くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

東日本大震災・津波被害から10年、原発稼働再発論への提起

今年3月で東日本大震災から10年の節目に、多くのメディアで特集が組まれ、コロナ禍の中にも関わらず、少なくない地域で関連イベントが行われました。

その中で、小泉純一郎菅直人元総理大臣が、外国特派員協会が設けた記者会見で、外国人記者からの質疑に答えた動画を見ながら、筆者が思ったことを今回のテーマにしたいと思います。

 

小泉氏は、現役当時は経産省の意見を丸のみしていたが、退任後独学にて原発稼働推進に疑問を持つに至り、現在では日本においては原発無くとも、電力量枯渇が発生していない事実をもって、今後も自然動力由来の発電開発で需要は賄えると持論を展開しました。

片や震災・津波による福島原発事故当初、総理を勤め多くの非難・責任を求められた菅氏も、当時の自責の反省を重ねて、国内原発の再稼働は既得権益の温床でしかなく、稼働の必要性はないと主張しました。

 

今でも国内原発再稼働の是非には様々な意見が交錯していて、上の元関係した要人の責任追及や、根本的な主張否定を弱めない意見も多い中で、改めて彼ら反対派の意見に耳を傾けると、いま日本が置かれている立ち位置において、考え直さなければならないと感じます。

両者はもともと政治家としては自民・民主と袂を分かつ関係であったにもかかわらず、それぞれの関わってきた政治的な立場とは関係なく、同じ結論に達しているのは興味深いことです。

 

元々原発推進派の自民党を離れた小泉氏が言うように、経産省東京電力の思惑から自由の身になって悟った反原発の想いと、原発稼働の危うさと制御が如何に難易度が高いにもかかわらず、党として問題提起できないまま、政治家判断の難しさ身をもって経験した菅氏の、立場を超えた意見は新鮮です。

現役政治家が被る、しがらみや政治に束縛されないそれぞれの別の経緯・立場から反原発に至る彼らの主張は、今の政府が警告する電力量枯渇への経済損失への警告を説き伏せられるか、興味深いうえに新たな議論の必要性を再認識させるものです。

 

原発事故から10年、ここまでくると当時とは違って技術もさらに発展したことで、日本国内の範囲では脱原発での経済発展は、まんざら不可能では無くなったと言ってもいいかもしれませんし、グローバリズムで推奨される環境配慮にも繋がるのかもしれません。

一方で、国内与党の意見方針では、世界の脱原発化とは真逆の原発無くして今後爆増すると言われる電力供給に対応できる、現実的な発電手段は無いとして、コロナ禍解消後には増税と合わせて原発再稼働化への政策方針を増していく動きにみえます。

 

世界ではSDGs推進による、グローバリズムの一貫であるエネルギー開発の世界統一目標が掲げられ、多くのリアリストが指摘する低炭素動力源による発電技術の開発を、欧州先導で本気で目標達成を遂げようとしていますが、その勢いは経済では投資筋には前向きな材料であっても、技術家にとっては極めて非現実的な目標です。

原発は、制御面の不完全性と事故時の危険性をクリアする課題を残しながらも、もっとも脱炭素系発電では実用域で実績のあるものだけに、LNGガスを使用する効率的な火力発電と共に、無くてはならない発電として私たちが恩恵を受けているのは避けがたい事実です。

 

この春に電力料金が総じてガス料金と共に値上げがされることは皆さんご存知かと思いますが、本来大手電力会社の企業努力を多少増すだけで、値上げは回避可能なハズですが、現実はコロナ禍での需要増に核心的に値上げを断行する、建前上はか今後夏に向けて例年跳ね上がる電力消費量への牽制となっていますが、実際はその手の問題は一年以上前から予想し対策済のはずで、対策設備投資にかかったコストペイをにらんだ、値上げ量の定点観測的な意味合いの値上げを敢えて断行したと考えられます。

本来ならば感染被害の経済的損失や生活困窮の時期に、値上げをすること自体が同化と思いますが、電力料金自由化で大手以外で新興企業同士のパイの食い合い次第で、価格をさらにあげる余地を量っていると考えられ、メディアを通して電力の価値を最大限高める準備を進めているのもグローバリズム手法の便乗と言って良いでしょう。

 

グローバリズムの本流は、世界に資本投入している投資家の資本増益へのメリットを最優先させるための投資動機の多様性開発であり、SDGsがそのもっともまとめられた最良の目標として造られた経済成長プログラムの消化にあります。

これを世界共通の目標とすることで、困難で実現不可能とされる目標により現実味を持たせるのが最大の目的で、その姿は一見して誰もがイメージする未来像と都合よく重なる点でも、違和感なく受け入れられてきました。

 

その世界が進める同時目標の進行に対して、世界でも最先端の技術力を持つ日本は、日本という狭い範囲での脱炭素化は原発抜きでも、需要に答えてこれることを実証していますが、その範囲を世界に広げることは、他国の様々な思惑や国策国益の前では、あまりにも非力であり、他国からは分相応でないと見られがちです。

さらに、世界列強国からは日本の高い技術は欲しいものの、日本自体の世界進出は国益を侵害されかねず、素直には容認出来るものでは無いわけで、これを赦せば世界大戦前の大東亜共栄構想の復活の二の前になりかねないわけですから。

 

これまで積極的に国内外から、中国への日本の傀儡化や無能化を進めてきた中国共産党の動きをみれば、その思惑は明確に読めてきますが、彼らでさえ日本の技術力の高さを評価し、その技術を学ぶ振りをして、中国国内に多くの日本企業を呼び込んで、最終的には私物化することに成功しています。

その技術力を得た中国でもエネルギー問題には石炭火力や原子力は今後も発展させる計画であり、脱炭素系の再生エネルギー開発にはネガティブな姿勢であることの変わり有りませんし、炭素系燃料を生産可能な大国であるアメリカ・ロシアにあっても、生産国の優位性を捨てることが出来ずにいます。

 

SDGsが、非生産国で始まった上の大国らの優位性を奪うリーサルウエポンとして、主力化させたい思惑が、そもそもエネルギー開発の根幹的な動機と原動力であることを、まず忘れてはいけないでしょう。

エネルギー問題は、単に環境への影響力の有無という綺麗ごとよりも、国益のシェア争いというドロドロの私益が最優先されている現状がある限り、効率の良い開発や統一ルールは成し遂げられない、厄介な問題を含んでいるということです。

 

その中で、日本は世界で唯一時代の主要エネルギー技術の元となった原子力技術制御と危険性の犠牲者です。この歴史的現実で得られた様々な統計データは、二次関数的に増大する未来社会を支える電力供給を、皮肉にも大きく発展させる貢献をしたことになります。

言わば世界の未来をになうエネルギーの可能性、その唯一の被害者となった私達日本人が、せめて国内だけでも、世界をおいて独自路線のエネルギーインフラを普及させるべきか、犠牲を乗り越えそれでも世界貢献を是とするべきなのか、日本の立ち位置は綱渡りの様相を呈していると言って良いかもしれません。

 

どちらに舵を切るにしても、それ以前にグローバリズム推進派や中国共産党傀儡派に振り回される政策現場・環境を何とかして振り切って、日本らしさを主張できる政策を一つでも多く可決させていく必要が急務です。

東北震災津波であまりに多くの被害者を産んでしまった、現況になった核技術の扱い方・姿勢に関しては、核爆弾の実験にされた広島・長崎同様にその立場でしか語れないスタンスを、このグローバリズムの嵐が吹き荒れる世界の未来環境の中で、どのようにすれば日本はその中での役割をになえるのか、綺麗ごとだけではない本音の意志と、行動力を示す節目に、この10年目であり令和も3年目の今年に忘れてはならない日本人らしさでは無いでしょうか。