世代育成ですが、子どもの教育は主として誰に責任があるのでしょうか。

 

日本には「教育無償化」が本当に必要なのか? 徹底図解で考える(畠山 勝太) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

gendai.ismedia.jp

 

 これは、国と親に大きく別れると考えられますが、組織である国と個人である親とでは、当然責任配分は異なります。

 

 国はかつて教育制度運営に失敗した経緯はありますが、以下の記事のような「オンリーワン」教育を修正した経緯や、英語表現力の底上げの遅れを過小評価した国のツケを、個人の親が追わなければならない現状は、子育て問題をより複雑にしているよううに見えます。

 

http://courrier.jp/news/archives/93466/

“世界に一つだけの花”にならなくていい!|英紙スクープ「全米が騙された“オンリーワン教育詐欺”」 | クーリエ・ジャポン

courrier.jp

 

 加えて、教育費負担の課題でも国民全体で追うべきか否かを今更決めるに至っているのも、かつての新進党の政策を一つも引き継がず愚策とバッサリ切り捨て、それで浮いた予算を企業体力強化に優先させた結果です。

 こうした教育福祉の改善の経緯での、予算の無駄遣いが新たに国民負担を強いる姿は、現政権が言うような「国民に、歩み寄った政策」とはお世辞にも似つかわしく無いだけに、今後もしばらく教育費や方針決定の負荷は個人依らざるを得ないでしょう。

 

 そこで、少しでも個人の負担を下げつつも、我が子を良き未来へと誘うためには、親御さんはどう考えたらいいのでしょうか? そのヒントは目の前にある家族の生活状態そのものにあると考えた方が現実的でしょう。

 私たちの生活の目の前にある姿は様々であり、事情も全て異なっています。

まず覚悟すべきは、理想の前に本来ある状況によって選択肢はある程度絞られて来ますが、これは現実的には国の政策が宛にならない間は、やむを得ないでしょう。

 

 だからと言って蛙の子は蛙にしかならないと言っているのではなく、経済的な制限以外で親が子どもの可能性を誘導していないかが、大事だと言うことです。

 もし、ある親御さんが経済面で手も足も出ないと思い込む事で、それが子どもに伝わるにしても、我が子が絶対的に可能性を諦めてしまうのではないかと言う事。

 もしそう感じるフシがあったら親子でお互いの真意を確認しあうべきではないでしょうか。

 

 もしかしたら、徹底的に探せば補助や金銭的低リスクな道が見つかるかもしれないのに、親御さんの知らなかった「情報不足」で、可能性を無くす残念な話になっていたらそれこそ親子にとって不幸というものでしょう。

 子を導く立場の親が、最後の悪あがきもしないまま、自ら我が子の将来の可能性を狭めていたら、それはあまりにも悲劇です。

 

 幸いなことにも現在は、かつての時代からすれば低コストでネット環境を持つことができますが、せめてこの環境だけでも不自由なく我が子に与えられれば、これからの時代に合った仕事のヒントが、見つけたりつくるれる時代になっています。

 それがいかにスゴイ可能性を秘めているかを、古い世代はどうしてもないがしろにしがちかもしれませんが、政府が提案し始めた「テレワーク」という考え方は、政府が意図する以上に、有用だと認識しておくことがキモです。

 

 もちろん、親が知り得なかった今ある、役立つ制度や教育福祉制度を洗い直す努力を惜しんではいけないでしょうが、それ以外にも親が子にしてあげられる役割を、まずはテレワークの可能性を、もっと理解できれば親の負担は格段に下がるでしょう。

 それだけに、私たち大人はもっと仕事や教育の学習ツールとしての、インターネット活用を模索しなければならないでしょう。

 

 親子としては未経験の世界を子どもが歩んでいくのは、とても不安になるかもしれませんが、一説には既存の職業の多くは10年スパンで見ても無くなると言われており、その点でどのみち私たち古い世代の職業観は、役に立たなくなります。

 家族の中でのネット環境の開放は、世間では教育に悪影響を及ぼすと懸念されてはいるものの、実は比較的安全に大事な我が子に自立の自覚を早くから体験させる有効な選択肢であり、ネットで起こる未知の問題に早く馴染ませるのは、結果的に子どもにメリットを生むでしょう。

 

 もう始まっているVRやAIをベースにした非現実な社会は、リスクであると同時にフロンティアでもあるのですが、多くの親御さんの未体験ゾーンには抵抗感や危機感を感じざるを得ないでしょうが、どの道子ども達は遅かれ早かれ受け入れていくしかないのです。

 そう理解できれば、今のうちから仮想空間へ我が子を旅させるのは、決して無理な選択ではないでしょうし、子どもは思っているよりたくましく自分の道を、見つけて行けるでしょう。

 

 ただ、これから特に大事なのは親子の話し合いを今以上に蜜にして、来る未知の課題にも親子で立ち向かえる、関係づくりには決して手を抜いてはいけないことが、せめてもの親の役割ではあります。

 その上で、仮想社会の拡大で変わっていく職業観であっても、それ故に現実の親子の絆が問われるだけに、そう考えれば一見殺伐してるように見えるIT社会も、まんざら悪くないと言えないですかね?

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