くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

罪と罰、自由と統制、その境界は縮まりつつある

日ユ同祖論という言葉を聞いたことがありますか?日本とユダヤ国がそもそも同じ思想宗教で繋がっていたという考えや説のことらしいですが、今でもその説を裏付ける証拠が東北に散在することから、陰謀論者に限らず少なからずの人が、その可能性を信じていると言われます、秋田のなまはげや、京都の祇園祭などの風習にその形跡が残っており、その形跡を辿って青森にキリストが訪れたとも言われているそうです。

こんな話から話を始めるのには当然理由がありますが、双方のつながりがどの程度濃いか薄いかはさておき、ユダヤの風習に残る家の入り口を子羊の血三方塗り染めた姿と、日本で当たり前にある朱塗りの鳥居が、とても良く似ているのです、前者は悪魔祓いのため入り口を血で清める意味があるのに対し、後者のそれは神様の通り道として清めた入り口としての意味が在るという違いがあります。

 

この二者の考え方は真逆ですが、本来日本のそれが正しいと考えると、どこかで間違った考え方にすり替えられたと考えられます、この可能性は単なる妄想ではなく、ユダヤの多くの人が認めないように、実際は日本の方が先で後からユダヤに伝わった際に、何かの間違いかすり替えがあったと考える宗教学者が増えているそうです。

これは日本の思想が優れているとだけ言いたいのではなく、今の世の中でも本来真っ当な考えや風習・規則や法律が、都合の良い方にすり替えられる事実が散見されていることと、何らかの繋がりがあると考えた方で、筆者が仮想現実が既に始まっていると言っているのも、このすり替えで本来来るべき正しい未来が、何かの都合にすり替えられていく姿を比喩しているからです。

 

その最も厄介なのは、太古では法律や規則異常に厳格な意味を持っていた、宗教の理が本来あるべき姿とは違ったものに、すり替えられてきた歴史があるとすれば、今の仮想現実が何度起きても不思議は無いということです、日本が広めようとしている理はとてもポジティブだった筈ですが、海外に伝わるまでに神の恩恵から悪魔の仕業にすり替えられてきた、今アメリカで起きている過激なLGBTQやブラックライブズマターなど、人権や自由が過剰に問題化され統制され、罪と罰が本来あるめき人間の業の戒めとして機能しなくなってきつつあります。

さて、日本で懲役刑と禁固刑との区別を無くすことが参院本会議で決まったそうです、これは刑務所内での犯罪者の処遇と扱いについての話で、私たち気質には縁遠い話に聞こえるかもしれませんが、これでも本来罪と罰は厳格に切り分け、罪に相応の罰や報いを受けなければ、本来の更生は無いですが、人材不足や合理化による法整備の改変や、罪そのものが本体個人の問題であったにもかかわらず、国や組織の都合や方針のために都合よくゆがめられていく、その一例に過ぎません。

 

今回のパンデミックでも、日本人の行動は世界の人からも、その統制力は良くも悪くも評価が高かったことを思うと、評価はもっとあっても良かったはずですが、実際にWHOは台湾や日本よりも、欧米の対処が最も注目される結果になっています、さらに彼らが作るワクチンや統制の方法が標準化されている、これは今に始まったことではありませんが。

こうした現実は、オールドメディアの報道が一律に一律の放送コードに沿っている以上、避けて通れない仮想現実になってしまいましたから、私たちは見えない統制・ゆがめられた都合に合わせて、自由を選ぶことになってしまいました、革命やデモ・暴動を起こせば確実に政府の治安部隊が殲滅に掛かります、その現実を私たちは折に触れ何度も見させられてきたのですから。

 

それでは、自由を選ぶか統制を選ぶかと言われた場合、どちらを選ぶでしょうか、多くは自由と言うかもしれませんが、同時に多くの人が良かれと思って、統制を抵抗なく受け入れている。空気を読む文化は察するとか言いますが、本音と異なる縛りを安易に受け入れるのに慣れさせらているということにお気づきだと思いますが、その選択はもうさせられているのです。

ワクチンを打つのか打たないのかその自由もひとつですが、ワクチンは全てアメリカ製で、しかも臨床試験も未達成なものを”自己責任”打つ自由しか与えられなかったのです、その上に打っても感染拡大の可能性を、不確かな”検査”で黒と出れば即隔離・業務停止され、その被害は実質自己負担でした、保証を受けられたのは結局ごくごく一部でした。

 

警察の取り締まりも同じです、執行の判断基準は極めて警察側に裁量があって、交通違反でのやり取りでも極めて不平等で、一方的な厳格さを押し通してきますが、日本人の良心や裁量に実際は相当数助けられているのにも関わらず、いざ罪を認めてしまうとさらに厳格さを押し付けてくるのです。

政治家の扱いも同様です、侮辱罪や名誉毀損、政府や議員の批判、誹謗中傷は国民はできないし、最近ではSNSでの批判や強い反論に対しても、政治家に優位に対応が進んでいきますので、国民は少しづつ自由の言論すら範囲を狭められていますし、有罪無罪の判断は、彼らの都合の良い取り締まる側の胸三寸で決まるのが現実です。

 

国民は一見自由が与えられているように見えて、息苦しい拘束を強いられちますが、さらに厄介なのは自ら反論を辞退したり、裁判起こしますか、泣き寝入りしますかと言った時に、押し付けられた罪を表に晒したくなくて言いなりになるのが、あまりにも多い。

こんな国民が窮屈になる社会になったのは何故ですか?

本来正しくあるべき日本人の良心や道徳心が、戦後教育で隠滅させられ、正しい事をしているのに自由を奪われ、あらぬ方向に誘導させられる今の社会は、どのようにして標準化・ノーマライズされたんでしょうか、冒頭に書いた通りに真っ当な者や罪の無い神が、悪魔の所業にすり替えられる社会が、どの様に作られすり替えられてきたか、深く考えない限りいつもの生活であるはずが、気が付いたら迷宮の生活に足を踏み込んで、それさえ気付かず死んでいくのかもしれませんね。