くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

コロナより質が悪い?ポリコレに見る、差別がなぜ無くならないのか

人は、この課題にもうどれほど取り組んできたんでしょうか、日本では授業や教科書で教わる限りで古いのは、筆者の記憶では士農工商穢多非人というのが最も古かったですが、おそらく最近の義務教育では、それすら習っていないのではないかとか、犯罪不正が横行するのは道徳意識が薄れ、グローバル側の自由意志が濃くなっているのでしょうか。

その習いが正しいかどうかさえ疑問で、調べると士農工商すら本来階級差別の用語では無いことが分かってきます、穢多非人についても歴史は意外と浅く、明治以降武士などから落ちぶれた者だったり、多くは戦後から言われたもののようであり、日本は西洋国で白人が有色人種を奴隷にし、階級差別を強いた歴史から見れば、日本の教育は戦後に殆どがGHQによって、差別の正当化が標準化された背景が大きいと言えないでしょうか。

 

日本の人は、戦後の映画やTV娯楽番組によって、勧善懲悪に傾倒するようになったのは、メディアが政府の不正など黒歴史の事実から、目を逸らせ気を紛らわそうとしていた間に、世界でも自由と人権をマイノリティ側から誇大解釈する動きが、左翼主義者によって強引に進められた経緯があったようです、つまりどれ程善意の者が差別を無くそうと努力しても、横から次々に差別の種をまき散らす輩が、組織的に動きだしているという、明確な兆候がこのポリコレという反社会運動に結実していると言うことです。

日本の正義が多くの弱者によって指示されたのに対し、海外の正義は少数左派から有無を言わさぬ「正義」が社会を覆っていると言えます、そして一度「差別主義」「排外主義」のレッテルを貼られると、それを覆すのは容易ではないし、徹底的に追い込んでいく逃げ場の無いものです、しかし彼らの言う差別とは本当にそうなのか?今”ポリコレ”がアメリカを中心に欧州やアジアにも拡散しつつあり、それぞれの国で定義されていた正義の概念を、根こそぎ覆そうという勢いだそうです。

 

いったい「弱者」とは誰なのか、その今更な問いに改めて考え直さなければならない事態が、アメリカでもう50年以上続いていることに、日本に住む人を含めてメディアの情報統制で、現象の拡大が矮小化して伝わっていると気付くべきかもしれません、筆者もつい最近まで国内メディアが取り上げるまでここまでとは知らずに、既にアメリカではとんでもないことになっているし、日本でも過剰と言うか異常な自己主張問題が続出しています。

ごく普通の生活感覚を手掛かりに「差別問題」の本質を問えば、人間には根底に自分を優先したい・優位になりたいという欲が必ずあります、これは自分を客観的に見る訓練をしている人には、比較的抑えやすいですが、それでも人である以上過ちは起こしてしまいます、これらの本来抑制し平等意識を高めるべき事を、掘り起こしたり煽る連中が妙な社会的な影響力をもちだしたと言うことであり、ではポリコレ(ポリティカルコレクト)はなぜ広まるのかといえば、そのような混乱が拡大したほうが都合の良い個人や企業が、思う以上に多いという現実があるからでしょう。

 

オリンピックなどスポーツ競技大会で女性枠で性転換した男性が出場したことで、レコードが次々に塗り替えられていたり、アメリカでクリスマスやお父さん・お母さん・彼・彼女などの三人称が全て”彼ら”などに一括されたり、これまでと比較して非常識なポリコレが数々と起きています、女性差別についてもかつて騒がれたMetoo運動など、女性へのセクハラ・パワハラが些細な事でも問題化し、先のオリンピック招致員会でも森元総理が理事をおろさせられた件でも、日本にも過剰な反応によるは責任問題化が起きています。

これらのトラブルについて、またアメリカで起きているBLMによる白人系商店に対する暴動など、本当かどうかの前に必ずメディアが介入し、事を大掛かりに助長するパターンはセットになっており、性差別においても本人の主張が優先され、避けられない絶対的性差によってわけられたスポーツやトイレ区別などの習慣的常識さえも、無視されるケースには目に余るものが多すぎるようです。

 

そのたLGBTなど私たちの耳には数年前から聞くようになった比較的新しい概念ですが、アメリカでは最先端の問題とは言えず、日本がウーマンリブなど問題視していた50年ー70年以来から、アメリカでは綿々と続いてきた”一般的な問題”でしたが、それでも白人至上主義など人種差別から性差別など大勢は変わらなかった、数十年で太古から続く男女差や宗教的な習慣はそう簡単に変わる者ではありません、それゆえに突如訴えられ混乱し”守り”に入る人が続出するわけです。

 

しかし、それの反動で攻撃的なバリアフリー運動はかえって不利になるという悪循環も起きているし、既にアメリカでは集団化・組織化した施設団体が影響力を増している現在では、避けられない現実になっているようです、日本は幸いにもアメリカのような訴訟社会では無いため、国民全体がこれまで通りの平等意識と自己責任感覚を、見誤らなければアメリカのように、マイノリティがマジョリティを凌駕するという混乱は避けられるはずです。

ポリコレ過剰社会が現象化しているのは、世界中に存在する自由社会を混乱に導こうとする左派集団が、政治だけでなく社会文化面でもゆさぶりを掛けて、新たな常識化で市民を不安んな状態に陥れる”心理的要因を利用した作戦”であるのは、これらを起こす集団のバックボーンに必ず左翼思想組織がいることからも明白です、ポリコレは本来解決しなければならない政治課題の進行を疎外し、正しい解決策を取りまとめる邪魔でしかありません、いつ誰にでもその火の粉はかかって来ます、その時に毅然と振舞えるか心の準備は必要でしょう。