くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

すがるべきものと、学ぶべきこと

これまでに、このブログでは今何が起きていて、何もしなければどうなるのか、色んな例や表現で書き綴ってきましたが、ご理解いただけた方には既にどうすべきか、ご自身で考えながら対策の日々に邁進されていると思います。

それでも、うさん臭く感じたり実感がわかない方、煽られるだけで不安がつのるばかりの方、色々いらっしゃると思いますが、当然と言えば当然であり、誰を信じていいのか何を学べばいいのか、半信半疑になることが少なくないからでしょう。

 

結論から言えば、縋るべきものというより信じるべきものそれは自分自身でり、学ぶべきは自分に役立つこと全て、つまりは自分が延ばしやすいことになるでしょう、現在日本で生活している人の多くが昭和生まれで63年もの期間、他の年号の期間が通常30年程度なのに対し、倍の期間がつぎ込まれた年号なわけです。

昭和が倍になった理由は、前の大正が14年と短かったことと、太平洋戦争があって天皇の責務期間が延びてしまったことによると思われますが、おかげで日本人口に閉める昭和世代の比率はしばらく圧倒的に大半を閉めることになりますし、平成・令和時代世代は人口減少が著しいのも、昭和世代の影響力増大を助けています。

 

昭和世代は、戦争から終戦、高度経済成長、バブル、低成長時代とありとあらゆる成功と失敗を経験して来ましたから、圧倒的に経験豊富であり、良い知恵も悪知恵も働くわけで、おかげで、老後も若年時代からの景気状態を維持したいという欲が、なかなか抜けない性分が有ります。

逆に言えば、自分の身の回りが安定していればそれが平和だと思いたいし、それ以外の世代がどのような境遇であろうと、根性と努力でのし上がれると信じて疑いませんし、失敗は全て自分にあると、なかなか心を開かない性分でもあります。

 

あと、年功序列システムが身に染みついているために、人と違うことを極端に嫌うと同時に、人が違うことをすると足を引っ張る傾向が抜けません、今の常識で考えれば明らかに不自然ですが、その違和感を理解できない人が圧倒的に多いため、自分と違うことで才能を延ばそうとする人を異常視して、一緒であることに過剰に安心し維持しようとします。

この修正は昭和以前からも、えた・非人や五人組などという人種差別意識をもち、今まで引き摺って来てはいますが、高齢者人工費が高くなるにつれて、この日本の悪習はのこりつづけるのかもしれません。

 

若い世代は、この強力な強欲な年長組と、事あるごとに諍いをすることになるわけですが、例えば上司や教師にこのような人が居座る環境では、避けて通るとか穏便に済ませるのも限界がくることでしょう。

だからと言って、悪いのは自分だと引き下がったり、最悪自殺を考えてしまうようでは、このハードルは何時になっても超えられないし、成功を目指すどころか、自分の居場所を確保することさえ難しくなるのは、目に見えています。

 

その時に、自分を信じられるかどうかは、人生の踏ん張り処として大きなファクタになりますし、何でも人と同じだったり平均的なのが真っ当な人間だとか思わず、自分の延ばしやすい所から延ばせば良いことに気付いていれば、最後の一線を超えることなく生きながらえられる筈です。

周りの人と同じことをしているのが良いときも、もちろんありますが、そればかりで生活が成り立つものでは無いはずで、特に学業や仕事で自身が努力して費やした時間や労力を、無にされれた日には、絶望しか残らないことは、多くの人が経験しているはずです。

 

ただし、この努力を正当に評価してくれる他人と出会える人は、極まれであり無い人の方が圧倒的に多いはずです、だとすれば最終的に評価判断する人は自分しか残らないことになるわけで、ただ1点客観性をどう保持するかが課題になるにしろ、戦後から続く日本人式の教育環境で育った人は、自分自身を大切にしていいことを自ら放棄する傾向があり、それを今にでもすぐ止めて欲しいのです。

散々書いてきたグローバリズムの根幹には、この人と人との争いをいかにシステマチックに、一方向に優位にすすめられるかの、約束事が隠されていますので、そのシステムに金を貢いで参加させてもらうか、細々とでも自分を貫いて地道に才能を延ばすか、そのどちらかをある時点で選択させられるのが、事実です。

 

彼らは、絶対にどちらを選ぶべきか強制はしません、圧力はかけるかもしれませんが自分で選択させるのです、それが即ち自己責任と呼ばれるもので、自己責任を放棄することは即ち、要注意人物とまでは行かないにしても、行動修正候補者位にはリストアップされるかもしれませんが、この選択は人として生きるか、仮想現実の仮想人として生きるかの選択に等しいことは忘れてはなりません。

すでに、この選択をし終わっている事すら気付かずに、浮遊するかのように生きている人が、往々にして見受けられます、あくまで私見ではありますが、それはゾンビのようにも見えるし、まさに仮想現実社会に相応しく見えます。

 

日本では、オールドメディアによる情報偏重と、民意を反映させない政策を打ち出す政府のコンビによって、専門家さえも騙しつづけ、本来ならば在ってはならない社会=仮想現実の世界に国民を誘導しようとしている、そこから目を覚まして本来あるべきと思える社会に戻すには、それぞれが眠る水槽から這い出して、汚い現実を直視し、その中でもあるべき世界へ辿り着く勇気と決断力が必要です。

それを客観的に判断するには、まずは最も身近な自分自身の、真の姿少なくとも現実の姿を受け入れた上で、そこから何処に向かうのか、それに相応しい時分には何が必要なのか、自分で考え自分で行動するしか無いのではないでしょうか。