くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

「誰が殺した……」と、親殺しのタイムパラドックス

「誰が殺した、クックロビン?」

 

このフレーズは、筆者世代には無意識に踊ってしまうフレーズとして刻まれている名言の一つですが、当時一世を風靡した新進気鋭のマンガ家、真矢峰生さんが世に放った「パタリロ」にも使われたセリフとして、頭に焼き付いています。

先生の作品は当時ではあまりに異端で先進的過ぎましたが、やっと今になって再注目されているのは、時代の先見性故でしょうし、今回はこれを掴みにその先見性に迫るべく、SFチックな現実にチャレンジします。

 

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「クックロビン音頭」が世に出たいきさつ - Togetter

 

筆者だけでなく、このフレーズにピンと来る人も居らっしゃるでしょうが、これはご存知の通り「マザー・グース」の物語で使われた、一節に登場する、意味深な言葉であり、その背景は諸説の歴史事実が基だと言われます。

さて、幼少時に多くの子どもが読んだであろう物語は様々な解釈がされますが、筆者が思ったのは、次世代の引き継ぎ手が未来を創っていけるかどうか、私たちはあまりの多くの宿題を抱えていて、これを基に起きる悲劇は、多くの人が自分の人生を少しでも”良く”生きることとトレード、つまり引き換えに起きる現実です。

 

つまり、太古の伝説を生んだ時代から現代まで、クックロビンという被害者は今も後を絶たないですし、その最も多くのいけにえはいつの時代も、子ども達に降りかかってきたのであり、これからも変わることはないでしょう。

人は、自分が生きるために本能的な衝動で他人を殺しますし、今はその行動が犯罪者の身をもって償われることは、多くの国で無くなっています。

 

未来を語るうえで出てくる「親殺しのタイムパラドックス」というたとえは、日本に住む私達には、ドラえもんのマンガにも出てきましたし、海外でもSFの重要なテーマとしてテッパンの仮説となっています。

しかし、そのもし……が実際に起きるのか、気づかないだけで起きているのか?を、私たちが自覚することはまずまずないのでは?と感じてしまうのは筆者だけではないと思うのです。

 

その理由は、私たちが事実存在し生きていることがそのすべてですが、そもそもその現実をないがしろにしてこの仮説は意味をなさないと筆者は考えているので、その実のある「今、そこにある真実」を知ってもらいたいのです。

では、なぜ人類はこのような無意味な仮説を思いつくのでしょうか?それは一種の現実逃避だったり、人類が出来うる化学進歩の臨界点を感じた挫折感かもしれないですが、いずれにしても私たちはもっと多くの時間を、こうした妄想をムダに創造するよりも、目の前の現実を受け入れる、その危機感と行動の方が大事だと考えます。

 

或る一部の人達は、この手の仮説を事実のかように見せて、仮想現実を現実かのように認めさせようとすることがあるようですが、そんなインテリを自負する彼らでさえ、その見果てぬ仮想夢から目覚められぬ現実があるわけです。

ただ、一般の人々よりも大金を使って、少しだけ先の現実や未来を知ることが出来ているだけであり、それをもっともらしくするために、さらに大量の資本をつぎ込んでいる以上、何としても元を取らなければならない現実と、闘っているだけでしょう。

 

そのもっともらしい現実世界に、一般の私たちは便乗しなければならない義務はあるでしょうか……何か現実的な見返りが無い限り、なかなか悩ましい大人の事情ですよね。

もっと突っ込んで意見すれば、子どもとは私たち大人が本来あるべき姿に戻る可能性を与えるために生まれてくるとも言えますし、自らが背負った十字架を軽くする贖罪の浄化をしうる、唯一のチャンスなのではないでしょうか。

 

私達人間には、分相応という現実である十字架を背負って生きることを、自ら課すように決められていると同時に、いくら理詰めで未来を予測しようとしても決して、実現することが無いように出来ていると思えてなりません。

人が歴史を記録し出して以来、知的生命としては大して進化することが無かった事実が、それをなにより物語っていますが、陰謀論的に表現すれば神のテクノロジーを盗むことは出来ても、それを超え創造できなかった以上、未来の”IF(もし)”をあれこれ思いあぐねても、現実の未来に変化を感じることはあり得ない、と思いませんか。