くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

AIが暴き出そうとする、チグハグな大人と教育

前回のAIへの基礎解釈をもう少し現実の課題と混ぜて考えると、最先端とは言わないまでも、次世代の基幹産業を支えるAIへの考察を深める教育は始まっていて、高校の授業あたりから、商業とAIの関わりをざっくりと理解してもらう目的で、導入されるとのこと。

もちろん、これでAIの何がわかるのかは実験段階というレベルではあっても、一歩を踏み出したことは大事かもしれません。

 

一方で、歴史教育のトンデモで歪んだ教科書判定基準の存在、数学の基礎応用の稚拙さは、世界の教育基準から日本のそれを迷走するかのように評価されるのは、新しい文科大臣の施策が順調でない現れかもしれません。

日本の教育は、筆者が現役の頃に疑問を感じていたように、学歴重視の永続保証を信じさせるという、今思っても不自然なものでしたが、時代が変わる中でその流れについていけない教育制度は、もう私達にとって支持する価値のないものでしょう。

 

 当時でさえ、暗記型で実社会への応用が難しい知識の羅列のような知識は、結局AIによって変わられていて、生活の基礎にするには知識をつなげて、何が実社会で必要かどうかを見極める必要があったにも関わらず、その見極め方は自分で編みだすしかありませんでした。

そうです、このノウハウは戦後誰もが平等に生きる事に精一杯だった時期、そのどさくさの中で考えて行動してきた人にとっては、今の平和が幻想であり温い虚飾にしか見えなかったでしょう。

 

日本は、その温さに余りにも浸かり過ぎて、生きることが厳しさの中から見出すことだという現実を、平和を永続することだとすり替えて、歪めてきたからこその教育が、その後の子供に引き継がれていったということらしいです。

良い会社に入るために、が基準で学び学閥のコネクションを最重要にした事で、より大学のブランド生を高め、その評価基準で成功を保証する、この仕組みは教育野菜の元に造られたビジネスモデルでしか無かったということです。

 

一方で、世界基準は、自立するための基準によって、構築された個人主義主体の成功モデルが主流であったことで、日本の人材は特殊な市場として見られてきたし、世界のビジネスシーンで評価が微妙なのはそのためでした。

今になって、その違和感に気づいた意識の高い親御さんは、我が子を海外に留学させたり、国内では一定数の帰国子女を生み出して来ましたが、その成果は正しく生かされる事は稀で、結局国内の学閥ブランドを高めるために費やされただけでした。

 

子どもの教育とは、正常だった時代から何も変わっておらず、政府が育てるものでなく最も身近な親が自分自身を見せて我が子を育てる事に他なりません。

見栄やブランド価値を、必要以上に刷り込まれた子たちがやがて親になった時に、我が子にしたのはある子どもは虐待に遭い未来を諦めなければならなかったり、ある子どもは親のつくったレールを踏み固めさせられたり。

 

恐らくは多くの親御さんは、経済力の許す範囲で無事に我が子を自由な未来の先へ送り出しているでしょうが、主張に度が強い親御さんが少々影響力の高さゆえ、偏った教育を無理強いするためか、不自由な未来を押しつける結果になっているようです。

その結果、今の子に振りかかっている災難のオンパレードが、見事に再現されていのは、なぜなんでしょうか。

 

ひとつは、本来の教育よりも重い教育理念をゴリ推しする教育関連者にエゴであるかもしれないし、または多くの誤解や偏りに気づかないまま、我が子を育てている大人の無知であるかもしれませんが、多くは子育てがもっと単純な原因によってされるはずの事を、余りにも複雑に考える人そのものの奢りにあるのかもしれないですね。

その単純なこととは筆者が思うに、親も子も同じ平等な人であり、子どもは純粋に好奇心を伸ばし、大人はそれを邪魔しない、ただそれだけ。

 

その実現は人の境遇で千差万別であり、価値観で差別される現実はあるにしても、子どもの好奇心が失われ無い限り教育は成立するはずですし、大人は彼らの前に存在するだけで、わざわざ教えずとも教材になっているのです。

残念ながら、存在自体が見透かされることに都合悪い大人が少なからず居ることが、多くの教育問題を支えてしまっているかもしれませんが、AIはそのフタをしたい大人の悪事を、子どものような純粋さで暴き出し始めましたが、彼らは子ども程大人に寛容では無く、あらゆる事実だけを冷酷に見せつけるだけ、一部の大人に嫌われるのかもしれません。