くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

政治的組織が横行する世界が科学的事実を歪め・隠蔽していく

一般的には専門家側は、報道発表を根拠に論理展開するわけですけど、NHKをはじめとして報道側が事実を報道しているように見せかけて、一部しか報道しないことで、多くの視聴者が勝手に誤解していく様を見て、多くの人が批判を始め出しました。

特に科学を根拠とした事実の説明が徹底して不十分なために、抽象的だったり曖昧なまま事実を知り得ない市民は、だろう・かもしれない程度の説得に影響させられてしまうわけです。

 

その意味で、日本でとんでもない嘘がまかり通ろうとしている、これが現実でその現実は、まずオールドメディアのニュースでは報じられない、唯一経済のリアルを報じざるを得ないテレ東の経済番組であっても、数字を根拠にしなければならない分、必要最低限の情報は伝えても、解説員のコメントはどうもパッとしない。

考えれば、所詮メインスポンサーは日経で、その日経はさらに裏を返せば他の民放と同様に、経団連とその影響下にある民間企業がパトロンである以上、安易に視聴者目線の意見は報道できるはずがない、ということなんでしょう。

 

ならば、スポンサーが居ない国営のNHKはというと、経済関連団体からの影響力を避けられない政府が、パトロンである時点で言うまでもなく民放と大差ないばかりか、民放以上に潤沢な予算を思うがままに番組制作に使える分、工作情報の幅も大きく、更にタチが悪いと言えるでしょう。

その全ては”合法”という名の基に、経緯を後悔されることなく、国民には出来るだけ目立たないように法改正をしていきますが、その全ては日本経済が発展するために、企業価値を上げるのに避けられない手段と言わんばかりで、その恩恵が目減りしてようやく末端の従業員に届くか届かないか程度です。



温暖化を食い止めるという科学的に不公平な根拠を、社会にばらまいて共通問題化させようとする意図は、自然保護や地球環境を保全改善するものでなく絵、むしろ人類の雇用機会を多様化させ、人工的生産性を高める行為の正当化に過ぎない。

もし、本気で地球温暖化を憂いているなら、人類が生産性を弱めエネルギー排出量を減らさなければならないはずが、環境問題ビジネスはむしろその逆を実行するもので、矛盾に触れようとせずにその正当化に大金を投じて一般化しようとしている時点で信用に値するものでないのは明白。

 

子どもから見て、大人は平気でウソをつくと言われるのは、立場を正当化するために、周りの正常化を捻じ曲げている様を、彼らは見逃さないからであって、その矛盾への答えを出さないまま大人になった子どもの末路と言うしかない。

その子ども達が無事に成長しても、世代別に比較すればどんどん多数決に必要な数が、目減りしていくのは避けられず、日本はこのまま多数決社会で回っていくのだろうか、と考えると末恐ろしくもなります。

 

大人の中にやたら真実と言うキーワードを多用する人がいるが、筆者に言わせれば真実など存在しないのであって、あるのは事実だけである。

言葉遊びをするつもりはないので補足をしておくと、筆者の定義は事実とは文字通り科学的に基づく、誰が見ても変えようのない情報を指しいて、真実は一般的には哲学などで使われる根源を表すものとされるが、そもそも筆者はその根源とやらに、散々振り回された口なので、そんな不確実なものはすでに信用してないし宛にもしていません。

 

その立場から言えば、世間にあるのは事実だけであり、真実とは事実を信念や場当たり的な都合で、勝手に解釈した加工情報に過ぎないと言う事実でしかない、という他ない。

その証拠に、胸に手を当てて考えれば、結構な頻度で不安になると無意識に真実を求めたくなっている自分に気づく、つまり逃避であり責任転嫁にもなり得る他人依存でしかないと気づいて以来、安易にこの言葉は使わなくなったのでした。

 

こうなったのは、今話題に出やすい例で言えば、武田邦彦氏のような科学者の意見への影響が多いし、科学は自分を裏切らないし自身の歪みを教えてくれる事が、最も信頼性に繋がっていて、政治的な難解なフィルターに惑わされずにモノを見ることができました。

その分、風当たりも強くなるし客観的な自分を見るという辛さもあっても、それさえ認めれば、改善の目処が見えて来る、むしろ無駄がなく、つまらない誤解で遠回りしなくて済むからで、逆にその分ブレ無い自分は大きな武器になります。

 

事実と真実を混同して使うのは論外としても、敢えて真実を使うならば物事を追い求める過程で、矛盾や嘘に気づき、結果事実にたどり着く、そのきっかけとしてあり得ると言って良いかもしれません。

筆者は、その真実を求めるために陰謀論にのめりこんで、どれだけの不毛な議論や空論を戦わせてきたか、そういう人たちを目の当たりにしてきて以来、あまりのアホらしさに滅多に真実を追わなくなったことで、空いた時間は事実を精査する方に回すようになった分、いくぶんかは効率は上がったと思っていますし、その当時よりは有意義な時間の使い方が出来るようになったのも大きいのでしょう。

 

その観点では、真実の幻影を追い求めすぎると、事実が見えなくなる怖さを知っておく必要がないだろうか、その誤りへの1番地に踏み込む時は、答えに迷ったり不安になっている時であり、大抵は自分を納得させる真実とやらには、たどり着けないのがほとんどです。

余程哲学的なルールに精通している専門家であっても、結局はそのルールの中の鳥でしかなく、その檻から抜け出せないばかりか、世間の空気を忘れ理屈の迷宮にハマって、実社会に役にも立たない屁理屈をたれるのが関の山でしょう。

 

しかし世の中には、その真実を創り上げる資金力と影響力を持った誰かが、存在してしまうのがもっとも怖い話であり、その存在によって事実は工作され、歪み、白を黒にできてしまうのならば、庶民の我々にはどうしようもないのかもしれません。

ですが、その現実を受け止めた上で、事実を明らかにしてそれだけを支えに生きる姿勢は、決して無駄ではなく、本来の人間のあるべき姿だと、信じているのですが、どのようにお感じになられますでしょうか?