くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

教師の人権が守られることは、児童のそれを守るに等しい

この事件の真の経緯と事情は、他者の筆者には想像の域を出ませんが、児童のイジメにとどまらず教師や親御さん同士でも起きるイジメの事実は、何を意味するのでしょうか。

私たちの未来を担う国の子宝を、親御さんでさえ守るのが難しくなりつつあるかのような、報道の数が教育そのものを過剰に複雑化させているように見えますが、その根っこはどうなんでしょうか。

 

www.kobe-np.co.jp

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201910/0012761354.shtml

 

 陰湿な大人同士のいじめがクローズアップされたこの事件は、改めて日本独特の村八分気質への課題を、私たちに突きつけてきました。

同じ市民でも幸運にもこうした事件に関わることなく、生活している場合だと課題認識に疎くなりがちで、本質的な理解からも遠ざかるケースは否めませんが、連日のように重箱の隅をつつくように報道されるこれらニュースは、敢えて馬耳東風せずに習慣として受け入れる姿勢や意識が、大事かもしれません。

 

時に発信者の意図とは異なった「ななめ読み」的な記事解釈は、私たちに真実を学ばせてくれるチャンスとなることを、知っておくとポジティブシンキングがしやすくなります。

一見ノイジーで雑音紛いのニュースの氾濫は、ある向きには有益なものでも私たちには混乱と不安しかし与えてくれないように見えますが、敢えて懐に飛び込む勇気と知恵は、これからの混沌化する情報社会を生きる大事なスキルになります。

 

では本題にもどりますと、そもそも古くから日本人は世界的に見て平等な社会が標準化されている珍しい国民ではありますが、それでも完全ではなく村八分や五人組などの市民間での監視の慣習が受け継がれ、隣の大陸や半島からの人や慣習が大きな影響力を与えてきました。

そのために本体の素朴で需要的な良い意味での守られた島根性が、限られた土地の中で大陸の思想やルールに振り回されてきた事実が、悪しき島根性として今も引き継がれ、人との関係に悪影響を起こしているのが現状です。

 

意外と無意識ではありますが、同じ日本人としての共通意識は少しずつ変えられ、多生の違和感がありながらも看過しがちですが、実際につながる人間関係は思うより複雑で、歴史的にも文化的にも多様性があって、この小国の中でひしめいていることを、大人は特に深く自覚しておく必要があります。

 それを踏まえた上で、大人は子どもたちに接する行動をこころがえけなければならないのに、残念ながら大人が社会不安を広げる触媒になっていますが、子どもは大人の言葉よりも行動から無意識に学ぶために、悪循環になっているようです。

 

 これらの報道を、課題として見るよりも娯楽番組として見ないまでも、BGMのように聞き流してしまう習慣があったとすれば、黄色信号と解釈する必要があるかもしれませんが、大人も人の子とは言え全く子どもと同じ目線で過ごす自分があれば戒めたいものです。

この時に思い起こしていただきたいのは、本来素朴で平和を好む日本人としての気質の面を軸にして、行動できるようにコントロールすることですが、同時に来るものは拒まずの気質が時には、防衛のために相手を思わぬ窮地に陥れる行き過ぎた行為に及ばないよう気をつけて行動することです。

 

その自己抑制は、時にはとても困難で自らを追い込むことも往々にしてあるでしょうが、キリスト教徒でなくとも人には分け隔てなく試練は付き纏うもので、どのみち人為的に回避できるものではありません。

その現実を受け入れて、それぞれの人生に照らし合わせて咀嚼しながら、子どもを守ることが大人の仕事ですから、時には逃げたくなるかもしれませんが、時には自分を赦しながら自分を労わりながら、それぞれの軸のある生き方に、誇りと自覚を持って行動を示していきたいものです。