くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

お金の要らない社会が実現しないと、今の混乱は無くならない

人類が道具を使うようになって以来、最高の発明は何かを考えると、お金と答える人が何人いらっしゃるでしょうか、お金が発明品とはイメージし難いかも知れませんが、これを本気にして実行してきた人たちが居たのは間違いありません。

その結果が、現在の金が無ければ生きていけない社会になったわけですが、選択肢ではお金を必要としない社会もあり得たはずで、今でもその選択肢は完全に絶たれたわけでも無い筈です。

 

ところが、私たちはその選択肢さえも意識するまでもなく、金は有って当たり前だと条件反射的に妄信するように教えられていると言うことで、当たり前では無いことに自覚があるかないかで、常識への捉え方の違いを測れます。

それはさておき、お金に限らずあらゆることで、こういうものだと勝手に思い込んでいるとすると、それだけで画一化した人生を過ごしているのかもしれないわけで、お金が存在しない必要ない社会は=争う必要が無い社会が前提であるのに対して、お金によって差別化される社会は人は平等ではないと



ところが、仮想通貨社会が一般的になって、物理的な金が流通しなくなったら、それらを造幣していた組織は、製造・管理コストをなくすことが出来ますし、仮想のお金にはきんがくの価値だけでなく、発行者・持ち主・譲渡経歴・などの情報も付加できるため、貨幣流通を科学的に統計分析し、金そのものが無くとも金の存在価値をそのままに、それ以上の支配・束縛効果を期待できるのです。

お金そのものが、存在意義を失っても社会格差は従来通り維持できるわけですよ、金を発明した者たちは、当にこの社会格差を絶対的価値にしたいがために、私たちに金の価値を刷り込んで、金持ちほど有利であるという幻想を、常識化させるのに成功したわけです。



金が無ければ格差もない、そして争いをする必要もないこれが、人類の草創期から今までの当たり前だったはずですが、これからは金が無くとも格差は広がって、格差を更に拡大させるために争いを増やす、この矛盾を好き放題出来る時代に入ったという、厳しい現実が私たちにもついて回るということです。

一部の人達から、ベーシックインカムでお金に困る人は無くせると言われます、たしかにそうかもしれんが、筆者はそんな簡単な話ではないと思えてなりません、お金が定期的に支給され、ある程度であっても生活に困らなくなったら、これまでお金がステイタス出なくなった場合、今度は何をもって個人のステイタスを証明するのでしょうか。

 

一部の、金意外に生きがいを感じてこれた人意外は、途方に暮れることになりかねないでしょうし、その代替としてまた別の評価基準が、新たな格差と縛りを作るでしょう。

忘れて欲しくないのは、彼らが誰であろうと、一度勝ち取ったものは、簡単には手放せなくなると言うことです、彼らなりに苦労してこそぎ取ってきた金と言う名の優位性は、その世界を永続させるためには空気のように不可欠なものであり、金の形がどの様に変わろうと、その優位性が私達に分け与えられることは、びた一文無い、それがこれまでの事実です。

 

金に盲目的にさせ混乱を起こすことで、更に価値を高める、これを繰り返して積み重ねて、今の一つの世界を築いて来たと推測できますが、私たちはその完全社会の仕組みを、普段知らされることが無いまま生きています。

ただ、解らない中でもよく周りを見渡して行けば、その中で何を見つめ何に向かって生きていくのが、より生きやすいのかを、一人ひとりが探っていかなければなりません。

 

表題には、金が無くならないとと書きましたが、本当の意味でお金の役割を果たす何かは、無くならないでしょうが、形が無くなって仮想通貨になっても、お金を払わなくても、モノやサービスが得られる時代になったとしても、拝金主義が無くならないし、むしろ形が無い分、彼らに借りを増やして、気づかぬうちに見動きが取れない、不自由な生活を送る羽目になる人も増加するでしょう。

 

彼らの目的においては、私たちに最も自由を謳歌してもらうのを避けたがるでしょう、個人の自由が最もコストがかかるからです、統制と束縛を繰り返して、悪い言い方をすれば家畜のように飼い慣らしたいわけです。

昨今、国内与党が表現の自由と表現する自由は、私達の欲する自由ではなく、単に自由を餌に無秩序な混乱と錯綜を広げるに過ぎません。

 

筆者や多くの自由を得たいと考える人々は、自由得る代わりに自己を律し、行動するリスクとセットでしか出来ないことを知っています。

野党側の目的が何なのかここでは触れませんが、明らかに本来の自由とは異質なものだと、気づいてもらえるでしょうし、おそらく多くは行動のリスクの程度を計れず、脅しに躊躇しているだけでしょう。

 

日本はほぼ優位いつと言って良い程、現代では最も民主性を重んじる国だからこそ、少々間抜けな主張をする人らでも、受け入れるのです。

それが度を越したときは、堂々と反論し、積極的に止めに入っていいのです、そのためにまずは相手の話を受けいれてから、正す猶予を持っているだけですから、ただその間を彼らは当然のように食い散らかすのです。

 

金の世界をバランス良く保つには、彼らが暴挙に出ない限りは私達がお金を過大評価せずに、必要な分を動かせばいいだけですが、その点は日本人は上手ではないと海外の人に言われるのは、お金の意味が彼らとは違うからなのでしょう。

日本人の本来の社会環境では、お金が中心ではありませんでした、便宜上少しは流通させた方がいいのですが、日本には相互の信用が古くからあって、例えばツケ台帳でまとめて週末月末払いは、数十年前までは普通にできていたのです。

 

300年続いた江戸時代には、金に関するモラルやルールは、今よりしっかりしていました、お上が金融不正を横行していたイメージは、時代劇の水戸黄門辺で付いた偏見ではないでしょうか。

あんなに毎週各地で悪政があったら、日本は今頃中国共産党以下になっていたでしょうwそれに当時の政治行政は、今イメージされるよりもずっとクリアなものだったと、わかってきていますから。

 

あのドラマは今思えば、今ではオールドメディア全体が常行しているプロパガンダや、昔の日本の歴史を悪く見せる印象操作で、当時の政治不正の数々から、目を逸らす意図があったと、今振り返れば実感せざるを得ません。

たまたまだとは思うのですが、あの番組が人気を誇っていた時期には、高度経済成長も重なって、大量のマネーを大蔵省が流した時期で、そのマネーの使い方に不慣れだった日本人の多くが、汚い使い方で欲望を満たそうとした時期ではなかったのか?

 

日本人は、今でも言われるのお金の使い方が下手と言う印象は、そもそも私たちはお金を中心に生活設計をしなくても、十分幸せだったわけですが、戦後に大量の米ドルの恩恵を、受けたかのように見えますが、実際はドルの世界覇権化の、最右翼としてこき使われただけだったのではないでしょうか。

私たち日本人が、本格的に荒れ出したのも、戦後の経済成長期と重なるようですし、メディアはその荒れる日本人像を、後世にまで印象付けするかのように、戦後の悪性を過去の日本全てにおいて、事実化させていないでしょうか。

 

従来お金に頓着が無かった日本人でさえも、金無くしては生きていけないかのような印象を、持ってしまう現代は、世界でなら尚更マネーワールドは絶頂期だと言えるでしょう。

本来モノが動くだけで成立できていた社会が、カネという階級構築システムによって、その地位を築いてきた者は、福利のマジックを空気のように印象付けることに成功し、頂点へと登り詰め、空気のような目に見えない現代の神として君臨しているのでした。