くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

エコ活動とエコビジネスの境界線

 環境問題というと、何となく無条件に正義であり追従しなければならないという、強迫観念にも似た思いに突き動かされるイメージがありますが、おそらく日本人が最もその罠に堕ちっているのかも知れません。

罠という表現をしたのは理不尽かもしれませんが、この一見無条件に善業と見える問題への参加は、必ずしも前向きな結果を出しているとは限らないようで、日本で今も続く温暖化やエコ活動自体の効果は、この数十年の間で努力しているほどの結果を出せずに、むしろ日本の消極性として世界からバッシングされる有様なのは、何故でしょう?

 

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【2020年新年号】環境問題で驚かされ続けた1年=新政権の方針転換も大いに影響=批判浴び続けたサレス環境相 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

エスカレータを逆走してるかのような、この不思議な感覚に焦燥している人も多いかと思いますが、今思えばしてきたことは良いことをしているという満足感のためだけに猛進したに過ぎず、逐一全治的な効果と周りの反応に目を配れていなかったということにならないでしょうか。

私たちは、常日頃から積極的にね便利な通信ネットワークで情報を収集に勤んでいますが、便利さだけを利用していながら問題解決への成果については、全くといって良いほど無関心だったということです。

 

その上で、いくら我々は頑張りましたよ!とアピールしても響かないのは、因果と応報のチェックを怠っていたからだと考えると、エコ活動が何故に始まったのかは単にベルマーク運動の延長線上でしかなかったし、マイペースでも努力をすれば報われるという思い込みの結果ではなかったのか、と結論せずにはおれないのです。

加えて、他人から与えられた問題の最適解を限定して導こうとする癖は、教育制度の悪影響でもあり、そこで叩き込まれたルールをひたすら守り、それに従うことが正義だと思い込んでいる現実に決別する必要は無いのでしょうか?

 

この課題には、多くの意見がありそれは正しいかもしれませんし、単なる誘惑なのかもしれませんが、それは選ぶべきものであり単に信じ込めば解決するものではありませんし、その解決策は政府が持っているのでも、会社が持っているのでも、親が持っているのでも無く、自分が持っているのです。

つまり、選択の自由の中には選択と行動の責任が生じる限り、その責任を避けて選んだものは自由ではなく、その放棄の選択であって依存に過ぎません。

 

一見誰もがCO2削減に邁進するのが正義だとする一方で、その効果に疑問を投げかける意見が強くなっているわけは、この削減問題が人知の及ぶところでは無く、長期的な地球のサイクルの一環でしかないことを知っておくのも、視野を広げる良い機会になると思います。

所詮は人の影響力が地球環境にどれほどのものかを正確に示す統計は、存在しえないですし、その行動が示す結果を私たちが生きているうちに知ることはできない現実は、今まで世界を誘導してきた人々には我慢がならないのかもしれません。

 

 

この大きな違いを無視して他人のルールのに付き従うことは、良く陰謀論で捲し立てられる奴隷化社会と何ら変わりないことですし、この束縛から逃れるには、例えば環境問題でも一から情報を自分なりに複数集めて、妥当性を見出してからの行動が求められます。

私たちは、無意識のうちに行動の自由ばかりを求めながらも、思考の自由を自分から放棄して行動しがちになっているようですが、情報に追いまくられて、自分を見失いがちなのならば、他人のルールと自分のルールの違いにどう責任を負っていくかを、よくよく考えた方が良いのではないでしょうか。

 

人間は地球上で他の動物に先駆けて、生物的欲求以外に知的欲求を取得していることで、それを満たそうとあらゆる想像力を駆使して、もっともらしいことを行動しようとしますが、環境破壊への贖罪意識が単なる妄想なのか事実かに迷っている間に、それを様々利用しようとするものも出てくるでしょう。

大局的視野で物事に投資するもののなかには、その迷路作りに投資して利益を増やすアイデアを現実化することも可能であり、その中で生きるのも自由ですが、迷路を逃れて生きるのも自由ですから、環境意識に留まらず他にも課せられた課題に参加するかしないかの選択も自分が決めて行動する自由まで自ら放棄しなくても良いと思っています。