くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

知らぬ間に…統制社会のノーマライズが未来の現実に

封建社会産業革命時代を経た欧州で、貴族など一握りの特権階級の社会が構築し、自由社会経済の頂点に君臨したアメリカの社会を冷徹に分析した者のことば。

 

工業社会への3つの裏カリキュラム(アルビン トフラー)

・時間を守ること

・命令に従順なこと

・反復作業を嫌がらないこと

この3つが流れ作業を前提とした工場労働者に求められる資質である。

 

私たちが、今起きている社会現象を単に流行として見れば、インスタ映えなど”魅せるための美化”や、女子の脱毛=男子の無毛化もごく自然な現象にしか映らないのは当たり前ですが、これらが流行の強制や性差の希釈化を、意図的につくるための一環と考えたらどうでしょう、皆さんは神経質だとか思い過ごしだとか言いますか?

筆者世代は、はやりすたりで言えば旧世代に当たり、新世代の人達が知らない世界をたくさん知っていますが、高々7・80年の人生で経験できる事で、歴史の流れを実感できるものでは無いかもしれません、しかし少なくともここ100年程の歴史の流れは、日本人として生きる上で、重大な変化が起きていることは、過去の記事で何度も触れてきました。

 

身近な所では、屋台ラーメン屋をめっきり見なくなりましたが、屋台料理で味わっていた別格観は、アウトドア・海外旅行などで楽しむようになりましたし、それに連れ寄りオシャレさやトレンド感が優先され、地元やローカルの良さよりも、都市部や外国のグローバルの魅力に惹かれたり、世界規模のウイルスまん延などの経験で、より非衛生・不潔なものを嫌悪するだけでなく、汚い=悪とまで思い込む傾向で、日本の良き文化や習慣を偏見の目で見るようにさえなってきました。

国内の食文化にも大きな変化が見られます、天然食材 野菜・魚・動物→養殖・飼育・人工食材へ、外資企業参入でステーキやハンバーガーを好むようになったり、その拡大には細菌管理・衛生管理のシビア化が、国内拡大に大きく寄与ししました。

日本発信のエンタメにも変化が、マンガ→アニメ→CGアニメキャラの美形化・ユニセックス+差別排除・多様化などなど、海外の思想や習慣

ニュース・エンタメからの体罰・差別への過剰批判

SNS・動画配信での不快な意見・暴力的発言の嫌悪・排除など…

 

これらは、普段今の私たちには至極自然な流れに見えていますが、性差別・人種差別の扱いなどを含めて、男女の区別と差別の混同や、人種差別撤廃の強要など、本来国が成り立ってきた上で自然に形成されたはずの、男女の役割・習慣や人種間の差別と区別の判断基準も、考慮されるまでもなく、一方的に全体主義の傾向と対策に一くくりにされる不条理を、私たちは整理するゆとりも与えられないまま、無条件に呑まされています。

この傾向は、かなり前から存在していますが、2年前に拡大したコロナウイルスの災害によって、混乱した期間が長期続いたことで、さらに助長されてきたように見えますが、その過程で最も酷くなったのが、日本人が本来から持っていた衛生意識の、更なる強制化や義務化だったのではないでしょうか。

 

ある程度の衛生意識は不可欠ではあるものの、適度な汚れや細菌との接触は免疫機能を最適化するのに欠かせない、にもかかわらず細菌・ウイルス・汚れへの過度な反応→マスク手洗いなど殺菌対策への過剰な関心が、メディアの偏向報道医療機関・衛生企業、組織的インフルエンサーによって扇動される情報環境に、違和感も感じないでどっぷりつかっている現状は、果たして正常な状態と言えるでしょうか。

例えば、昭和・平成以前は、汚いものに本質を見出していたと同時に、美化された物事に嘘くささを見出す文化思想が一般的でしたが、それを知らない世代は理解できないために、当時の思想や文化の本質を考えることなく無視・見過ごしてしまう、それをやむを得ないとか時代の流れだと一笑に伏していいのかは、歴史全体を見て習慣の変化や本質をある程度俯瞰できていなければ、本来判断できないものな筈です。

 

加えて、日本の本来の習性を修正させられるだけでなく、体制が美化・高衛生化・無性差など、これまでの基準が希釈化され、偏向的・制限的な志向が当たり前のように”標準化”されていくという、価値観の変化によって監視社会化は縦割りから並列化して行き、国民同士で見張り合う体制に繋がりつつあります。

また、日本の法整備は国民主導であるべきなのに、実際は裁判制度や人権制度に偏りがあるにも関わらず、日本国民は義務である法ばかりでなく、任意のルール・マナーそして私見的”常識”までも順守する風潮から逃れられずにいますが、これも無意識の圧力の従順な日本人の性質を悪用する事例です。

 

そもそも、義務である法律や任意のルールに順守するのは、社会活動や個人権利平等化に在るはずですが、実際にその条件に即していないルールも含まれていても、任意での判断は認められずに絶対条件かのような空気が常態化している日本は、本来の民主的な日本とは異質なものなのですが、管理する側は本来の法の正当性をうやむやにし、全てを厳格に守らせることで、要は国民をコントロールしたいだけなのです。

その管理者たちが、日本人の生真面目さや潔癖さを上手く利用することで、カメラ監視を容認させ、より体制側の監視正当化へ引き込む狙いが、米中でも拡大する統制派の日本への影響力を高め、統制や監視社会のノーマライズを進化させていくでしょう。