くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

正当な評価のゆくえ

 引用記事のように、愛知の芸術活動を普通の目で評価されるのは、ある意味救われますが、今回の公金利用に不可欠な手順を取り決め通り行わなかったことによるトラブルは、本来の趣旨を大きく誤解される問題に発展してしまいました。

愛知県民としては、突然降りかかった難事には気持ちの整理と地域催事のもたらす、公的な理解と主催者側の姿勢の乖離が起こす、大事な課題を見せつけられました。 

 

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閉会のあいちトリエンナーレ、不自由展を本気で美術批評してみる(関口威人) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

その中で、毎年秋に行われる愛知の名物催事である名古屋まつりが、雨も心配される中一部メイン行列が省かれてしまいながらも、予定通り週末に始められたのは地域の住民にとって幸いでした。

 

毎年台風の時期に行われるリスクがありながらも、ほとんどが開催できていたこの一大イベントは、特に台風被害が集中した今年のにおいて、暗いムードを少しでも明るくするのに大きな効果を上げる期待を、担っています。

他の地域でも週末台風によって、祭りや運動会など日本人の憩いの機会を、中止に追い込まれていただけに、特別な思いが出てしまいます。

 

日本の四季がはっきりしていることが、日本人の歴史や情緒を形成し、豊かな自然と共生する日本人のおおらかさと、独特の感性を作り上げたことは、世界においても希有であり奇跡に近いことかもしれません。

私たちはその奇跡によって、豊かで独自な文化や技術を作り上げるに至ったのは、当に自然の摂理への感謝でしかありません。

 

そうして形成されたと考えられる文化や思想は、めぐみと繁栄をもたらした一方で、国内で起こる意見の違いや多くの偏見も生み、その一つとして今回のような思想の無理押しを問題化させたことも事実として認めなければならないでしょう。

日本人は、太平洋戦争以後国の在り方や日本人の誇りを統制され、自らも自粛してきた経緯があって、本来の真面目さから地道に切磋琢磨してきましたが、世界情勢が一大勢力が2大勢力に変わりつつある、大きな流れの中ではアイデンティティの自覚を求められるようになっています。

 

ここ数十年の国内での教育や意識の方向性は、戦争反対と思想の自由化によって舵が取られてきたように思いますが、ここに来て自国は自国で守るべき事実を突きつけられたことで、安全なカゴの中で正論だけを主張できる時代ではなくなっているのは、皆さんもご存知の通りです。

その結果、社会ではいじめや不正について、平和には自衛の方法についての課題に、ようやく向き合わざるを得なくなっています。

 

この流れは、若い世代はもちろんですが、今まで社会の発展維持を担ってきた主力の世代に於いても、否応なく答えの変更を求められつつあって、単にステレオ的に第一党を槍玉に挙げていれば、通り過ぎていた問題を一から見直す必要にも迫られています。

その変化において障壁になっているのが世代交代のできていない、人口の歪から起こる主力意見の世代交代がスムースに進まない現実です。

通常なら10年から遅くとも30年を目処に、あらゆるジャンルでの勢力の世代交代が起こるものですが、主力の高齢者層の現役延長化で、意見が未だに世代交代できない課題を残してしまいました。

 

国民の私たちの感覚からすれば、高齢者になっても長く現役で働いて生活を安定させたいのは譲れない希望ですが、いざ意見の優位性は世代引き継ぎや譲位は予定通りに進まないと、社会の正常な運営に支障が出てしまいます。

このジレンマを少しでも解消するには、生活上の権利と仕事上の権利を分け、ある程度のルール化が必要なのかもしれません。

 

働きすごだと海外から揶揄される日本人の仕事への取り組みは、会社でも残業やそれに支障になる個人行為をタブー視してきたのを、徐徐にノー残業デーや定時帰宅を推奨するような、時間による企業管理体制の脱却を、まだ問題を多く抱えながらも変えつつあります。

この変化や努力は、最終バージョンではないにしても、今までなかった時間による量から成果への質の意識へと、日本の仕事の取り組みの変革に貢献していると思って間違いはありません。

 

かつて日本の様々な経済や歴史において、まつりごとは重要な節目となったり、変革や世代交代の認識を促す、とても大切な行でした。

もちろん天皇の催事にもあるように、その継投は維持されている所もありますが、そのまつりごとが単なる祭りごとのような娯楽だけの意味に変わってしまったことは、日本人の作り上げてきた、優れた継承システムへのアンチテーゼとnなりつつあります。

 

特に戦後からの教育方針は、そうした日本にはなくてはならない重要な慣習を形骸化させたり、娯楽化させたりする妙な偏りがあったように思いますが、今私たちが世界と対等に発展していくために、日本のアイデンティティを一人一人が、世間に流されることなく、自覚して正しい世代交代をしていかなくてはならない。

ただでさえ引き継ぎ手が減ることが分かっている今、その対処をシビアに行える姿勢と制度づくり如何によっては、この素晴らしい日本の存在感が薄れも濃くもなっていくのだと思うと、身の引き締まる思いがしてなりません。