くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

武器放棄という危うさ、無理ゲーを強要される世論を見直そう

終戦記念日とは、日本人にとって記念とすべきか、忌むべき日とするか、記念日という表現はそもそも適切か、という問いに対する答えを出していないまま今日に至っている課題ともいえます。

近年では終戦記念日という表現に疑問が呈されいる意見もあって、終戦の日などと呼ばれることもありますが、8月15日は、前日14日にサンフランシスコ条約で連合国軍に日本が敗戦を認め調印した日の翌日であり、日本国の象徴となる天皇玉音放送が国民に流された日と言うことです。

 

ですので、筆者は日本人にとっての終戦日はこの日で問題ないと考え、国民が負けを認めた反面教師の意味での記念日とするならそのままでいいと考えますが、当然この解釈は日本独自の者であったとしても、人によって考えは様々ですので、その意見は尊重します。

要は、日本人にとっての戦争をしたことへの様々な事実や思いを、毎年考えると言う点ではむしろ終戦月間としても余りあるほどの重みが今でもあると思っていますし、忘れずに様々な意見を、後代に引き継ぎ徐々に昇華されるべきテーマとすら思います。

 

この考えは、世代と共に変化していくのもアリだと思いますし、過去の人間が強要すべきものでもありませんが、事実と当時の国民の思いは可能な限り正確に伝える責任はあるでしょうから、特に戦争を知らない子どもたちが大半を締め出した、これからは注意が必要です。

平和を願うと同時に、戦争が悪にして仕掛けてはいけないしさせてもいけない、これらはピンゾロの様に揃えてしまうと違和感なくもっともらしくなるものの、果たして相手の様に武器を用意せず身体一つ差し出して戦争を止められるとも思えません。

 

戦争とは最低限2国以上の考えが異なる者同士の対マンであり、決まったルールは存在しない、起こす二極が何をかけて戦うか、国民の総意か一部の政治独断かその如何によって、歴史にその評価は変わっていくものでしょう。

それを一国が、たとえその国にとっても正義だとしても、完全に悪と決めつけることなどだれも求めていない中で、戦争全てをご犠牲者側の目線に回って全否定できますか、ということも言えてしまうわけです。

 

それほど戦争とは人間故の複雑な面と、 どちらかに負けを認めさせるまで止めないという本能的な面が混在しており、負けを認めた以上は被害者側が何を言っても変わることは永久にないという現実は知っておいた方がいいでしょう。

 むしろ、日本は同時にさばかれたドイツの様に、莫大な補償を払ったわけでなく、むしろその異様さの意味に、もっと関心を持ってその代償を考えるべきですが、被害者への十分な保障を政府さえ出来ていないまま、戦争の本質を反戦だけに解決策を求めるのには、無理があります。

 

また、戦争当事国の周辺国や関係国は、加わったり巻き込まれることがあり、加わったとなれば武器を持って勝つために協力する義務に駆られるという現実があるわけで、そうなれば予定外の莫大な費用がかかるため、よほど計画的に準備されても、経済成長にはダメージは不可避、国民生活も疲弊はさけられません。

 さらに、武器の使用が前提で、軍人が死亡する場合と一般人が死亡する場合では、戦争の同義や周りの評価が異なってくるし、仕掛ける側の周到さによって、開戦の予測が困難で、いくら避けたいと思っていても、不利な戦争に巻き込まれる現実もある。

 

中には、戦争を市場拡大の好機と判断し、参戦せず利用すればその逆が可能で、第一次世界大戦時の日本、日中戦争のころのアメリカの様に漁夫の利を得る国もでたり、戦後の米ソが、その後の局地戦争で武器供給で莫大な利益を得たという尾ひれもついたり、昨今の経済戦争のように戦争の本質は、国の主義主張というよりカネや経済活性化のっ目的が強くなっていると言うことは理解しておくべきです。

 

第二次世界大戦以降だけをみてみても、戦争の意味や体裁は形を変えてきているなかで、日本の戦争観は、あの8月15日の真夏の日のまま、変わることなく引き継がれているようで、一見尊いこととみる向きも出来ます。

ただ、それはあくまで犠牲になられた先人にたいする悔やみであり、武器の所持を拒むことそのものに固執し、この先同じ犠牲を生み同様の後悔をしないための防衛力さえ放棄する風潮がまかり通るのとは次元の違うことです。

 

戦争をする意思表示云々とは別に、最低限国を維持するための軍事力は確保しないと、日本と同じ戦争観を持たない国の方が多い中で、日本は攻めやすい国であり国民の総意としても自ら滅亡を認めたのと同じのなってしまいます。

しかし事実は、国家存続上あり得ないことで、国の繁栄の動議に矛盾するし、なにより憲法上どこにも戦争を拒むための戦力について放棄する宣言は存在していません。

 

 筆者は、それを知った後しばらくの間は、それを知っていて放棄を訴えるのは、持てることを知ってしまうとまた日本人は舞い上がって軍拡するような、おごりを自重するためにそうしていると思い込むようにしていました。

しかし最近はどうやらそうでは無さそうだと思うようになっていて、つまりそう思わせておいた方が都合の良い国や思想組織の働きかけの結果、国を存続させる最低限の備えをカネだけで解決させようとした動機にも繋がってきたのでしょう。

 

日本が過去の戦争を通して、ある者には単なる資源・労働力確保の植民地の価値しかなかったのに対し、ある者にとっては日本の日本人の根底にある才能と、付加価値を見抜いたことで、新しい価値の相乗効果を見込まれたのかもしれません。

日本人の中には日本は世界で最も優秀な民族だと疑わない人は少なくありませんし、それは単にポジティブシンキングと考えればそれもアリかもしれませんが、筆者が見るだけでもまじめで協調性が高く、身を削って尽くす性質は、高く評価されるべき特性だと思っていますし、それを誇りに思い必要ならば武器をもって生き残ろうとする意志は、人として十分に正当性アリだと思っています。