くろま流 × NAGOYA式 ブログ

東海・名古屋からまちおこしヒント探し始めて、結局国際経済のしくみに行きついた

これは国家の持病ですか。国民の当たり前を政府が理解できない事情

東電の経営幹部への、鹿島原発被災への無罪が決まりましたが、この判決は自明の理であると考えられ、それに加えて今回の台風15号被害復旧の遅れと合わせて、電力会社への体質見直しを問題視すべきでしょう。

日本政府が、環境依存しない理想的な発電として採用した原発事業が、一度の大地-大津波が起因しただけで全国全廃にまで至ったのは、国と電力事業者の完全な計算違いだったことでしょうが、その後も科学的根拠の基づいた対応さえおぼつかない有様からも、危険物取り扱いを誤ったようです。 

 

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千葉の停電は「的外れな議論」が多すぎる | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

その最も失敗に至った原因は、住民の声を十分に吸い上げることなく、国と事業者の独断により見切り発車された事実に他なりませんが、後になって噴き出すのは自明の理ですし、未だ彼らは (厳密には当時の)予測しなかったのを言い訳し、しがみついていますが、これも容易に想像できた話です。

しかし被災者にとってはそれは関係ないことで、免責されていい話ではありませんし、そもそも判決基準が本来『想定』でなければならないのに『予測』できないになっていることが論理破綻しています。

 

この裁判の本来の目的は、当時の東電側幹部に災害の「予測」ができたかどうかではなく、「想定」できたのに準備しなかったことへの裁きであるはずですが、途中経緯は定かではなくとも、できもしない「予測」という予言と同義の行為が争点にされているならば、この裁判は振り出しに戻すべきです。

つまり、「予測」か「想定」か争点の表現方法はバリエーション豊かな日本語では、複数の言い換えが可能で、私たちは言葉遊びともとれる「想定」の可否が判定基準ならば、そもそもできるはずがない行為を裁こうとしているだけで、それなら筆者が裁判官でも同じ判決をしていたでしょう。

 

結局無罪という結論を国民に示す経緯にあって、裁判所がどのように関係していたかは示しようがありませんが、被告人の弁護側やましてや今回の様な国の責任にも及びかねない案件には、ざる抜け法のエキスパートがたくさん付くとも考えられます。

それ以前に、既に8年も経ったいまでさえ、加害者側の対応は粗末なものでしたので、ここで加害者認定が解かれれば、今までの保障不足は合法化されチャラなわけですから、明らかに不等で東電被告側に圧倒的有利です。

 

政府関係者(元も含む)の中にも原発推進で少なからぬインセンティブを得たものもいたでしょうし、事を穏便にしたい派が重要ポストにいれば推して知るべしで、そのメリット狙う政治家を選んだのは私達であり、口惜しい限りです。

さらに、原発の安全性が担保されなくなったのは、局所的に起きる自然災害が引き金な以上、直接被害を受けない人が、その都度では圧倒的に多く、これを引き合いにされ、国が行動しない理由にされているかもしれないとなれば、もう病気そのものです。

 

一般的にも、例えば職人さんのような専門色の強い仕事に就く人は、なかなか専門以外に意識がいかないと言いますが、もしかして法政行務も同じなのでしょうか、だとしたら私たちは大きな勘違いさえ、していることになります。

それなら、そうした者たちにも解る様に伝える・訴える方法を、私たちはトライアンドエラーで実行するしかないのでしょうが、一方で日本国民を専門職ととらえることも正当化できてしまいますね。

 

政府の大きな責任転嫁と些細な国民のそれの積み重ねが、責任を大きくしながら永久に解決しないループ問題に成長し、厄介な「日本の持病」のような迷路を作ってしまった原因を考えましょう。

財務省は、この諸問題に「緊縮財政」を理由に黙秘を続けように見えますが、その沈黙が続くかぎり免罪されることなく、ツケけは私たち国民の子孫に受け継がれていきますが、財務省が自らの呪縛を解かずに、企業の減税見直しをせず、国民への増税だけで凌ごうとするつもりなのでしょうか?