くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

令和という日本の元号が続いている事、それは日本を引き継ぐという事

じぶん以外はだれもたすけてくれない、

繋いでいた娯楽という繋がりが絶たれる、

友人の繋がりの鎖が絶たれる、

助ける人は…周りに居ない、

繋がりが絶たれる。

 

趣味や娯楽が周りから絶たれ、自由に動こうとしても。

娯楽=生きがいである以上は、人とのつながりや家族とさえ繋がりが絶たれる。

利益の有り無しやビジネスモデルによって、カネが動くから企業はウイルスビジネスへ猛進するのが今の社会。

政府も景気向上と感染拡大の両面を同時に満たそうとする。

日本人政治家・起業家は全体主義体制の従順なしもべ…。

 

そんな中でも、人は一生懸命自分の証を示そうと、必死に生きようとしています、わたしはそんな不安じゃない不器用じゃない、無限地獄は在るのか無いのか、フラストレーションのはけ口に生贄探し奔走する毎日。

 

首都は大きく複雑になり過ぎた、そのために東京都の異常なまでの動きは、そこに行動する人を少しづつむしばんでいく、自覚をしても便利さからは抜けられない、日本人が思い出すべきことは、自分が大切にしたい人をきめて行動する、優先順位を明確にして絞って生きること、物理的幸せを満たそうとすれば、精神面が追いつけられて自身を追い詰めていく。

広く視野を持って精神的な充実を探せるか、その充実感のみに集中する生活は、自分が見えなくなりがちなこの時期に欠かせない事、日本人らしい振る舞いに無理していないか、自分を赦す勇気と反省して新しく切り替えていく柔軟さを失わないように。

 

日本人が自信を無くし、行く末を嘆いて自殺者が増えている間に、進んでいるのが外国人労働者の増加ですね、古くは奈良・飛鳥時代には近隣国に人の行き来や入植は、海を隔てていたとはいえ、世界的に見ても十分にされていた日本、その弊害から外との扉を閉じた期間は、その後の日本人の感性を濃縮させていきました、それの善悪の結果を出すのにはまだ十分な時間が必要ですが、近代の日本教育はどうでしょう。

小学生のプログラミング授業の開始も、自宅学習化への布石となってきます、本来学校で学ぶべきものが、単に知識の吸収だけに及ばずに、学校に集うことで対人関係の学習や、集団社会の予行演習をする場であるのに、その機会を奪うことになっていきます、この事実が何を意味するかは薄々お気づきだと思いますが、コミュニケーション機会を絶たれれば、それだけ対人への反応や対応の意味が薄れ、子どもによってはそれが無意味で必要無いと考えるものも出てくる。

 

こう聞くと、VRでのコミュニケーションができるのでは?という人も居るかもしれないですが、VRは最初から視覚聴覚だけのコミュニケーションでしかない、近い将来には触覚や臭覚なども再現できるようになると言われていますが、何れにしても実際に対面してボディランゲージできる環境と比べて、人間本来の繊細な感覚や意識にとっては余りに情報不足出しかないのです。

それでもそういった期間が長期続いて、それが当たり前になってくれば、徐々に全接触可能な時代と比較して、人間の感覚が劣化するのは避けられない、劣化した五感が徐々に常識化していけば、最初に削られるのは自分以外の人間に対する、愛や慈しみといった理性的な感情から削られていくのは自明、残るのは本能的な防衛本能と利己的な自我に絞られていくでしょう。

 

例え、クローズドされた教育環境によって、情緒が働く範囲が狭くなったり、知識だけを詰め込まれる教育が当たり前になっても、今はまだ歴史を…私たちの先達が築いてきた日本の歴史を、大人になってからでも掘り起こす機会さえ在れば、日本はまだまだリブートできるチャンは十分あります。

第二次世界大戦後に、グローバリスト直接はGHQの指示によって、日本人自ら日本の貴重な記録を大量に焚書されて久しい今でも、暗に今言われる歴史だけが全てではない、口伝や昔話こそが太古から引き継がれる、もっとも正確な記憶として引き継がれるならば、具体的な知識は消えても、習慣や思いなどの良き日本の心は失われないでしょう、少子化は今すぐには元に戻せないですが、親が子どもにしてあげられる教えや学び、誇りや温もりを伝えらえるように大人が最低限すべきことは人の分だけある、そしてそれだけでも生きる価値はありますよね、希望は自分で考えて行動し創る、その限り生き続ける事は何よりも優先されるのです。