くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

日本人なら忘れてはならない事件「日航ジャンボ123便墜落」

情報の収拾が新聞を覗いて殆ど無かったほんの100年程前までは、どの様な異様な事が”実際”起きたとしても、見分できた人はごく一握りであって、せいぜいご家族・近所や小規模コミュニティの範囲でしか、影響力も被害も実益もありませんでしたが、昨今フェイクも含め情報メディアは氾濫し、読者が積極的に収拾せずともプッシュ式のように、嫌でも提供されるまでになりました。

故に、独り歩きした情報が及ぼす影響力は、少なからずの人にストレスの原因担ったり、様々な問題をより複雑にしています、その中で一般寺では根拠を示しにくい重要な裏情報は日本では都市伝説などと称され、その分かり易さやキャッチーな魅力で一般化してきましたが、その一方で火消しに回る発信者がわの”陰謀論者”扱いも周到になりつつあります。

 

「信じるも信じないも、あなた次第です!」

このセリフで脚光を浴びた都市伝説家の番組も手伝って、これまでは本屋の怪しいジャンルコーナーへ恐る恐る行かないと入手できなかった裏情報が、簡単に知られるようになった一方、オリジナル情報の追跡や、フェイク情報の氾濫からの真贋判断も高度になってきています、この傾向は陰謀の当事者にとって隠れ蓑になっているのも現実です。

さて、こうした陰謀論の一言で包み隠される事案、日本で起きたいくつもの大事件の中で、これ程魅了される事故(事件?)はないでしょう、都市伝説系Youtuberで知られるNaokimanさんも、前後編に分けて最新の考察を最近出されている話題、日本航空123便ジャンボジェット機墜落事故の真相、その他の未解決事件、改竄された歴史について考えます。



日本航空ジャンボ機123便墜落事故-真相に関しては、米軍関係者が事故調査に紛れ込んでいたことを意味し、米軍が本事故に関与していた、もしくは重大な関心を払っていたことを示す重要な証拠も含まれるとまで言われましたが、だとしたら彼らが調べていた最先端軍事・災害現場の証拠とは、いったい何だったのでしょうか?当時の首相だった中曽根康弘氏は、この事実は墓場まで持っていくと言い残しているそうです。

今は亡き氏の意味深な言葉に言われるまでもなく、ボイスレコーダが完全体で発見されているにもかかわらず、例外的に全内容が公開されていないなど、様々な疑惑を意図的に起こさんばかりの、超難解な事件であり、有名人や要人なにより多くの一般の方が亡くなられている、数少ない4人の生存者の方も既にそれなりの年齢に差し掛かった今、私たちで明らかにすべきことは山積しているのではないでしょうか。

 

当時最先端技術だった、ステルス飛行物身体が機内から相模湾を撮った写真に写っているという話や、搭乗者にいわくつきの要人や、日本初OS開発陣の多くが乗っていたという事実は単なる偶然か?アメリカの日本への圧力として、伊豆沖で日米がらみの新兵器演習を行っていたとかいないとか、当時多くの小学生が旅客機を負うように2機のファントム機が飛んでいたこと、事故が起きた伊豆沖の海域上は、東京と同様に制空権が米軍の指揮下にある空域であったこと。

情報によっては、何やら撃墜説より恐ろしい裏があったみたいで、直接米軍だった人に真実を聞いた人は、私はこれを観たとき米軍絡みだと直感したそうですし、事故調査委員会が報告した圧力隔壁説が、事故原因の説明として説得力のないことは、多くの専門家が証明済な事実であり、それに代わる説明として、自衛隊撃墜説、米軍F19撃墜説、米軍機誤爆説、etcなど様々な言説が飛び交うようになりました。

 

事故当夜のNHK報道をはじめとするメディアの情報は、極めて混乱したかのように迷走し、結果的に翌日あかるくなるまで墜落場所の特定がされなかったことから、事故現場周辺でどのような動きがあったのか、その時人々は何を見、何を聴いたのか洗いなおす検証は今でも重要ですが、この現場での動きを最も正確に記述していると思われるのは、米田憲司氏が著した「御巣鷹の謎を追う」と言われ、それに加えて情報源について、個人サイト「(新)日本の黒い霧」で初報告となる、同夜現場に入ったサイト主の知人、M氏の証言は極めて独自で、信じがたい恐るべき報告です。

 

まずは墜落地点報告・謎の変遷は、多くの人を混乱に陥れました、123便がレーダから消え、墜落した時刻と言われたが8月12日の18時56分、一方自衛隊ヘリが同機を視認したのが、公式発表で8月13日の4時55分でこの間およそ10時間、海上ならともかく山間部とはいえ、内陸部の墜落地点の同定にどうしてこんなにも時間がかかったのか?自衛隊の言い分は、”測定に誤差は付きもの””現場を確認しても地図に落とすのは難しい”というもの、ところが自衛隊が夜明後最終的に墜落時点を視認する前に、自衛隊自身の観測機も含め複数の現場観測情報が寄せられていて、①峯岡山レーダー12日18:56、②米軍C130H輸送機12日19:19③F4E戦闘機12日19:21、④航空自衛隊百里基地所属V107ヘリ12日20:42、⑤朝日新聞取材ヘリ「ちよどり」12日21:06、⑥航空自衛隊入間基地所属V107ヘリ13日01:00。

また防衛庁発表の墜落地点と報告時刻①12日 21:56、②13日 02:20、③13日 04:39、13日 04:55 ←自衛隊 HU1ヘリが機体を視認した時刻、④13日 05:10、これによりわかることは、自衛隊機ならびに米軍機、報道ヘリが事故発生初期の頃にかなり正確な位置を掴んでいたにも拘わらず、防衛庁運輸省およびマスコミへの公式発表は、そこから西側へ更に離れた地点を指していた点です。

 

また13日早朝③発表時墜落時点に迫ったにもかかわらず、15分後④になると再び墜落地点からまた離れてしまう、それも現場の視認報告を受けたその後にです、墜落地点を中心にほぼ5kmの距離を半径とする円を描けば、各計測地点がその円内、円周上に収まることことから、墜落地点は容易に特定できたはず、また無線機を持った人員を登らせて無線を交わせば、夜間炎上する目立場所を訳なく見つけ出せたはず。

当時これらの公式時間発表が、まるで自衛隊がマスコミの注意を長野側に惹きつけ、意図的に墜落現場から遠ざけてるようにみえると言われたり、尽力した現場自衛隊の無能差を投げかける声もありましたが、これら公表された事実情報だけみても、何より大事な事実は墜落事故現場が米空軍横田管制空域内であり、墜落地点に最も近い航空自衛隊入間基地が横田基地の管制レーダーを共用していることです。

 

しかし公式記録には、横田管制レーダー情報の記載はされておらず、当時国内最高精度のレーダー観測情報利用されていない、つまり録っていても公の事故原因検証には活用できなかったのはなぜなんでしょう、その代わり現場の作業参加者には役立たず揶揄されかねなかったのです。

当然、自衛隊も情報を得ていたがそれを伏せたか、米軍が情報自体を提供しなかったと考えるのが妥当です、確かに軍事用観測器の性能を他国に知られないためとしても、”意図的に遠ざけてるように見える”のは、例えば墜落現場への先行部隊の派遣・工作活動の時間稼ぎとも考えられます、日米関係の現実は前記事でも書いた通り米圧力に逆らえない立場で、情報を止められ可能性もありますが、それなら米軍の目的は何?となり、引用で紹介する当時在日米軍のアントヌッチ氏の証言とは矛盾します。

 

自衛隊防衛庁の不可解な行動が、陰謀論として自衛隊撃墜説を生む要因になりました、し筆者が疑っている日本OS開発者暗殺等の不審に繋がってきます、当時でさえ事故から10年後の1995年、米空軍アントヌッチ中尉の証言により、当時の在日米軍の行動が明るみにされたのをTVなどでご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 

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アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。本証言の検証は次回以降に行います。




「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日

(前文)

撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

 

(経歴)

1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

 

[1]

10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

 

[2]

123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

 

(図:米軍のC130輸送機)

 

[3]

当時、私は横田基地の空軍中尉だった。当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

 

[4]

ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

 

[5]

われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。旋回中に、横田管制が123便横田基地への着陸を許可するのを聞いた。このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

 

[6]

横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。そして123便を捜索できないかと聞いてきた。われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

 

[7]

管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

 

[8]

当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。1時間で到着できただろう。

 

[9]

副操縦士ゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。了解」との返答があった。「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

 

[10]

午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

 

[11]

将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

 

[12]

ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

 

[13]

横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

 

[14]

われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

 

[15]

翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

 

[16]

墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

 

[17]

落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

 

[18]

ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

 

[19]

こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

 

[20]

また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。

(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

 

[21]

私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

 

[22]

1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある

「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」

私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

 

「23」

日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている

 

以上の証言に加え、米田氏が指摘する、アントヌッチ氏の3つの事実誤認を列記します。

 

1.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい

2.[8] 米軍厚木基地には海兵隊の救難部隊はない。米陸軍座間基地のUH1ヘリ

 が救難に向かったのが正しい

3.[5]123便横田基地への緊急着陸を求めていたような証言になっているが、

 123便は操縦に追われ横田からの呼びかけに応じきれなかったのが正しい

 →私は米田氏の3.の指摘は間違っていると思います。理由は次回以降に

  論証する予定です。

4.[19]航空自衛隊は主要基地にF4E戦闘機を配備していたというのが正しい

航空自衛隊百里基地にRF-4(偵察機型)を配備しています。

 

自衛隊員の振りをして撃墜しましたと公安の人間が嘘の書き込みをしていますので注意!! (FBI)

 

------------------------------(ここまで)------------------------------

 

この「アントヌッチ証言」を録った、スターズ・アンド・ストライプ紙は事実上、世界中に展開する米軍の機関紙・プロパガンダ紙だと、理解しておかなければなりませんから、米軍米軍不利な記事を掲載しませんし、証言者のアントヌッチ氏の立場の軍人だったかも注意が必要で、当時中尉(退役時は大尉)輸送機の航空機関士の人でした。下級仕官で任務限定された下っ端であり、何かの勘違いで片付けられ範囲での自由発言でした。

それと、横田管制レーダーは何を捉えたのか?

証言でアントヌッチ氏は「管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった」と語っているのに何故かそのよく分からない場所に、C130機は進路を取って結果的に事故現場に辿り着きます、しかも自衛隊や国内航空機に先行して、横田管制レーダーは当時、国内最高精度を誇ったレーダーである筈が、千葉県にある自衛隊の峯岡山レーダーが、3.8kmの誤差で墜落地点を割り出していたのに、横田管制レーダーがよく分からなかったいうのも、疑惑に足る回答です。

 

普通に考えれば、横田管制レーダーは正確な位置を掴んだ上で、現場確認にC130輸送機を回した筈で、自衛隊もレーダーを共用していたなら、意図的に救助を遅らせたか米軍に拒否された貸しかあり得ません、最悪米空軍と自衛隊が共犯行動可能性すら疑われても仕方ない話です。

また陸の事故なのになぜ海兵隊ヘリがが、最初に救助出動の体制に入ったと報告がありますがこれは不自然であり、国際軍事評論家によれば、海兵隊沖縄常駐するが、常時10人くらいは御殿場に詰めているという説明もありますが、空軍が管制し最初に情報を得ている横田基地から飛ばすのが定石でしょう。

 

また「ヘリで現場に向かい降下を開始したが、命令により引き返した」と、アントヌッチ氏の証言も聞かれています、米軍も例外なく縦型組織ですが、民間人救助が名誉ある行為と考えるなら、先に発見した米空軍が海兵隊より前に行動するのが普通です、ブログ主はアントヌッチ氏は米空軍における「何か」を知った上で、事実を曲げて証言したかもしれません、

1.横田救難部隊のことを海兵隊と言い換えている。

2.横田救難部隊のことは黙秘し、本当にあった海兵隊の事実を伝えている。

ならば、米空軍の関係事案はアンタッチャブルなのかもしれませんが、米軍部隊が救難に向かったが、命令により引き返した」事実在り得そうです、問題は何故引き返させたのかという点が重要です。

 

さらに、自衛隊(日本側)への配慮は本当か?について、「御巣鷹の謎を追う」の中で著者の米田氏は、米軍が救難部隊を引き返させたのは「政治的判断」の可能性があると指摘していますが、面子にこだわる日本側の気持ちを察したとか、自衛隊の立場を鑑みた事情の反映などがあったかどうかと言えば、傀儡日本にアメリカがそうしたかは甚だ疑問です。

さらに、事実誤認にも意図はあったのかですが、空自のF4Eの飛行の事実、墜落現場最寄りの上野村42マイルなど、情報工作の常套手段で気付き易い誤情報で注目させ、情報全体の信用力を低下させるのは在り得ることです。

 

長くなりましたがこの”事故”は、多くの考察において”事件”だという疑惑は未だに減らない、それどころか最近Youtubeなどで一般人による、かなり緻密な検証動画まで出揃う事態になるほど、真贋追及にいとまがない大事件です、最後にM氏の現場証言を引用させていただきます、これら関連記事詳細はソース元を是非参照ください、この事件は日本人にとって決して忘れてはならない、重要な事実ですから。

これが起きた1985年という年は、日本のそして世界にとっても、節目になる事象が多くあった年といわれます、どれとどれが関連があるのか、それは例によって年表で並べてみるだけでは見えてきません、この年中曽根元総理靖国参拝しています、三光汽船倒産もこの年、国鉄民営化の骨子が発表されたり、プラザ合意締結で日本は西側経済の枠に組み込まれ、その後デフレに向かいます、海外ではエイズ撲滅で海外アーティストによるチャリティ「ウィー・アー・ザ・ワールド」が歌われたのも…。

 

1985年とは、今の事象につながるキーワードが散りばめられている年であり、関西がらみの事件事故やイベントが集中したのもこの年の特徴と言えるかもしれません、国内東西バトルの様相です。

とにかく今起きている事象を深掘りするのに欠かせない、政治的経済や国際関係、凶悪事件・地震災害、病気などが始まったのもこの年に集中しています、その意味で特別な年であり、未曾有の航空機事件はその中でも異彩を放っているのです…。

 

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JAL123便墜落事故-真相を追う- 闇夜に蠢くもの(4) - (新) 日本の黒い霧

 

■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 

それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

 

司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。



M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

 

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

 

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

 

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?



M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

 

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

 

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

 

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

 

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

 

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

 

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

 

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

 

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。

(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

 

司会:そこで何を見ましたか?

 

M氏[6]:既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

 

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

 

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

 

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

 

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

 

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

 

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

 

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

 

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

 

セミナー参加者からの質問

 

Q1:4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

 

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。



Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

 

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

 

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

 

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。

(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)



Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

 

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

 

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

 

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

 

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

 

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

 

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

 

M氏[16]:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

 

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

 

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

 

司会:ありがとうございました。



以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

 

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に

 自衛隊員が既に100名程度来ていた

自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた

・4~50名の生存者の声が聴こえた

・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった

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