くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

米中の商習慣と日本の商習慣、どちらを選ぶべきでしょうか

日本が本来から持っていた商習慣は、300年も続いた江戸時代のものが、時々雑学クイズなどに出ますが、今でも一部老舗で継承されていると言いますし、金融市場で今は当たり前の、株チャートのロウソク足なども日本独自のものだったりして、こらい本来とても優秀なものです。

日本は、明治から第二次世界大戦後に英米など、現在の国内商習慣の多くは、アメリカ型が主流のようで、その良し悪しを比較されること無く、日本式の習慣やノウハウが積極的に排除された経緯は、あまりにも軽薄だったのではと言えないでしょうか。

 

アメリカ式の特徴はブランディングアップによる、自社価値優先が基本で、最近起業を目指す人が増えた中で、ノウハウとして盛んに広告が上がっていますが、所詮二番煎じであったのか、日本の商習慣になじまないのか、成功者はごく一部でしかありません。

中国はモノの価値を双方でさしで決める、場当たり的な取引が多く見えても、メンツを主体にした血縁やつながりをベースにした商習慣が最優先されると言えますが、その中国との関係のほうが古いためか、断続的な政府関係の中で、日本は独自の商習慣が強くなったと考えられます。

 

ところが、明治以降はイギリスの商習慣、第二次世界大戦後はGHQの操作もあって、アメリカに影響される傾向が強くなったと言われ、公にはアメリカの安全保障の恩恵もあって、資本民主主義を踏襲してきました。

その文明開花と同時に、日本国内では徳川幕府の影響力低下を境に、欧米の政治手法や商習慣が徹底して植え付けられ、イギリス・アメリカの世界戦略に組み込まれていったというのが正直な流れだったのでしょう、しかし日本はその中でも優秀な結果を示していくのです、ただ少々行きすぎて頭を叩かれることになるのですが…。

 

表面はそう言われ、その枠組みで評価されては来ましたが、一方では当時のソ連や設立間もない中国共産党の思想に影響される準備が国内で準備され、多くの知識人が影響を受けることになり、裏では自由主義と相反する統制思想が着々と虫食い始めることにもなります。

地政学的に太平洋西岸に覇権を広げようとする共産連合と、太平洋東岸から共産勢力を抑え込もうとしたアメリカが、極東でにらみ合う形になったわけで、太古から日本の存在位置は、勢力図の境目にある国として位置づけられてきたとも言えます。

 

当然として日本は両者の商習慣の違いの間で、右往左往させられることになったわけですが、日本は両者からの規制や抑制を何の疑いもなく呑んだために、板挟みになって、どっちつかずになってしまいました。

日本の商習慣を捨ててしまったり、両者の商習慣をどちらにも器用に立ち回ろうとしますが、そんなことは絶対に無理ですから、本来は日本式を堅持したまま、間を取り持つのが正解だったはずですが、そうしなかったのは、失敗だったでしょう。

 

肝心なのは、失敗後どのようにリカバリーするかですが、各国は過去の戦犯責任を根拠に、リカバリーさえ認めさせないように、要所を抑えてかつての優秀だった日本の復活を封じ込んで来たわけです。

戦後70年以上もの間に挽回のチャンスはあったはずですが、とうとう戦後現役派の政治家や学者起業家はそのチャンスを反故にしたぶん、日本経済の立て直しと関係者の保全を選んだと言う事なのでしょう。

 

これからを生きる人たちにとって、今後も諦めずにリカバリーを試みるか、諦めてアジアの、諸国の一国として無難に永続していくかが、問われていますが、日本人に植え付けられた気質からして、後者に甘んじる選択をしそうです。

ただ、日本が低迷していく一方で、日本が演じてきたアジアの防波堤役を、他のアジア国が担うことになりますが、中国は世界は自分のものであって、初めからアジアの一員と言う意識はないので、他国で言えばタイやベトナム、台湾ということになるでしょうから、そのどこが日本の代役を担うと考えれば、私たちは自分たちが果たしてきた意味を、静かに省みることができるのではないでしょうか。

 

各国が持つ商習慣の違いは、突き詰めれば国の威信をどうかけて商業戦で戦うかということですから、商売をする土地はこのグローバル時代にあって、新規開拓の余地が存在しない地球上で、残されたパイの奪い合いをどこまで続けるかのためだけに、どこまで争い続けられるか、それを楽しんでいる者が傷口を広げようとしていないでしょうか。

国が存続するするための生依存競争、それは海外進出を西洋国が始めた時期から始まっていましたから、途中参加の日本にはその分け前を受け取る余地は無かったりのかもしれませんが、国とは異なったその垣根を超えた存在が、混乱を糧にして新たな収入減を作り出そうとしているかのようです。

 

その中でも、日本はアジア圏統一と言う高尚な目的があったはずで、その高い志を西洋国に商圏の掠め取りと妬まれて、徹底的な潰しにあったのが先の大戦であり、戦後はダメージを解消しようと高度成長を図りましたが、米中の妨害にあって思うように実力を発揮できないまま、人口が目減りしてきたということです。

果たして、私達が世界に与えてきたものは単なるカネだけなのでしょうか?高度成長期を謳歌した分の対価を、どこかで返さなければならないと言わんばかりに、近隣国はそのカネに群がってきますし、そのカネはアジア共同の商圏づくりにバラまいてきても、そのカネで太った国からは、何も見返りがないどころか、土地や技術だけでなく人権まで奪おうと迫ってくるのですから、これは何の禍なのでしょうか。

 

皮肉にもコロナ禍という、おそらく人為的な禍によって彼らの不等な行為に目覚め、傀儡国を使って周到に脅しすかして、一方では友人の様な顔ですり寄ってくる国家や資本団体が、もっとも世間知らずな日本に対し、ゆすりをかける姿がハッキリした時には、抜き差しならない状態になってしまっている、身の回りの人間関係と何ら変わらない事が、国同士で起きていることに実感できなければ、この国も終わりです。

ただ、日本人は最後まで決して諦めてはいない気がしてなりません、少なくとも先人がそうであったように、せめて桜のように一花咲かせて、散り際は有終の美を飾ってからでなければ、終われないのではないか、その諦めの悪さを日本人は持っていると信じています。