くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

愛知で起きた芸術の意味を問う騒動

県主導で4年に一度開催されてきた、あいちトリエンナーレの本年度の出品に日本ヘイトを目的と推される作品がメインに扱わたことで、イベントそのものの目的や税金使途の価値について、多くの日本人から物言いが付きました。

政府文化庁が認可したこのイベントの準備進行の過程で不正か極めて不明瞭な確認手順を是正すべき課題を作ったことで、安倍新政権の組閣では文科省大臣に萩生田氏を宛て、課題の洗い出しを始めています。

 

www.huffingtonpost.jp

文化庁、あいちトリエンナーレへの補助金不交付を発表 萩生田・文科相「相談あれば寄り添って対応していた」 | ハフポスト

 

問題発生時点では、イベント趣旨賛成派が相当に湧き上がりましたが、その主たる者が左派主義の意見者が多いと筆者は見受けましたが、注意したいのは現在ではこうした思想分類は複雑になっていて、分類は統一された判別は非常に困難になっているということです。

かくいう筆者にしても、一概にどっち派だと明確に説明できませんし、関心の薄い人を除いた他の多くの人でも、明確に立場を主張できるほど傾倒している人は少ないでしょう。

 

この事実を逆手に取れば、極左とか極右と言われる際物思想を持ったわかりやすい人々を除いた場合、その見極めは極めて困難で、むしろ都合のいい思想に誘導しやすくするために、その姿を見せない人々の方が多くいるかもしれないということです。

 実際にあいちトリエンナーレの騒動で沸いたSNS書き込みには、一般の個人的な意見の中に便乗組が少なからず居て、特に左派による思想の正当化・誘導、民主主義のすり替え意見が優先的に表示されていて、混乱の基になっていた事実からもわかります。

 

元々筆者が左寄りに傾倒して宗教や政治に対し、あれこれ小難しい意見を持っていた経緯がありますので、今は辟易していてもその道理は理解できる立場ということもありますが、いかに目線の公平化といいますか、均衡を取ることが難しいかを肌で感じたのです。

日本人の多くは平和を好み、争いをよしとしない人たちで、この傾向は世界的に見てとても稀有な条件ですが、こうした平和活動がなかなか実を結ばない背景は、日本が主張する平和像と海外諸国の描くそれとの、大きなズレがあるのかもしれません。

 

その一番の要素には、戦後からの被害意識を平和願望と混同していることが挙げられると考えられ、実質的にアメリカの思惑の縛りに従わざるを得ない日本が、国内のさまざまな新興市場や経済システムの事象実験場として機能した近代の日本では、今後も左と右との熾烈なシェア争奪戦が続きそうです。

そして、その対抗するための外固めに都市部への国家予算が集中投入する流れが、地方活性化を送らせて国内経済の均衡を生み、全体の活性化に歪みが出ていることを前提に、私たちは日々前向きにまちおこしをしていかなければならないのですね。