くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

神はわがままでなければならない

この世に、数多信じられている神が乱立する今、よもやどの神が真の神かは重要ではなく、何を信じて生きるかが、その人の幸せをもたらすと言って良いのではないか、ただしその拠り所は人間であってはならないはずで、例えば自然を万物の神とする八百万の神を信仰する日本であったり、偶像崇拝を禁止するイスラム教であったり、人が人の上に立つ神であったはならない筈です。

ところが、世界には自分の影響力が絶大で有るがために、まるで自分が神であるかのような振る舞いをする者も、残念ながら存在すると思われる事が、陰謀論や都市伝説で真しやかに噂されるのが、現代社会の病んだところでもあります。

 

人は、金を手にするようになって以来、いわゆる拝金主義によって、稼げるものが強者であり、金の性質つまり福利効果を上手く活用して、資産を増やす事が勝者であり、それを超えてくると、神であるかのような振舞いをしてしまうのかもしれません。

つまり、現人神を自称する者たちが増えれば増える程、世界は本来あるべき筈の進化を無視して、自称神による理想の仮想社会へ、ベクトルを変えてしまうという悲しい現実が、起きてしまうのです。

 

その意味において、神はわがままでなければいけない、決して平等などと程遠い素顔を包み隠して、世界はひずんだ歴史をもう既に進行しているのでは、そう思える事が往々にして起きていますが、私達が教えられてきた、少なくとも日本史は近代以降、日本人には不利益の多い歴史を、刷り込まれた形跡があります。

なぜそうなったのか、理由はいくつか考えられますが、最もらしい理由は”彼ら”とは明らかに信じるものが異質な事なのではないでしょうか、それはある意味宗教的な違いなのかもしれませんが、そもそも信仰が異なるということは、価値観から思想・主義主張が決定的に異なることに根ざすためではないでしょうか。

 

日本人は、天皇のみを主としながら士農工商は全て平等とする、江戸時代以前は民主社会が当たり前だったために、国内での大きな争いもなく、江戸時代当時には世界で最大の、人口を誇った江戸という大都市を有していた事からも、世界のそれより優れた都市計画や、治安制度そして、人が生きるため不可欠な米を介在する、報酬制度や税制度を守っていました。

世界では既に金や銀などをマネーとして使い、それらを奪い合ったり、一部の資産化によって搾取され続けたことで、それが地位や身分を大きく左右する、決定的な要素になって居たため、戦争や略奪が金のために無尽蔵に起きてきたわけです。

 

本来神の存在とは、人の業に対して人を超える存在を創造することで、抑止力にする目的があったはずですが、人が人の上に立つという、在り得ない仮想社会が現実化してしまい、いったんそれを認めてしまえば、それは既成事実化し被支配者に刷り込まれていく、それが繰り返されて、仮想と現実が摺り変わっていったのではないでしょうか。

このルーチンが一端成立してしまえば、その悪手を手放せなくなるのは自明の理であり、その歪みがさらに歪みをを産み、だれも習性が困難になってしまった、それを意図的に画策した誰かが、必ずいるということです。

 

私達人類が、ゼロから神を創造したとはとても思えません、その始まりは何か人知を超えた自然現象に神を見出したか、実際に人を超える存在が太古に存在していて、ひとが奴隷や使えることで、それらを信仰化させたのかもしれません。

いづれにしても、人が人の上に立つなどは、神を創造する意味が無い話であり、神を語って同胞をかなりの悪意を持って、騙したからこそ彼らにとって本来の神は、邪魔ものであり人が気付かないうちに、成り済ますことに成功した、それによって神の振りをして一部に都合の良い歴史になるように、仕向けてきたというのが、事実の歴史なのではないでしょうか。

 

結論としては、私達が生きる糧を得るための神は、それぞれの中にあれば良いのであって、自分の外に神を求める必要は、無かったはずですが、いつの間にか人は外に神がいると思い込むようになり、それを利用した者たちによって、不遜の神を崇めるように方向転換させられたのではないでしょか。

それぞれの信じる神があれば、その人は満たされるはずであり、民主主義はそれぞれの判断を尊重するべき社会に欠かせないもの、なのにアンチとして共産主義のような、人格を無視したような唯物主義が、勢力を延ばしてくる時点で、唯物史観の根源であるマネーは、使い方を誤ると、差別社会を正当化させる毒薬の様なものに、なってしまうかもしれません。