普通という名の中央値は存在しない、一見哲学的に見える現実の話
私たちの多くが、資本の自由を常識にしている社会で生活しています、この社会に生まれ育ったひとは、当然おカネの所有量によって格差が生じるものだと信じて疑いません、しかし実際の世界には、このマネー基準社会とは異なる社会を始めようとしている国が出てくるようになりました、それがロシアを起点とした連携国といえます。
では、ロシア系が目指そうとする社会観は、何に価値観をもっているかというと、そもそもマネーによって不利益を生じている国家群がベースなので、反マネー社会ということになりますが、単にマネー社会を標準化させようとする、国際金融資本への反抗に止まっていると見る人もいるようです。
彼らの試みは、こっち側の支配層に言わせれば”異端者”であり”存在しては都合の悪い”存在と映るわけです、今現在のウクライナ支援とロシア攻撃は、この構図をハッキリと反映しているといえますが、こっち側に住む人達にはあくまで善悪の価値観で、判断させる情報しか与えられていない事実を、知らない人が多すぎます。
資本自由社会は、マネーという数字を基礎としていると同時に、多数決つまり単純な数な論理を正当化する社会でもありますので、”全体が見えていない人”が大半である間は、ロシアの様な別の概念で運営しようとする国家は、悪として見るのが普通になるわけで、その大勢が続く限りはその中で生きていれば、何も考えなくてもソコソコの生活ができるので、敢えてリスクをとって反対する人は異端視されるわけです。
ただ、本来日本人がイメージする民主主義と、上で書いた多数決を尊重する民主主義では、違いが在るのを気付く人は居ると思います、民主主義は考えの多様性を尊重し、違いを議論することで高め合う生き方ですが、結論は出ない場合の苦肉の策で多数決制をとる流れになるはずです。
ところが今の実際には、単に数字が正義で理念は軽視される、マネー格差と同様の数字至上主義でしかない点が話を複雑にしがちで、人のそれぞれの考えよりも、数字の価値の方が圧倒的に高いという”普通”や”常識”を植え付けられてしまっています、これによって人はカネを稼ぐ意義をあまり考えずに、やみくもに枷が無きゃ生きていけないとか、おカネに替えられない価値がたくさん存在していても、見向きもしなくなる…と言うか見るゆとりさえ失っていくという、悪循環が加速してしまいます。
例えば、若い時に詐欺被害の経験があると得するという考えがあって、結果的に高年齢になって同じ被害に遭えば、若い頃より歯止めが効かずにもっと高額を損失する上に、社会的地位さえ揺らぎかねなくなる事を考えれば、その時点でマネー的には大損していても、人生全体で考えればむしろ安く済んだ、そう考えることも間違いでは無いです。
できれば1円でも失敗したくないのは人情かも知れませんが、生まれる前から潤沢な資本がある過程でない限り、完全試合はほぼ絶望的で多くの人が、失敗しながらその都度授業料を払いながら、帝王学の基礎を学習していくことは、させて通れません。
さらに、マネーが絶対正義の社会に生きる上で、世に言われる平均所得とか、貧困層の基準とかの数字が、どう頑張っても見ないで済ませられる環境が、困難になっている上に、人間関係を維持せざるを得ない以上、必ず”比較”されるというストレスに晒されるわけです、いわゆる普通は…だよねとか、統計では…ですからとか、誰が決めたか極めて不明確な基準によって、それがあたかも自分にも適用されなければならない”縛り”である事を、あまりに無条件に受け容れてしまう人が、さらに増えて行く。
増えれば、それを正当化して罪悪感なく人にそれを押し付けるようになるし、何より問題なのはその行為に罪悪感を持たなくなることで、その悪習慣は伝播しながら、さらに悪循環になってそれが積もり積もれば”悪”でも”正義”に成り立ってしまうのは、そもそも生まれた時点で自分の価値観中心に生きるべき人生を、他人の価値観を基準に生きる”プチ奴隷生活”をあたりまえに実践してしまうことに成りかねません。
ここで自分なりに決着を付けておかなければ成らないのは、自分にウソをついて生きるのか、他人に自分を偽っていきるのかの目途や覚悟をもてるかといううことです、特に日本人的には後者を選び勝ちですが、じつはこれが日本人として美徳でも何でもないということ、それはおかしいと指摘したい人は、むしろ”そう思わされている”現実に気付いていないか、歌が居さえ持てない状態に陥っていると考えた方が身のためです。
日本人は拝他主義が美徳なような風潮がありますが、日本人でも現実自分の幸せを追及するのに罪悪感を持つ必要はないはずです、私たちはどこかでそういった根拠のない罪悪感を満たされるように”教育させられた”のです、それまでの日本人はもっと多様的で自由な価値観をもっていたし、それを尊重する寛大さも持っていました、その習慣が残っているのは隣国の台湾です、彼らの気質には昔の日本の気質が息づいています。
この過去と現在のギャップは、そもそも曖昧な”普通”の基準を絶対的かのように、思い違えている間は、決して埋まることはないでしょう、日本人が上でも下でもなく真ん中を選ぶようになったと言うのも、実は幻想でしかありません、これは高度経済成長期に大量の出稼ぎ達が、都会に定住するようになったときに、企業がにとって不都合な格差をできるだけ出さないようにするために、中間層という概念を根付かせただけです。
また平均値を重要視するようになったのは、大学受験などで偏差値を重視させたことで、本来絶対的でもない数値で、格差を分かり易くることで、平均値が無難だと思わせるように刷り込んだに過ぎません、本来格差を肯定・否定するのは個人自由の範疇で有るはずですが、格差肯定が絶対的な基準にされている現状は、明らかにそれに都合がいいだれかが、そさせたに過ぎないことに早くきづいて、これ以上巻き込まれない対策をそれぞれが実行することで、歪んだ”普通感”は自然淘汰されるものです。