くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

日本が、海外資本を敵に回し、目の敵にされてしまった経緯

日本人が優秀と言われるのは、決して奢りでも慢心でもないにもかかわらず評価が高いのは、勤勉でウソを付かず細かいことも地道に諦めずに継続できるからであり、日本人にとっては当たり前だと思うことが、一歩海外に出ると意外にそうでも無いことが多いので、ピンとこない人が多いですが、この自給力や繊細さは世界でも極めて希少な”才能”だったりするのです。

それゆえに、海外の人から見れば”なぜもっと自分を優先しないんだ?”とか”休めばいいのに”と言われても、日本人はその間にも連携と努力をし続けて来ました、そんな人が結果的に優秀にならない訳がありません、もちろん天災と呼ばれる人も居るには居るでしょうが、それを上回る”協力”と”努力”を粘り強く続けられることこそ、日本人の秀でた才能となったのでしょう。

 

そんな日本人の”当たり前”と海外の多くの人の当たり前では、大きな差が開いてしまったのは、創造に難くないと思います、西洋から極東の国へ”伝説”となって伝わった桃源郷へ、人が押し寄せて来た時に、その国民性のギャップにまずは驚き、それまで西洋国と殆ど接触や影響を受けていないにも関わらず、西洋諸国に負けずとも劣らない優れた技術や文化、生活の知恵をもって、豊かに暮らす人達を見れば、それはカルチャーショックだったはずです。

中には素直に感心し、リスペクトする人も居たでしょうが、そもそも彼らがわざわざ極東の僻地にまで来た理由は”入植と収奪”であり、元から邪悪な目的であったために、その旅に投資をした人たちは、むしろ都合が悪かった筈です。

 

今では、彼らの都合は私たち日本人にはひた隠され、友好的で教えを乞う相手としてにんちされていますが、そうなった経緯には旧い慣習や知恵を全て消し去られ、彼らの優位性だけが刷りこまれた結果、そうなっただけであって、かれらは聡明な日本人でさえも欺く周到な計画を使って、独自の世界を成立させていた日本を、西洋式に作り変えてしまった、それが江戸期から現在までに日本に残る歴史と言っていいのでしょう。

 

150年前の明治維新からの日本は大きな変革期だった、江戸幕府も明治政府も思いはひとつ”日本のために”ということで一致していたにも関わらず、その思いは徐々に乖離していく、なぜ同じ日本人の間でそのような不幸が起きたのか、今後の日本を託された後世の私たちは、しっかりと理解しその穴埋めに協力していかなければならないのではないか。

 

明治時代以降、日本の人は文明開化という、西洋技術や文化の流入に酔いしれ、これまでの日本のそれが何もなかったかのように、がむしゃらに取り入れていったし、持ち前の努力・向上心で西洋に、追いつき追い越し肩を並べようと粉骨砕身の思いで邁進した。

 

それと引き換えに、自分の国を誇る気持ちとこれまでの技術・文化を引き継ぐ事を放棄した、まるでそれまで日本には西洋より秀でたものが無かったかのように、日本居んとしての軸はブレていなかったのか、それを考えなおす上で

 

江戸時代がなければ今の日本は無い、識字率は世界と比較しても脅威の95%、しかも当時の文字は行書体草書体が能えり前の時代、

江戸時代中期の数学者 関孝和 は、幕府の勘定吟味役として使え活躍、和算が中国の模倣を超えて独自の発展をする上で貢献、1674年延宝2年に発微算法を著し点鼠術てんざんじゅつを発明、ひっ算つまり代数による計算方法を発明、和算の高等数学への発展する基礎をつくった、1681年西洋より1年早く世界初円周率近似値小数点第11位まで算出、

東大の前進を江戸初期に築いた林羅山儒教は中国のコピーでなく日本人による日本人の日本人のための儒教、日本人にために拘った人物

鎖国の間にも出島で開港し、西洋との交流を続けた、白磁の元祖伊万里焼が海外に紹介され独マイセンに大きな影響を与える

ペリーが来航する前からも毎年数多の西洋国が交易を結ぼうとやってきていたが、幕府は全て追いかえしていた、ペリーを追い返せなかった訳はアメリカ事情にあった、南北で貧富の差が大きかったアメリカ、綿花の生産で裕福な南部が、貧しい北部は捕鯨だけ、近海の鯨を獲り尽くし太平洋へ、遠洋捕鯨の給油地として太平洋果ての日本は都合が良かった、断る日本を最新鋭の大砲で威嚇し要件を全て飲ませることに成功、日本は事前に情報を掴んでいたが、1年猶予を取り付ける、沖縄で待機し2回目の際にお台場に砲台を構えていた、が日米和親条約を結ぶ

ペリー亡きあとハリス来航し日米和親条約の細則を定めた、金銀の両替相場を固定相場にする、その狙いは元々日本が世界でも有数の金産出国なのを知っていた米は、何とかして金を合法的に奪取しようと考えていた、

人類が採掘した全金量の3分の1は日本採掘のもの、幕末までは当に黄金の国ジパングだった、

当時の一般で流通していた通貨に金100%小判を使っていたし、庶民が金を劉させていたのは当時の世界でも日本だけ、開港時点での小判の両替相場は小判1枚につき一分銀貨4枚、

イギリス領」香港での両替では小判1枚にメキシコ銀貨4枚だった、一分銀貨4枚とメキシコ銀貨1枚が等価とされたため、日本での小判価値の4倍で香港で取引された、この差益を利用しハリスは日本の金を香港経由で両替、換金差益で増えた日本の金の殆どがアメリカに流出した、結果金が極端に不足した幕府は含有量1/4にした粗悪な万延小判を発行したが、そのおかげで幕府は信用を失っていく、幕府の権威は責任を重んじる武士の精神にあったが、信用失墜で新政府樹立の声が高まる、

アメリカ南部11州が独立戦争起こす、欧州に外債発行、北部は全てリンカーンが建て替えた

建て替えた戦費は日本から持ち込んだ金で賄われた、それに加え南軍は余った兵器等を

日本の幕府と倒幕側官軍に両方に英仏を経由で売り込んだ、その武器で日本は内戦である戊辰戦争をする




戊辰戦争が終り明治政府ができた、江戸幕府の時代に金が大量にアメリカに流出

金欠の日本政府は、金と交換できる紙幣を発行”兌換だかん紙幣”アメリカに比べ、日本では割と早く通貨の信用が確立された

そんな日本が、なぜ江戸時代には武士の給料が”お米”だったのでしょうか?

ある人が、通貨とは政府に信用が無ければならないと言われた通り、日本は歴史を通じて政府に信用が無かったので、通貨がほとんど流通しなかったと仰られる専制が居た

もちろんそれは誤りで、日本初の流通通貨「和同開珎」が708年には鋳造・発行されていた、戦国時代に朝鮮通信使が来日したさいに、日本の旅人は銭を持っているだけで旅の途中で宿泊も食事もできる、日本には銭という大変便利なモノがあるが、わが国には無いので、食料から衣類まで全部揃えて大行列でなければ旅はできない、日本はなんとすばらしい国だ

 

にも拘わらず武士の給料税金でさえお米、なぜか、それは日本は天然災害の宝庫だから

地震台風津波干ばつが頻発、それにより飢饉も多かった、被災者の救助が必要、そのためにはまず食料の確保

そのために地域の武士は収穫期に農民から年貢として米を徴収し保管したが、徴収した年貢米を武士たちは勝手に直ぐに食べてはならなかった、武士だけでなく大名クラスでさえ新米は備蓄古米も備蓄3年モノの古古米から、部下に分け与え食べたり換金して使っていた、それは備蓄限界の2年分までは使わずに、いざという時に備蓄した。

備蓄米=御蔵米を放出して庶民の暮らしを助ける、

戦前の修身の教科書には、日本国内では納税日に支払いを遅れる人が誰も居なかった、年貢米は税としても収めたが、いざという時に庶民に放出し足しにさせた、皆でお米を取っておくその意識の上で納めていた

平安時代にさえ、中間管理職クラスの給料は年収4億円だった、全てお米で支給されるがそれで管轄する地域の住民を賄うために

米を備蓄するのに神社は村ごとにセットされ、その土地のもっとも条件のいい場所・高い場所にあるのは、奉納米を倉庫として納める機能も担っていた

こうしたお米は、ため込んでもせいぜい3年が限界であり、それゆえ資産としては限界が有ったため、独占はできず一定期間で放出するしかない、そのおかげで一部の支配者が至福を肥やすことはできない仕組みだった

災害が起きた時にも対策できるようにする、災害が起きた時に備え日ごろから対策を取っておく、その皆の共有財産としてお米を生産・備蓄するシステムが日本の常識だった。

貨幣経済が無かったわけでなく、それに加えお米を経済の中心に置くことで人々が等しく暮らせるようにしていた。

 

ところが、明治時代になるとお米を経済の中心にすることが困難に、西洋のやりかたに合わせなくてはならなくなった、習って勢はおカネで支払う必要があった為、お米は両替屋で換金し、それを国へ納める必要がある、それでどこが一番大きな利益を得るかと言えば、両替商であり金融機関となる、つまり西洋はこの金融機関に外国資本を入れ、日本国内のカネの流通を引き受けた

現代日本での金融機関は、政府の管轄ではあるが政府ではなく、日本銀行という民間企業が運営すようになっている、株主は非公開だが国内外の資本が投入されているのは公然の事実

 

明治政府ができたばかりでおカネが無い、

昔の日本は旧暦といって月齢サイクルを使った暦だった、1年は12か月だが閏う年は2月に1日修正するが、陰暦の場合閏う月が生まれる、1年が13か月になる年が生まれる、明治初期に閏年がきた時には公務員の給料を13か月支払った、カネナイ払えないため暦を西洋式の太陽暦に変えてしまった、この時から日本は暦を太陽暦採用した。

明治政府は殖産興業で外国から金を取り戻さなければならない、海外に受け容れられるように、物産を国内で生産する必要、

金を取り戻すために、富岡製糸工場で優れた絹や布を生産し、輸出した

造船業もさかんになり、ロシア船舶が遭難した際、日本の漁民がロシア船と同じものを作ってしまったと言われるほど、日本の造船技術は優れていた。明治元年完成の小菅修船場跡など、この頃から船を買うのではなく、作って売る様にもなる

 

幕末に西洋と結んだ条約が不平等な条約だった

、一方的に西洋諸国が有利な貿易は、安心して対等な公益はできない時期に、

明治19年に大変な事件が、ノルマントン号事件和歌山県沖の暴風雨で座礁、英独乗組員26名全員救命ボートで脱出、沿岸の漁民に手厚く保護されるが、その船に25人の日本人が乗っていた、彼らは見捨てられ助からなかった、神戸で海難審判が行われ、英語が分からない日本人は船に残った、この証言が認められ、領事裁判権により全員無罪

不服起き再審されたが覆らなかった

 

経済力・軍事力を強化→富国強兵の誕生、決してやみくもではない

江戸時代以前は喪服礼服は白だった、迎賓館でもてなすのにフランス料理

 

軍事費が認められない中、清国やロシアとの戦争に勝利戦死者も少ないという優秀さ

ロシア白人に勝利した有色人種として世界で注目、黒人など有色人種の憧れの的だが

白人にとって、パリ講和会議で人種の平等を訴えた日本に、農園の地主白人は嫌悪と憎悪を抱く

この時から日本は、西洋列強から疎ましい存在になっていく→敵に回したものの、第一次世界大戦戦勝国日本は、好景気を迎え大正時代に入り、大正ロマン文化栄え、西洋文化謳歌した、その後間もなくして景気は後退、1923年関東大震災、江戸期の震災死亡者は1万人だったのに対し14万人にも登った、直接震災死亡者1万程度だったが、収まった筈の震災後の火災で多くの人が、持ち出した家財に火が回り、火災旋風が多くの命を奪った

原因は火付けと言われるが、当時の日本には放火の文化は無い、つまり外国人による放火であることはほぼ間違いないが、政府は外交を重視し納めてしまった。

 

多くの工場も被災し産業が潰れ、大型の不景気・アメリカのブラックマンデー・冷夏での大飢饉が続く、かつてのコメ備蓄もなくカネだけで賄う社会に、貧困の波が

ワシントン軍縮会議で、米英日選管の総排水量比5:5:3の締結を代表が呑んでしまう、それまでは日英同盟で決められた5:5だったのに対し、米が5でも日英で10と優位なハズが、日英同盟も破棄され、英米同盟が組まれ日本はつまはじきにされ3に。

その後尼港事件や通州事件で日本人殺害がおきるなど、反撃を好まない日本人は賠償請求もせず全部日本が呑み争いを止めようと提案→世界に舐められていく

その後の中国との交渉や戦争の背景には欧米が中国を支えていた→支那事変

日独伊同盟に米は石油輸出を制限→オランダに交渉するも断られ日本は1930年ABCD米英中豪包囲網で孤立していく

かつてのパリ講和会議で”人種の平等を”訴えた日本に対し恨みを持った西洋列強は、日本を完全に封じ込めなければいけない、第二次世界大戦に引き摺りこんだ

対日本への刺客にマッカーサーを送り込む

日本は植民地解放に東南アジア諸国に参戦、英米でことごとく妨害、中国・朝鮮・台湾を再教育するも妨害され、日本を悪の権化に仕立て上げていく…これって今の状況に似てません?

現地の人に教育を与え、独立国家運営の術を伝えた昭和18年1943年大東亜共栄圏大東亜共同宣言という民主国家による理想のアジア経済圏の実現は、こうしてついえた。