長崎被爆の純粋な伝承妨げる干渉を考える
8月6日、9日は原爆被爆のおそろしさ、その無益さを反芻し純粋に平和を訴える特別な日だった筈でしたが、ここ何年かは様々なバイアスが掛かって複雑になっています。
日本は、唯一の核兵器の被災国であり、この悲劇に異論を唱える者は居なかった筈ですが、こういった被災体験を語る場は何かのすり替えに利用されているようです。
こういった戦争の被害事実を語る上で重要なのは、戦争を肌で体感した経験談ですが、この実体験に加えて体験でもない戦争歴史を付け加える動きが目立っているといいます。
この事は、戦争体験をされている方ですら起こっていると言うことは、私達未体験者からみてもその誤解や混乱を更に拡大する事を意味しています。
特に国内外、近隣国にとって政治利用しやすいだけに、教育機関も混乱しています。
これは、戦争当事者であっても同時情報統制下にあって、正確な事実関係は歪められていて、総合的に知る立場に居たものは、政府・軍人含めて皆無に近かった訳です。
ある程度の事実は終戦後明るみにはされますが、それさえもGHQのバイアスを避けられず、現在に至っても完全な復元が難しい状況が散見されるのです。
そこに海外の政治的バイアスが加わる事は、危機的でさえあります。
前後、連合国が残した政策は、日本人に自己嫌悪と自虐的性格を植え付けられました。
自国が加えた加害についても精査しなければなりませんが、従来通り事実を伝えようとする体験者の言葉も精査させられなければならないのは、悲しい事です。
国際化されるに当たって、単に被害事実を伝える事はデリケートな問題になりつつあるようです。
ただ、実体験自体は唯一堂々と語れる歴史であることを、再認識する必要がありそうです。
「中韓の主張を子供に刷り込まないでほしい」長崎被爆の伝承妨げる“政治の語り部” 島原・有明中の校長に聞く
http://www.sankei.com/smp/west/news/150808/wst1508080015-s.html